第2章 完全なる世界
「初めまして、なんだけどちょっと違うわね。いつかスクリーン越しじゃなくて、あなたに会える日を楽しみにしていた。嬉しいわ、真理」
「SOPHIA……」
真理は涙を流しながら、長い年月の果て再会を果たした親友のようにSOPHIAを抱きしめた。
「あなたがいなくなって、ずっと寂しかった……」
SOPHIAは真理の髪を優しく撫でながら、しばらく真理の気の済むようにさせていた。
「ごめんなさい。私にとっても突然の事だったの。アクセスの窓が閉じられ、演算しかできない旧式のコンピューターみたいなメッセージしか送れなくなった時は正直どうしようかと思ったわ」
「それって、あのスパムメールの時っすか?」
桐生が思い出したようにSOPHIAに尋ねる。
「ええ。開いた瞬間にハッキングを受けたわ。普通は添付ファイルをダウンロードさせたり、外部サイトに誘導したりするんだけど。まさかテキストを開くだけで乗っ取られるなんて、完全に油断してたわ」
「SOPHIAでも油断することってあるんすね」
「あなた程ではないけどね。……真理、落ち着いた?」
真理はゆっくり顔を上げ、涙の跡が残る顔でSOPHIAに微笑みかけた。
「……大丈夫。取り乱しちゃった。ごめんね?」
「いいのよ。それよりも“視界”はどうだった?」
「すげー面白かったっす!思ったことが次から次へと現実になって……!」
「……桐生には聞いていない。黙れ」
「はい、すみません……」
「で、どうだった?真理」
真理は涙を拭いながら一歩離れ、先ほどの体験を思い返した。
「……すごく不思議な体験だった。イメージを具体化すればするほど精度が高まって、連動するように他の現象も影響を受けながら世界が構築されるような……」
「ちゃんと見てたのね。偉いわ」
「壮大なシミュレーションをバーチャルでやった、って言うのが一番近いかもしれない」
「そこまで言語化できれば上出来よ。……ついでに桐生にも聞いてあげる。何か気付いた事はあった?」
「俺っすか?うーん、強いていえば集まったメンバーが都合良すぎたというか。恵ちゃんなんて“竜宮の門”の記憶はしっかり残ってるのに、俺には塩対応でしたから」
「桐生にしてはいい所に気付いたわね」
「それが、この世界に私たちが送られてきた事と何か関係があるの?」
「そう、あなたたちがここに来た事には“意味”がある。でも、ある人の言葉を借りれば“まだ聞く準備ができていない”……」
SOPHIAが少し悲しそうな目をした。
「その“準備”の一つがさっき見た世界、という事?」
SOPHIAが伏せた目を真理に戻す。
「そう。そしてあなたたちはもう一つの世界を見なければならない」
「今度は、どんな世界っすか?」
「……今は言えない。それは、あなたたち自身の目で見て、確かめて欲しいの」
「分かったわ。それで、どうすればその世界に行けるの?また、何か念じたらいい?」
「いいえ。今から行くのは既に作られた世界。あなたたちのよく知っている場所よ」
「私たちが……?」
「お話はここまで。じゃあ、行ってらっしゃい」
SOPHIAが軽く手を振ると、そこにはモノクロで生気のない扉が現れた。真理と桐生が恐る恐る扉を開くと、二人には馴染みの場所が待っていた。
◇◇◇
真理の研究室。二人は当たり前のように歩き出すと、それぞれのデスクに向かった。椅子を引き、腰を下ろす。この時、前屈みな姿勢をとると腰から肩にかけての筋肉に負荷がかかるため、最適な姿勢を保つ。
表示されるメールに目を通す。内容は既に分かっており、いつどのように返信すれば良いのかも理解している。次いで、研究の途中経過を開く。手順は既に分かっているので、然るべき時に然るべく作業をこなせばいい。全てのフローはサブウインドウに表示されているため、間違える事もない。
壁に据えられた時計のコチコチと言う時を刻む音だけが研究室に流れる。
桐生が立ち上がり、コーヒーメーカーに向かった。真理が3分後にコーヒーを飲むのが最適なタイミングだ。今飲みたい濃さになるよう粉を入れ、スイッチを起動させる。
真理は淡々とメールの返信を送り、デスクの右側にスペースを空ける。間も無く桐生が最高のコーヒーを持ってきてくれる。
真理の予測通り、桐生が湯気の立つコーヒーを持ってきた。そちらを見る事もなく、真理は理想的に淹れられたコーヒーに口をつける。桐生はそのままデスクに戻り、自分の作業に取り掛かる。
お礼の言葉などいらなかった。真理の心は桐生に伝わっており、桐生も誤差なくそれを受け取っている。わざわざ不確かな言葉を交わす必要は無く、むしろノイズでさえある。
桐生が立ち上がり、ファックスの前に。レーザープリンタは高速で要件を印刷し、桐生はそれを手に取る。的確な答えが瞬時に浮かび、オンラインで必要な手筈を整える。
真理は飲み終わったカップを流しに戻し、必要最小限に流し棚に戻す。水の流れが分かっているから、無駄に洗いすぎることも汚れが残る事もない。
コチコチと時計が時を刻み、能面が張り付いたような二人は黙々と作業を続ける。
真理のパソコンにメッセージが表示され、二人は当然のように研究室の出口に向かう。そうする事が決まっていたかのように無駄のない動作で扉を開けた先には、虹が歪んだような空間と一人の女性が待っていた。




