居候編1 猫のご飯とレシピ本
夏の盛りが過ぎ秋の風が吹く頃になると、小麦騒動もすっかり人々から忘れられ始めた。
パン屋には何事もなかったようにパンが並び、客は当たり前のようにそれを買っていく。
人々の生活は騒動以前に戻ったように見えたが、一つだけ変わったことがあった。
それはジャガイモを通して、マオ族の郷土料理が流行り始めたことである。
小麦騒動をきっかけに出回ったジャガイモは、すぐに料理人たちによって様々な料理に使われるようになった。
だが、新しい食材を使いこなすのはいくらプロでも難しい。
そこで目を付けられたのが、古くからあるマオ族のジャガイモ料理だった。
独特のスパイスを用いたマオ族の郷土料理は、今までの味に飽きていた一部のグルメたちに絶賛され、一躍料理界に躍り出た。
それにつれてマオ族の料理は庶民の間にも次第に浸透し、目新しい刺激的な味は王都での一大ブームになったのである。
魔導庁の帰り、ラーニャがふと本屋に立ち寄ると、マオ族の料理に関する本が平積みにされていた。
とうとうマオ族の郷土料理は、レシピ本になるまで出世したらしい。
(へぇ~。オレが知ってる料理もたくさん載ってら。よく調べたな)
つい最近まで「猫のエサ」だの晒されていたのに、変れば変わるものである。
ラーニャが感心しながら立ち読みしていると、後ろから恰幅のいい中年女性に声をかけられた。
「アンタ、マオ族かい?」
「そうだけど?」
「こないだアンタのトコの料理作ってみたんだけどね、灰汁が出るんだよ。どうすればいいか分かるかい?」
「あー、それならロームレの葉っぱ刻んで入れてみたら?」
「そうかい。ありがとね」
女性は件のレシピ本を購入して店を出ていった。
今までマオ族ということで罵られたりはしたが、今のように親しげに話しかけられたことは始めてである。
ジャガイモとマオ族の郷土料理は、思わぬ副産物をラーニャたちにもたらしてくれたらしい。
ラーニャはご機嫌になりながら、本を買ってすっかり馴染んだ下宿に戻った。
今住んでいる下宿は築三十年の木造建築で、お世辞にも綺麗とは言えないところである。
彼女の収入ならいくらでもいい所に住めるのだが、子供・保証人なし・おまけにマオ族という三拍子が揃っていると、なかなか受け入れてくれる所がないのだ。
ラーニャは二階にある部屋に入るなり、さっそくベットに寝転がって本を読み始めた。
レシピはわりと有名なものから、ラーニャも知らないごく一部しか食べないものまで幅広く載っている。
この本の著者は、随分熱心に調べたようだ。
ラーニャは感動すら覚えながらページをめくっていったが、次第に眠くなり始めた。
どうやら最近実験続きで疲れていたらしい。
どれくらいウトウトした頃だろうか。
ラーニャが半分夢の中にいながら本を眺めていると、不意に焦げ臭い匂いが鼻を掠めた。
寝ぼけているだけかと思ったが、仕舞いには人の叫び声まで聞こえてくる。
「火事だー!」
「逃げろー!」
はっとしてラーニャが扉を開けると、途端にもうもうと煙が部屋の中に立ちこめた。
階段の下には、炎らしき赤いものも見える。
下宿は木造建築だ。
おそらくすぐ二階まで炎は迫ってくるだろう。
(こりゃヤベェ――!)
グズグズしていたらすぐに煙と炎に巻かれてしまう。
ラーニャはほとんどパニックになりながら、取るものもとりあえず部屋の窓から飛び降りた。
*
毛布に包まりながら精霊局のソファーで寝ているラーニャを見て、マドイはギャッと悲鳴を上げた。
本気で驚く彼を見て、ラーニャはむっとした表情を作る。
「何だよ。その反応は」
「しょうがないでしょう。変な声がすると様子を見に来てみれば、毛布に包まった巨大猫がいるなんて!」
「あ、オレ寝言言ってた? ワリィワリィ」
「……それはともかく、貴女こんな所で何してるんですか?」
マドイが不審に思うのも無理はなかった。
今はまだ早朝で、始業まで大分時間がある。
当然精霊局にもまだ人は来ておらず、いるのはソファーに寝そべるラーニャだけだった。
「寝てんだよ。昨日寝れなかったから」
「寝てないって、ここは寝る場所じゃありません! それに貴女、着てるものも昨日と一緒だし、カバン一つ持って来てないじゃありませんか。仕事を何だと思ってるんです」
「しょーがないだろ。家焼けちゃったんだから」
「家が焼けた――って、えぇ!?」
昨日の夜、ラーニャの下宿はめでたく全焼した。
原因はおそらく、台所の火の不始末だと思われる。
「それでさ、オレ、逃げるのに手一杯でお金持ってこれなかったんだよ。だから顔見知りの警備兵に入れてもらって、ここで夜明かししたワケ」
「……その毛布は?」
「警備兵のオッサンが貸してくれた」
ラーニャの返事に、マドイは頭を抱えていた。
いかんせん呑気な彼女の様子に、呆れ返ったのだろう。
「つまり、貴女は今一文無しな訳ですね。これから一体どうするつもりです?」
「うーん。金が入って、新しい下宿が見つかるまでここで暮らすかなぁ?」
「このおバカ! 何ヶ月ここに居座るつもりですか!!」
「だってしょうがないだろ? オレ条件悪すぎて、ほとんど受け入れてくれる下宿なんてないからさ」
開き直って笑うラーニャをマドイは黙って見つめていた。
何か難しいことを考えているようにも見える。
マドイはしばらく沈黙した後、ため息をつきながら言った。
「――仕方ない。余っている部屋があるので、そこを使いなさい」
「え? いいの?」
「ここで暮らされたら困りますからね。そこに移る準備をしておきますから、仕事が終わったら大臣室に来るように」
何せ広大な魔導庁である。
余っている部屋など、探せば三つ四つあるのだろう。
ラーニャはひれ伏さんばかりにマドイに礼を述べ、仕事が終わると言われた通りに彼の元を尋ねた。
「じゃあ、さっそく行きましょう。ついて来なさい」
マドイに案内されるまま、ラーニャは彼の後に続く。
だが連れて行かれた先は魔導庁のどの部屋でもなく、マドイ専用の馬車の前だった。
「……オレにここに住めって言うの? 別にいいけど」
「違いますよ。いいから乗りなさい」
魔導庁がいくら広いとはいえ、馬車に乗らなければならない距離にある建物はない。
ラーニャが首をかしげていると、馬車はなぜか真っ直ぐ王宮に到着した。
わけの分からぬまま降ろされ、どこかの扉の前まで連れて行かれる。
「ここどこ? 何の部屋なの?」
「ここは私の住む宮です。この部屋は私の自室の隣にある、空き部屋です」
マドイの住む宮には何度か行ったことがあるが、彼自身の部屋の近くに来たのは始めてだった。
過剰なまでに天井に施された装飾が、やはり派手好きの彼らしい。
「で、どうしてオレをここに連れてきたの?」
「頭悪いですねぇ。空いている部屋があると言ったでしょう?」
「おい、まさかこの部屋がそうだって言うんじゃないだろうな?」
ラーニャは否定されるのを期待して恐る恐る聞いてみる。
だがその期待は数秒で無情にも打ち砕かれた。
「そうですよ。他になにがあるんですか?」
マドイはまるで当たり前のように、唖然とするラーニャに向かって答えた。