四話 仮面舞踏会【マスカレード】
仮面舞踏会の会場へ向かう馬車の中で、私は落ち着きなく、指先を組んでほどいてを繰り返していた。
胸の奥がざわざわして、心臓の音がやけに大きく聞こえる。
今日のために入念に、そしてさりげなく準備を進めてきた。
「……本当に、来てしまったわ」
呟いた声は馬車の揺れにかき消される。
後悔しているわけではない。
けれど、これまでの社交とはまったく違う場所へ足を踏み入れるのだと思うと、緊張しない方がおかしい。
今日は、いつもの私ではない。
ウォーゼル男爵家の次女でも、ダリアお姉様やジャスミンの姉でもない。
フローラお母様の娘でもない。
一人の『仮面をつけた女性』だ。
用意したドレスは屋敷にある中でもなるべく目立たない色合いのもの。
装飾も控えめで、宝石も最低限だ。
結婚相手を、交際相手を探したい私だが……さすがに会場の空気感がまだわからない。
今回は初参加であり、いわば敵情視察のようなもの。
いや、現場視察……? まぁ、そんなところよ。
膝の上に置いた仮面を、そっと指でなぞる。
顔の上半分を覆う、落ち着いた意匠の仮面。
これをつけてしまえば私が誰なのかはわからなくなる。
何度か家族にバレないように鏡の前に立ち、チェックを済ませた。
我が家は使用人が少ないため、自分のことは自分でするのが基本だ。
貴族とは名ばかり、と言いたくなるが、そこは男爵家。
生まれた時からそうなので別にそこに不満はない。
いや、生まれた時からの環境に対する不満といってしまうと別にあるのだけど。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように小さく息を吐いた。
やがて馬車が止まり、御者の声がかかる。
私は一度だけ深呼吸をしてから、仮面を顔につけた。
視界が少し狭まり、世界が切り取られたような感覚になる。
「……行こう」
パーティー会場の扉が開いた瞬間、夜の空気とともに華やかな音楽が流れ込んできた。
「……わぁ」
思わず息が漏れる。
会場となっているのは、王都の中でもとくに大きな催しに使われる建物だった。
外からでも明かりがあふれ、笑い声や音楽が途切れることなく聞こえてくる。
王都に来るだけでも気圧されるのに、この会場には圧倒される。
ウォーゼル男爵家の小さな領地は王都から、ほどほどの距離にある。
だから、こうして馬車で来られなくはない距離にあって。
そういうところも、かつてフローラお母様が残した武勇伝の一端なのだけど……。
今そちらは置いておいて集中しよう。
会場の入口では、仮面をつけた人々が次々と中へ入っていく。
ドレスの裾、燕尾服、色とりどりの仮面。
誰が貴族で、誰が平民なのか、外見だけでは判別がつかない。
覚悟を決めて、会場へ足を踏み入れる。
中は想像以上だった。
天井は高く、無数の燭台と魔法灯が柔らかな光を放っている。
音楽は軽やかで、楽しげで、耳に心地いい。
人、人、人。
それぞれが仮面をつけ、思い思いに談笑し、踊り、飲み物を手にしている。
笑顔も、表情も、仮面越しだというのに、不思議と生き生きとして見えた。
「……本当に、身分がわからないのね」
というか、想像よりもずっと大規模だった。
もっとこう、アンダーグラウンド感が満載の煙にまみれた、あやしい社交場かと。
いえ、それは招待状に記されていた会場の時点でそうではないとわかっていたんだけど。
ここまで大規模で華やかということは、少しは安心してもいいのかも?
主催は伏せられているけれど、王都の一等地をこうして使用できている以上、どう考えても
高位貴族か王族が関わっている催しだ。
実は貴族たちの結婚の難しさについて悩んだ王家が、こうした機会を作ってくれているのかもしれない。
私は別に主催がどこかなんてどうでもいい。
ウォーゼル男爵令嬢で、あの両親の娘で、あの姉妹の次女ということを忘れる。
ここでは誰も名乗らない。家名も、肩書きも、爵位もない。
話す内容も、態度も、自由だ。
それだけで胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
私は壁際を選んで歩き、まずは会場全体を眺めることにした。
いきなり誰かに話しかける勇気はまだない。
中央では、すでに踊っている男女がいる。
仮面越しに見つめ合い、楽しそうにステップを踏んでいる姿はどこか夢のようだった。
……恋愛結婚。母や父が理想として語る、それ。
ここなら、私にも可能性があるのかもしれない。
「……緊張する」
独り言のように呟きながら、給仕が差し出した飲み物を受け取る。
グラスを持つ手が少し震えているのがわかった。
これまで社交の場では、私はいつも誰かの後ろにいた。
ダリアお姉様やジャスミンの影。彼女たちがいれば注目はそちらへ向かう。
表に立ってもどうせ注目されないから、自分から後ろに下がっていたのよ。
でも、今日は違う。ここでは私しかいない。
「……ちゃんと話せるかしら」
誰かと目が合うたびに心臓が跳ねる。話しかけられたらどうしよう。
うまく返せるだろうか。
それでも不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
怖いけれど、同時に胸の奥が高鳴っている。
期待、なのだと思う。
仮面舞踏会。
ここは、私がずっと求めていた場所なのかもしれない。
誰にも奪われない出会い。誰にも邪魔されない時間。
「……ここから始めるのよ」
私はグラスを胸元に引き寄せ、ゆっくりと会場の中へ踏み出した。
緊張と期待を抱えながら。
この夜が、私の人生を変えるかどうかは、まだわからない。
それでも。
仮面の下で、私は確かに前を向いていた。




