第1話 転生と覚醒
雨の夜だった。
コンビニの蛍光灯が濡れた路面に滲んで見える。書店で買ったばかりの『星冠の恋詩』第十二巻を胸に抱いて、私は急ぎ足で交差点を渡ろうとしていた。
「セシリア様、お許しください……」
頭の中では、今読み終えたばかりのシーンが蘇る。愛憎渦巻く悲劇の悪役令嬢セシリア・ヴァレンタインが、冷酷な王子レオナルドによって婚約破棄を告げられ、最後は反逆罪で処刑台に送られる場面。
「なんで悪役令嬢っていつもこんな目に遭うのよ」
独り言をつぶやいた時、世界が白く光った。
目覚めた時、私は死んでいた。
いや、正確に言うなら、日本の女子大生・美緒として死んで、別の誰かとして生きていた。
「お嬢様、お目覚めですか?」
薔薇模様の天蓋がかかった豪華な寝台。きらめく宝石が散りばめられたランプ。大理石の床に敷かれた深紅の絨毯。
完全に異世界。
「鏡を」
かすれた声でそう言うと、侍女が手鏡を差し出してくれた。そこに映っていたのは、金色に輝く巻き髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ、見知らぬ美少女。
「マジかよ……」
思わず現代語が出た。侍女が困惑した表情を浮かべる。
この顔には見覚えがあった。昨夜まで読んでいた『星冠の恋詩』の悪役令嬢、セシリア・ヴァレンタイン。作中で最も美しく、最も高慢で、最も悲惨な末路を辿る女性。
つまり私は、自分が愛読していた小説の中に、よりにもよって一番嫌な役で転生してしまったということ。
「お嬢様、お体の調子はいかがですか?昨夜はひどくうなされていらっしゃいましたが……」
侍女の心配そうな声に、私は我に返る。でも、ここで弱気を見せるわけにはいかない。セシリアならこう言うはず。
「心配には及ばないわ。私ほどの者が、少しの熱で倒れるとでも思っているの?」
冷たく言い放つと、侍女がびくりと身を縮める。そうだ、これがセシリア・ヴァレンタイン。彼女は今、物語開始から三ヶ月後の時点にいる。つまり──
運命の舞踏会まで、あと九ヶ月。
原作では、その舞踏会でセシリアはヒロインの小百合を陥れようとして失敗し、レオナルド王子に婚約破棄を宣告される。そして最終的に反逆罪の濡れ衣を着せられ、処刑台で首をはねられる。
「絶対にあの舞踏会で、運命を変えてやる」
立ち上がって、部屋の大きな窓から外を見る。薔薇が咲き誇る庭園の向こうに、まばゆいばかりの宮殿が聳えている。アルテミシア王国の王城。この国では、魔法の力と血筋によって階級が決まる。そして私セシリア・ヴァレンタインは、その頂点近くに位置する公爵家の令嬢。
でも、私には原作の知識がある。これから何が起こるか、誰が敵で誰が味方になりうるか、すべて知っている。自分がどうなるか分かっているけど、今回は絶対にあの結末を迎えたくない。
「運命なんて、書き換えてやる」
◇
朝食後、私は中庭を散歩していた。セシリア・ヴァレンタインとして振る舞うのは、想像以上に大変だった。使用人たちが、私の優しい言葉遣いに困惑しているのが手に取るように分かる。
「おはようございます、セシリア様」
通りがかった庭師が頭を下げる。原作のセシリアなら、目も合わせずに素通りするところだが、私は思わず会釈してしまう。
庭師の驚いた表情を見て、慌てて演技を修正する。
「今日の薔薇の手入れが不十分ね。私の庭園にふさわしくない花は、すべて切り落としなさい」
氷のような声で命じると、庭師は慌てて「はい、お嬢様」と答える。
罪悪感が胸を刺すが、これがセシリアの本来の姿。完璧な悪役令嬢を演じなければ、かえって周囲に怪しまれてしまう。
「あ……」
薔薇の茂みの向こうから、小さな悲鳴が聞こえた。急いで駆け寄ると、栗色の髪の少女が転んで膝を擦りむいている。
小百合。ソフィア・リンデル。この物語のヒロイン。
原作では、セシリアが彼女をいじめ抜く相手。でも今の私には、彼女を助ける絶好のチャンスに見えた。
「大丈夫?」
