第5話:我、悟りを示す
「これって……」
「せやねん。仏教で言うとこの“貪・瞋・痴 (とん・じん・ち) ”みたいなもんかな。そいつの煩悩を刺激して強制的に戻しよるねん」
「うわ、性格悪……」
恵が何とも言えない表情で呟く。
「ワシも何十回と試したけど……さすがに一歩目はなかったで」
むくり、と桐生が立ち上がる。
「ふっ、そう言うことか」
「兄ちゃん、もうやめとき。勝てる気がせえへんわ」
「種が分かれば手品にあらず。要は振り返らなければいいだけの事。天雲上人、破れたり!」
「……止めたからなー」
雲龍の言葉に耳を貸す気配もなく、桐生が再び立ち向かう。
一歩目。潤んだ瞳で桐生を呼ぶ恵の声。ふっ、その手はもう通じない。
二歩目。温泉の匂いがする。ほんのりと湯気が漂ってきた。真理と恵の声。
「うわー、真理さん綺麗!どうしたらこんなになるんですか?」
「恵さんこそ立派に育って。この張りは若さよねー」
「もう、どこ触ってるんですか!」
どこが育って、何を触ってるの?教えて!俺にも教えて!……って違う、これは修験道のおっさんが作り出した幻。桐生蓮は屈しないぃぃぃぃぃ!
三歩目。何かを見つけた真理の声。
「あら、このPCは何かしら?」
「いっぱいフォルダが並んでるけど……この“Best Selection”って何だろ?」
「恵さん、勝手に開けるのは人として……」
「真理さんも気になってるくせに。行きますよ?ポチッとな」
「待てえええええええええええええええええい!」
猛ダッシュで入り口に戻る桐生。何かを抱き抱えるように滑り込んだ。
「これは、これだけはあああああっ!」
ハッと気づいた桐生の目に飛び込んできたのは、汚物を見るような眼差しの恵。真理は頭を抱え、雲龍は哀れみの目を向けている。
「な、言うたやろ?」
声が響く。
“……修行ガ、足リン”
◇◇◇
「ずーん」という形容詞を纏って、桐生は隅っこで膝を抱えていた。
「こう言う事だったんだ……」
恵が呟く。
「まあ、普通の人間が行ったらこないなるわな」
雲龍が膝を抱えたままの桐生をチラッと見る。
「何せ相手は“悟り”を開いた修験者や。生半可な覚悟やったら太刀打ちできん」
「では、どうすれば……?」
「私、行ってみようか?」
「そんな事せんでええ。お前は、せんでええねん……」
「今まで何回もやってあかんかったんやろ?」
「……朝も言うたけど、男にはやらなあかん時があんねん。それが今や」
「でも、あんなんに勝てんの?」
「悟り、なあ。よう分からんけど、精一杯やってみるわ」
「無理せんといてな」
「応援よろしゅう」
雲龍は向きなおり、視線は勾玉に注がれる。ゴーグルを着け、一歩を踏み出す。
「うむっ」
雲龍の体に吹き付ける“圧”が一段と強くなる。煩悩が可視化され、入口へと誘う。
「……しょうもない。こんなもんで止まったるかい!」
二歩、三歩。
着実に前に進む。
「ハハっ、そう来たか!笑わしてくれるやんけ!」
四歩、五歩。
雲龍は立っていることも出来なくなったのか、両手をついてその場に踏ん張る。“圧”は強くなり、ツナギがバタバタとはためく。
「またそれかい……飽きたわ!」
ゆっくりと、だが力強く歩を進める。一歩ごとに礫が舞い、打ち付けられた雲龍の体に傷が刻まれる。体だけでなく、心も苛まされる雲龍のうめき声が響き、その様は煉獄を思わせる。
「もう…やめて。もう、ええから……」
涙ぐむ恵の口から漏れ出る小さな叫び。雲龍は気付く事なく、ジリジリと這い進む。もう少し。手を伸ばせば、“勾玉”に手が届きそうだ。
“圧”は荒れ狂う嵐のようになり、雲龍は必死で大地にしがみつく。不意に嵐が止み、背後から声が聞こえてきた。
「いつまでこんな事続けんの?次こそは次こそは、って、何回聞いたか分からへん!」
「お義兄さん、ちゃんと姉さんの事見てあげて。これまで一生懸命支えてくれたじゃない。もう、夢を見るのも終わりにしましょう」
「ちゃうねん、ホンマにもうちょっとやねん。もう、見えてんねん。夢ちゃうねん。信じてくれ!」
「もう、無理。待つのに疲れた。これから先は、一人でやって」
「……お父ちゃん、一緒に行かへんの?」
「お父ちゃんな、どうしてもやりたい事があるんやて。せやから私らと一緒に行かれへんねんて」
「いやや、お父ちゃんと一緒におる!おりたい!一緒にいこ!」
泣きながら自分を呼ぶ声。それは雲龍の心に残る最も大きな悔いの記憶。ここで意地を張らず、あの子の手を取っていれば……いや、まだ間に合うんか?せや、戻ろう。この子より大事なもんなんかこの世にあらへん……
雲龍の目から光が消え、力なく振り返ろうとした時。その声は確かに雲龍の耳に届いた。
「お父ちゃん、負けんなーーーー!」
泣きながら、精一杯の声を届けてくれる恵。雲龍の目に光が戻った。
「……世界一の応援やな」
視線を向ける。目の前に、怪しく光る勾玉。流れに逆らいながら、震える手を伸ばす。
「上人さんよう、あんたの言う“悟り”な、正直今でもよう分からん」
腕が、ゆっくりと前に進む。
「せやけどなあ、あんたが知らへんこと、ワシ知ってんねん」
震える指先。勾玉はもう目の前にある。
「男はなあ……父親ってのはなあ」
指先が触れる。
「娘のためやったら、何でも出来んのじゃーーーー!」
握られた勾玉。“圧”は急速に消滅した。
静寂の中、雲龍の荒い息遣いだけが響く。
ふらふらと立ち上がった雲龍が、手にした勾玉に語りかけた。
「これが、ワシの悟りじゃ」
明日も23:50更新予定です。




