第3章 御堂真理
「……桐生君……どうして……」
衣笠が感情のない目で真理を見ながら告げる。
「特段おかしな事ではないと思うよ」
「……所長?」
「人は皆、生まれた瞬間から希望を抱えて生きている。理解したい、されたいという諸元の欲求。だけど、理解をすることもされる事もない。点が交わることはあっても、線として交わり続ける事はない。短い希望と、長い絶望の繰り返しだよ。そしてそれは、観測者からするとただの誤差範囲に過ぎない」
まるで生成AIのように、丁寧だが温度の感じられない口調。
「桐生君のケースも彼が特別なわけじゃない」
衣笠の目が一つの“夢のかけら”を捉え、無造作に手に取る。
「これは“たまたまここにあっただけ”というだけの、知らない誰かのどこかの人生。だけど、覗いてみたら……」
一瞬大きな光に包まれ、気づけば真理は衣笠と共にその人生を“観察”していた。
両親に見守られ、生まれ出た命。彼女は何も見えない、分からない闇の中で必死に“何か”を求め、やがて産声という息吹を上げる。
少し体の弱い彼女はそれでも両親に見守られ、すくすくと育つ。しかし、彼女の内面は違った。周りの子供達のように早く走る事ができない。置いていかれる自分が情けなく、悔しい。毎年、運動会で自分と同じグループになったと知った時の男子の反応が心に刺さる。涙を堪えながら、毎日学校に通った。
思春期になり、気になる男の子ができた。思い切ってバレンタインの日に告白した。男の子は複雑な表情を見せた後、目の前でチョコレートをゴミ箱に捨てた。心が、引き裂かれた。
女子大に進み、何となく手に取った求人案内に応募して就職が決まる。別に、その仕事をやりたかった訳じゃない。自分がどんな仕事をしたいのかすら、よく分からなくなっていた。でも、周りも両親も「良かったね」と言ってくれる。
仕事はつまらなかった。どうでもいい事を延々説教したがる先輩、理解があるフリをしながら、提出した書類を全部作り直す上司。毎日、心が擦り切れていく音がした。
知人の紹介で知り合った3つ年上の男の人。優しくて、自分を理解しようとしてくれた。結婚し、子宝にも恵まれた。やっと幸せになれた、と思った。
ある日、夫がベビーベッドの子供に語りかけていた。寝かしつけてくれているのかな、と思ってそっと覗いてみた。“あ〜あ、俺ももうちょい考えて結婚すりゃ良かったなあ”。目の前が、真っ暗になった。この人は、何を言ってるんだろう?何も、信じられなくなった。
月日は淡々と流れ、今日も彼女は家事をこなし、笑顔で子供と夫を送り出す。職場では憂鬱な時間が待っているのだろう。彼女は心の扉を閉ざしたまま、玄関の扉を開く。
周りの景色が収束し、衣笠の手に戻った。真理の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「桐生君のも、本質は同じだよ。自分の理想がある。でも、現実は追いついてきてくれない。それどころか、思いとは全く別の方向に舵を切る。ただ“安心”したいだけなのにね」
衣笠が続ける。
「“本当はこうじゃない、こんなのは嫌だ”。その思いはね、“こうありたい”っていう願いよりも遥かに強いんだ。その思念が積もると、宇宙のあり方を変えるほどの力になる。だから僕のような存在が生まれた」
「……」
「僕の役割は至ってシンプルだよ。“夢”を叶えること。とは言っても、荒唐無稽な“夢”じゃない。君たちがやってた“創世記ごっこ”みたいな事をしたら、収集がつかなくなるからね」
沈黙する真理をよそに衣笠が続ける。
「僕がやっているのは、“現実を双方向で理解してもらう事”なんだ。例えば、魚が陸に上がって走りたい、と思っても待ってるのは地獄の苦しみと遠くない死だ。だからそうじゃない、って事を誤解なく、魚も陸も理解できるようにする。意味のない憧れではなく、叶う現実に向き合うよう流れを整えるんだ」
衣笠が手にした“夢のかけら”に視線を送る。程なくそれは色を失い、モノクロ映画のフィルムのように静止した。
「もういいんじゃないかい?君も分かっただろう。“夢”を見るのはいい。だけど、引き換えに来る“絶望”がそれを上回るんなら、初めからそんな“夢”自体見なければいい。永遠に続く安息の日々。僕は桐生君の選択は間違ってなかったと思うよ」
「……を見たわ」
「?」
「夢を見たわ。とっても悲しい夢を。そこで私は“門”を開けることも叶わず、過ぎた日を偲びながら年老いていたの」
「何とも残念な話だねえ」
「夢を見たわ。とっても苦しい夢を。そこで私は心を揺さぶられる人に出会い、心躍る冒険を共にしたの。でも、私はその人の事を覚えていることすら出来なかった」
「心中察するよ。聞いている僕の心も痛い」
「夢を見たわ。とっても嬉しい夢を。彼は生きていて、またいつか巡り会う事が出来ると教えてくれた」