駆け寄って手を差し伸べると、小百合は驚いたような顔で私を見上げた。
「え、えっと…セシリア様?」
一瞬、セシリアらしい反応をすべきか迷う。原作なら、彼女を見下して嘲笑うシーンだ。でも──
いや、まずは無視するべきかもしれない。セシリアなら関わろうとしないはず。
でも、放っておけない…この子を助けたい。
「怪我をしているじゃない。みっともない格好ね」
まず冷たい言葉を投げかけてから、小さく溜息をつく。
「でも、放っておくわけにもいかないわ。私の美学に反するもの。傷ついた者を見過ごすなど、ヴァレンタイン家の名に傷がつく」
高慢さを装いながらも手を差し伸べる。これなら、セシリアらしさを保ちつつ、小百合を助けることができる。
「あ、あの…私、セシリア様にお手を煩わせるなんて…」
小百合の声は震えていた。原作では、セシリアが彼女に酷いことばかりしていたから、当然の反応だろう。
「気にすることないわ。同じ学院の生徒同士でしょう?」
私が優しく微笑むと、小百合の大きな瞳が驚きで見開かれた。
「セシリア様…とってもお優しいんですね!」
彼女の笑顔は、まさに太陽のようだった。純粋で温かくて、見ているだけで心が和む。
でも、ここで完全に優しくなってしまっては、セシリアらしくない。少し表情を引き締める。
「優しいだなんて…私はただ、効率的な判断をしているだけよ。あなたのような子と争うより、味方にした方が利益になると考えただけ」
冷徹な計算を装いながら、でも声の奥に温かさを残す。これが私なりの、セシリアとしての処世術。
「えっと、それってどういう意味ですか?私、いつも意地悪だったから、びっくりしちゃって…」
天然な発言に、私は思わず笑ってしまう。
「これからは、仲良くしましょう。私、あなたと友達になりたいの」
「本当ですか?うっかりして、また失敗しちゃうかもしれませんけど…でも、セシリア様がそばにいるから、がんばります!」
小百合の無邪気な笑顔に、私の心は温かくなった。でも、最後に一言付け加える。
「ただし、私の期待を裏切るようなことがあれば、容赦はしないわよ」
氷のような微笑みを向けると、小百合が少しびくりとする。でも、すぐに首を縦に振った。
「はい!セシリア様に恥をかかせないよう、頑張ります!」
小百合の純粋な笑顔を見ていると、胸が苦しくなった。
この子は、私が演じているセシリアが本当に冷酷な人間だと知ったら、どんな顔をするだろう。私は今、彼女を騙しているのだろうか。それとも、本当に友達になろうとしているのだろうか。
「セシリア様?どうかされましたか?」
小百合の心配そうな声に、私は慌てて表情を取り繕う。
「何でもないわ。ただ、あなたの成長を見守るのが楽しみだと思っただけよ」
嘘じゃない。でも、すべてが本当でもない。この曖昧な立ち位置が、私をもどかしくさせる。
◇
その午後、私は再び図書館を訪れていた。今度は小百合も一緒だ。
「わあ、こんなにたくさんの本があるんですね!」
小百合が感嘆の声を上げる。彼女の純粋な驚きを見ていると、自然と笑顔になってしまう。
「魔法の本もあるのよ。あなた、魔法に興味はある?」
「魔法…」
小百合が少し複雑な表情を見せた。原作では、彼女は特別な魔法の才能を持っているが、それを隠している設定だった。
「私、なんだかまだまだ足りませんね…でも、いつかセシリア様みたいに素敵になりたいです!」
「そんなことないわ。あなたはあなたのままで十分素敵よ」
私たちが本を選んでいると、低い男性の声が響いた。
「意外な場所で意外な人に会うものですね、セシリア様」
振り返ると、レオナルド王子が立っていた。黒髪に氷のような青い瞳、完璧に整った顔立ち。
そして、その少し後ろには──
「健太?」
思わず口に出してしまった名前に、茶髪の青年が驚いたような顔をする。ケイン・グラハム。前世では健太として私の幼なじみだった人。
「お前…なぜ俺の名前を…」
彼の困惑した表情を見て、私は慌てて口を押さえる。しまった。この世界では、彼はケインという名前の騎士のはず。
