第1話:嵐の如く
2025.5.30 午前/東京・研究所
東京の空は雲に沈み、水をはらんだ風がまだ見ぬ“出雲の空”を思わせた。コーヒーの香りが漂う研究室では、真理と桐生が出張中に溜まった仕事の山に忙殺されている。
「……分かっちゃいたけど、リモートで出来る事とそうでない事には越えられない壁があるんすね……」
桐生が積み上げられた依頼物を仕分けながらぼやく。
「どうしても“実物”に向き合わないといけない事が多いからね。こればっかりは宿命と思って諦めましょう」
「さっさと片付けて、出雲に取り掛かりたいっす!」
「気持ちは分かるけど、丁寧にね。どれも疎かにできないものばかりだから」
「イエス、マアーム!」
口では何だかんだ言いながら、桐生の仕事は信頼できる。根が真面目であるため、手際は良いが決して手を抜かないのだ。真理も目の前の仕事に向き直る。
「それにしても、予想外の展開でしたね」
「恵さんの事?まあ、ある程度予想はしてたけど、その上を来られたわね……」
二人は昨日の出来事を思い出していた。
◇◇◇
“鳴金”現象の翌日。二人が宿泊していた宿に久保山と恵が訪ねてきた。
「おはようございます!」
「おはようさん。昨日はよう寝れたか?」
「10時には出られる、って聞いたのできちんとご挨拶を、と思って押しかけちゃいました!真理さん、桐生さん、この度は本当にありがとうございました!」
「いえいえこちらこそ。久保山さんと恵さんがいなかったら、きっと今でもうんうん悩んでいたわ」
「今回の事で私、やっぱり本格的に歴史の勉強をしようって決めたんです。天神館は元々そういった分野に強い学校ですから、このまま大学部に進んでもっと世界を広げよう、って!」
「そう、それは素敵ね。恵さんだったら、きっといい研究者になれるわ」
「それで、お願いというか何というか……」
恵が珍しくモジモジしている。何となく察した真理は、優しく先を促す。
「どうしたの?私に出来る事だったら、いくらでも協力するわよ」
恵が意を決して口にする。
「実は、真理さんの研究にもすごく興味があって。でも、真理さんが講義をされてる学校って、みんな首都圏じゃないですか?なので、インターンとかでお世話になりたいなあ、なんて……」
不安げに上目遣いで真理を見上げる恵に、微笑みながら言葉を返す。
「もちろん、大歓迎よ。こちらからお願いしたいくらい。まずは受験を頑張って、大学生になるところからね」
「あ、それ多分大丈夫です」
「へ?」
「天神館って、基本エスカレーターなんで。それに私、何やかんやで内申いいですから」
「ええっと、つまり……」
「一学期が終わったら、お邪魔してもいいですか?」
お願いモードで真理を見上げる恵。この破壊力は反則だ、と思いながらも断る理由が見つけられない。真理は咄嗟に久保山に話を振る。
「く、久保山さんはどう思われます?やっぱり、受験生の親としては……」
「心配してへんよ」
「はい?」
「恵の強みは座学やのうて、自分の目で見て、考えるとこや。ただ出された問題解くより、そっちの方がよっぽど役に立つ。もちろん勉強できるに越した事ないけど、聞いてる限りそこもちゃんとやってるみたいやしな。ワシはええと思てるで」
「さすがお父ちゃん、分かってる!」
どうやら外堀は埋められてしまったようだ。真理は負けを認め、頭を切り替える。
「分かったわ。じゃあ、夏休みの予定が決まったら教えてちょうだい。こちらも受け入れの準備をしておくわ」
「やった!ありがとうございます!あ〜もう、今から楽しみ!」
これだけ喜んでくれるのなら、これ以上とやかく言うことも無いだろう。一つ懸念があるとすれば……
「ちなみに、お母様もこの事はご存知なの?」
「お母ちゃん?大丈夫!“将来に備えて今から有名な先生のとこで勉強したいねん!”って言ったら涙流して喜んでたし」
「あいつ、昔から権威に弱いからなあ……」
「ではまた夏に、東京でお会いしましょう!」
恵は最後まで元気一杯だった。
嵐が去ったロビー。真理が遠くを見るような眼差しで呟く。
「……若いって、眩しいわね」
「先生も、全然若いっすよ」
「ありがとう。褒め言葉と受け取っておくわ」
「どういたしまして」
後に桐生がこの時の事を思い出し、ブルっと体を震わせながら語る。
「……あの時ふざけないで、本当に良かった。一歩間違えたら、俺の運命は変わってた……」