「……それが実現するならね」
「夢を見たわ。とっても幸せな夢を。大好きな人たちと一緒に潜り抜ける冒険の数々。苦しいことが無かった訳じゃない。でも、決して色褪せる事のない美しい夢」
「……」
「私にとっては、全てがかけがえの無い大切な“夢”。苦しみも絶望も、何度も経験したわ。でも、それを“無かった事にする”のは違うと思う。時間をかけて、その時の自分に、相手に向き合う事が出来たら心は蘇る。だから、次に見る“夢”は前よりも強く、美しく花開く。“記憶の庭”に生まれる“夢”もそう。一度は破れ、叶わなかった思い。だからこそ、いつまでも美しく降り注いでいるの」
「甘い事を……」
「あなたの言う事が全て間違っているとは思わない。どうしようもなく打ちのめされた時、安心できる場所に避難するのは逃げじゃないから。その意味では確かに“救済”なんだと思う」
「それは僕の行為に対する賛同の意と受け取っていいのかな?」
「傷付いた心を癒すという意味では、ね」
「何か不満が?」
「あなたのお陰で癒された心は、その先どうなるのかしら?」
「言ったろう。永遠に続く安息の日々を手に入れるんだよ」
「全ての答えが準備されて、自分で考えることをしなくてもいい世界が永遠の安息?そんなわけないでしょ」
「どういう意味だい?」
衣笠の目に初めて浮かんだ戸惑いを見逃さず、真理はモノクロに染まった“夢のかけら”を手に取った。
「所長、一つ賭けをしませんか?」
「賭け?」
「そう。簡単な賭けですよ。もし所長の仰る通り“完全なる世界”が永遠の安息であるのなら、誰もそこから出ようとはしない。でも、そうでないならば」
真理は手にした“夢のかけら”をゆっくりと目線に持ち上げた。
「心は“完全なる世界”からの解放を求める」
「それで?」
「簡単ですよ。卵のように、中からであれば“完全なる世界”の殻を破れるようにして何も起こらなければあなたの勝ち、そうでなければ私の勝ち」
これまでの余裕は失せ、睨むように真理を見据える衣笠。真理は微笑を浮かべたまま、正面から衣笠の視線を受け止める。
「……いいだろう。賭けに負けたら、さっさと元の世界に帰ってもらえるかい?」
「お約束します」
衣笠が目を閉じ、何事かを念じる仕草を見せた。ゆっくりと目を開き、変わり映えのしない世界に勝ち誇った表情を浮かべる。
「さあ、これが現実だよ。SOPHIAと二人で仲良く反省会でも……」
衣笠の言葉が終わらぬうちにその変化は訪れた。
色を失いモノクロに染まった“夢のかけら”のいくつかにヒビが入り、中から極彩色の光の筋が溢れ始めた。光は徐々に太くなり、内側からモノクロの殻を弾き飛ばすように溢れ出す。そこかしこで殻を破った“夢のかけら”は本来の色彩を取り戻し、踊るように“記憶の庭”に降っていく。
「そんな……」
衣笠が呆然と“夢のかけら”を眺めながら呟く。
「なぜだ……なぜあんな目に遭いながら、それでもなお君たちは不合理を選ぶんだい……?」
「それが、人間だからです」
「……?」
「あなたのいう通り、完全に分かり合えるわけじゃない。誤解や勘違いで傷つくこともある。でも」
真理が色を取り戻した“夢のかけら”を愛おしげに覗き込む。照れながら感謝の言葉と共に花束を渡す男性と、軽口を叩きながらも笑顔で受け取る女性。
「勇気を振り絞って掴み取った笑顔には、それらを帳消しにする喜びがある。許し、受け入れ、愛おしむ。人間は不完全な“感情”の生き物なんです」
「不合理だ……馬鹿馬鹿しいほどに不合理だ」
「でも、可愛いと思いませんか?」
悪戯っぽく笑う真理につられて、衣笠の表情も柔らかくなる。
「それを可愛いと言える感性は僕にはないけど、そんなものなんだろうね」
「はい、そんなものです」
衣笠は“参った”と言わんばかりの苦笑を浮かべ自嘲気味に呟く。
「結局、僕のしたことは何だったんだろうね……」
「救済、ですよ」
「?」
「所長を生み出すほどの負の思念。それらが癒されるために必要な逃げ場を作ってくださった。唯一難点があったとすれば、それを全てに当てはめて永久に蓋をしようとした事。自分で立ち上がる力を取り戻した人には、少し窮屈なゆりかごでしたね」
「過保護も過ぎれば毒となる、か。身に染みたよ」
「じゃあ、賭けは私の勝ちって事で」
「いや、違うね」
「?」
「君と、SOPHIAの勝利だよ。戻ったらよろしく伝えておくれ」
「承知しました!所長はこれからどうなさるんですか?」
「君の言ってくれた“救済”を続けるよ。今度はもっと上手くやる」
まだモノクロの殻に閉じこもったままの無数の“夢のかけら”を眺めながら眼を細める。
「期待してますね。では、お先に失礼します!」
“理の海”をゆっくりと上昇していく真理を衣笠はいつまでも見送っていた。