「いえ、その…あなたを見ていると、昔知っていた人を思い出して…」
「昔?」
ケインが眉をひそめる。彼の口調は少し硬めだが、昔と変わらない優しさがその奥に感じられる。
「セシリア様、無理はしないでください。何かお手伝いできることはありませんか?」
その冷静で気遣いのある言葉に、私の心は締め付けられる。健太は、いつも私のことを心配してくれていた。
「あ、すみません!でも、たまには手伝わせてくださいね!」
小百合が無邪気に割り込んできて、緊張していた空気が少し和らぐ。
「こちらは?」
レオナルドが小百合を見る。その視線に、私は警戒心を抱く。原作では、レオナルドは小百合に一目惚れして、セシリアから心が離れていく。
「ソフィア・リンデルです。えっと、セシリア様のお友達になっていただいたんです!」
小百合の屈託のない笑顔に、レオナルドは少し驚いたような表情を見せた。
私は優雅に微笑みながら、しかし声に刺を込める。
「私が選んだ友人よ。当然、相応の価値がある人物でなければ、私の時間を割くわけがないでしょう?」
周囲に聞こえるように、わざと高慢な口調で言う。これで、小百合との友情も「セシリア様の気まぐれ」として周囲に受け取られるはず。
その夜、小さな夜会が開かれていた。貴族たちが集まり、優雅に談笑している。私は小百合と一緒に、端のテーブルに座っていた。
「まあ、セシリア様」
上品な声が響く。振り返ると、黒髪に鋭い目をした美しい女性が立っていた。アスカ夫人──いや、この世界ではアデリン夫人。
「素晴らしいお考えですね、ソフィア様とお友達になられるなんて。ですが…どうしても少しだけ心配ですわ」
彼女の優雅な微笑みの奥に、冷たいものを感じる。
「心配、ですか?」
「ええ。あまりにも急激な変化は、周りの方々を困惑させてしまうものですから。あら、どうしてそんなにお急ぎになられているのかしら?ご心配なさることはありませんよ」
アデリン夫人の言葉には、明らかに皮肉が込められている。彼女は原作でセシリアを陥れる重要な敵役。私の変化を警戒しているのだろう。
「もちろん、私もセシリア様にはできる限りの手助けを致しますわ。でも、すべてがうまくいくとは限りませんもの」
冷静にプレッシャーをかけてくる彼女の言葉に、私は身構える。
「ありがとうございます、アデリン夫人。でも私は、自分の信じる道を歩むつもりです」
そう答えた後、私は少し表情を冷たくする。
「それに、私セシリア・ヴァレンタインが一度決めたことを、他人の意見で変えるとでも思って?私は自分の判断に絶対の自信を持っているの」
高慢な微笑みを浮かべながら、アデリン夫人を見返す。彼女の挑発には、同じレベルで応戦しなければならない。
「あら、あなた、すっかりそのようにお考えになられているんですね。ですが…少し間違っているかもしれませんよ」
彼女の微笑みは、まるで氷のように冷たかった。
夜会が終わった後、私は一人でバルコニーに出ていた。満天の星空が、頭上に広がっている。
「考え事ですか?」
振り返ると、レオナルドが立っていた。月光に照らされた彼の横顔は、原作で描かれていたよりもずっと優しく見える。
「レオナルド様…」
「先ほどは失礼しました。ケインのことで、動揺させてしまったようで」
彼が星のペンダントに触れる。その仕草に、私は既視感を覚える。
「そのペンダント…」
「これは、大切な人との約束の品です」
「約束?」
「昔、星空の下で交わした約束。『どんなに離れていても、必ず見つけ出す』と」
その言葉に、私の心臓が激しく鐘を打つ。なぜだか分からないが、涙が溢れそうになる。
「あなたは…私の前世を知っているのですか?」
思わず口に出した質問に、レオナルドは静かに微笑んだ。
「星のペンダントが、すべてを教えてくれました。あなたが美緒として生きていた時のことも、あの夜の事故も、そしてあなたが抱いていた想いも」
私の本当の名前が彼の口から出た瞬間、世界が静止したような感覚に襲われる。
「なぜ…どうしてあなたが…」
「このペンダントは、魂の記憶を宿すもの。前世で、あなたが私に託してくれたのです」
レオナルドが胸元のペンダントを取り出す。月光に照らされたそれは、確かに見覚えがあった。
その瞬間、頭の中に断片的な映像が浮かんだ。夜空に輝く星座。温かい手のひら。そして、誰かの優しい声。
『絶対に、君を見つけ出すから』
「あ…」
思わず手を頭に当てる。記憶が戻りそうで戻らない、もどかしい感覚。
「無理をしないでください。記憶は、時が来れば自然に戻ります」
レオナルドの優しい声に、私は顔を上げる。
「でも、星の魔法には、もう一つの力があります。未来を見通し、運命の分岐点を知る力」
「分岐点?」
「あなたがこの世界に来たのも、きっと運命の導き。大きな変化が起こる前触れです」
レオナルドがゆっくりと近づいてくる。その瞳には、深い愛情と決意が宿っていた。
「運命の糸は、何度でも紡ぎ直される。今度こそ、あなたを守りたい。あなたを悲しませたくない」
彼の言葉に、また断片的な記憶が蘇る。雨の夜。別れの言葉。そして、叶わなかった約束。
「私たち…前世で何があったの?」
「それは、あなた自身が思い出すべきことです。でも、一つだけ言えるのは──今度は、絶対に同じ過ちは犯さない」
レオナルドの拳が固く握られているのを見て、私は胸が締め付けられる思いになった。
◇
部屋に戻った私は、震える手で鏡を見つめていた。
レオナルドは知っている。私の前世を、美緒としての記憶を。そして、私たちの間には、星空の下で交わした約束があったらしい。
でも、それが何だったのか、まだ思い出せない。ペンダントを見た時の既視感、彼の言葉に込められた深い愛情。すべてが本物だと感じるのに、肝心の記憶が戻らない。
「絶対に思い出してみせる」
そして、私には気づいたことがある。運命を書き換えるということは、ただセシリアの破滅を避けるだけではない。
この世界の人々──小百合も、健太も、レオナルドも、みんなが幸せになれる結末を作り出すこと。原作では、結局誰も本当の意味で幸せにはなれなかった。ヒロインの小百合でさえ、最後は孤独だった。
「今度は違う。みんなが笑顔でいられる結末を」
でも、そのためには私自身が変わらなければならない。美緒としての優しさを失わずに、セシリアとしての強さも身につけなければ。
冷酷な仮面の下に温かい心を隠すのではなく、本当の意味で強く、優しい人間になること。それが私の新たな目標。
私には二つの使命がある。一つは、セシリアとしての破滅的な運命を回避すること。もう一つは、レオナルドとの前世での約束を思い出すこと。
そして今、三つ目の使命が加わった──この世界のすべての人が幸せになれる、新しい物語を紡ぎ出すこと。
「明日から、もっと積極的に行動しなければ」
小百合との友情は順調に始まった。健太…いえ、ケインとも再会できた。でも、アデリン夫人という新たな敵も現れた。
そして何より、レオナルドとの関係が、原作とは全く違う方向に進んでいる。今度は悲劇ではなく、本当の愛を掴むために。
鏡に映る金髪の悪役令嬢が、決意に満ちた表情で私を見返している。
「私の結末は、私が書き換える」
星明かりの下で、新しい物語が始まろうとしていた。
今度は、誰も悲しまない結末を目指して。
次回予告:第2話**
美緒と小百合の友情が深まる中、ケインの正体を巡る謎が明らかになる。そして、アデリン夫人の最初の罠が仕掛けられ──?
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悪役令嬢ものの定番、転生からスタートしました!美緒ちゃんの現代っ子な反応と、セシリアとしての立ち振る舞いのギャップを楽しんでいただけたでしょうか。小百合ちゃんの天然な可愛らしさ、健太の照れ屋な一面、アデリン夫人の上品な腹黒さも表現してみました。レオナルド王子の謎めいた言動も気になりますね!次回は、いよいよ本格的な陰謀が始まります。