小麦騒動編3 騒動の幕開け
一昨日に昇格試験を終えたラーニャは、やっと苦しかった受験勉強から開放された。
多少分からない所もあったが、手ごたえはまずまずと言った所だろう。
採点には時間がかかるため、まだ結果は分かっていないが、とりあえず終わった事を喜んでおく。
しかし開放感に溢れるラーニャとは対象的に、今王都にはどことなく殺伐とした雰囲気が漂っていた。
原因はいうまでもなく、小麦の価格の暴騰である。
ラーニャが買い出しに行ってから数週間が経ったが、小麦の価格の上昇は留まる所を知らなかった。
王都の新聞には、毎日のように小麦粉泥棒やパン泥棒の記事が載っている。
実際ラーニャが知っているパン屋も、つい最近窃盗の被害にあったばかりであった。
もはや小麦の値段、ひいてはパンの値段は、貧しい庶民には手が届かない領域にまで高騰しているのだ。
「なぁ、このままじゃマズイんじゃないか?」
魔導庁での昼休み、ラーニャは精霊局を尋ねて来たマドイに開口一番こう言った。
「まずいって、何がですか?」
「小麦のことだよ。オレはジャガイモ食ってるからいいけど、他の奴らは大変みたいだぜ」
ラーニャの言葉を聞いてマドイは大きくため息をつき、彼女の隣にあった椅子に腰掛けた。
心なしか顔色も悪いし、疲れているようにも見える。
「私も、それなりに頑張っているつもりなんですがね……」
「でも、新聞にゃ毎日パン泥棒の記事ばかりだぞ」
「今朝も、父上や官吏たちと対策会議を開いたばかりなのですが……」
国王やマドイとしては、価格の急騰につながる小麦の買占めや売り惜しみを禁止し、すぐさま小麦問屋に小麦を吐き出させる命令を出したいらしい。
しかし小麦問屋に癒着している貴族はこれに当然のごとく猛反対しているという。
「無理やりお触れを出しても、抵抗されて上手くいきませんからね」
「強制的に小麦問屋から没収しちゃえば?」
「それでは返って反発を招き、後々困ったことになりかねません。それにああいう輩は貸しを作ると、増徴して国を腐らせますから」
今皇太子オールを中心に癒着の証拠を洗っているらしいが、向こうも馬鹿ではない。
なかなか尻尾を掴めず、公になるには時間がかかりそうだという。
だが証拠が挙がるのを待てる程のんびりした状況でないのは、ラーニャの目にも明らかだった。
今の状況に一番焦っているだろうマドイは、彫刻のように硬い顔つきになって俯く。
「――このままでは、また十五年前のようになるかもしれません」
「十五年前?」
マドイは黙ったまま頷いた。
彼曰く、十五年前も小麦が不足し、王都で小麦の価格が急騰したという。
当時国が対策に出遅れたため、小麦は通常の三倍近くの値段に釣りあがり、庶民がパンを食べれないような状況にまで陥った。
そうなれば当然、困窮した民は暴動を起こす。
暴徒と化した庶民は価格暴騰の原因となった小麦問屋・貴族の邸宅に押し寄せ、それを取り締まろうとした警備隊とのもみ合いにより、多数の死傷者が出る騒ぎとなった。
「もちろん民は王城へも押し寄せました。私はその時七歳でしたが、あの時見た人達の顔は未だに忘れられません」
王城に押し寄せた庶民の中にも、衛兵たちとの攻防で死んだり怪我をしたりした者がいたという。
また、騒ぎの巻き添えになって死んだ人間も少なくなかった。
「もし、またそんなことになったら私は――」
マドイは薄く整った唇を噛み締めた。
彼の切れ長の目の下には、ハッキリと隈が出来上がってしまっている。
いつも美容には人一倍気を使っているマドイからは考えられない状態だった。
「……マドイ元気出せよ」
やつれてしまった彼を見て、ラーニャは励まさずにはいられなかった。
彼の苦労と心痛を考えると、なぜだか胸が痛くなる。
「私はひょっとしたら王族失格なのかもしれません。たかだか小麦の値段一つ自由にできず、民を困らせるなど――なんて情けない王子でしょう」
「そんなことねーよ。お前はよくやってるじゃないか」
「どんなに頑張っても、結果が出なければ意味ありません」
マドイは両手で大きく顔を覆う。
嘆く彼の頭を、ラーニャはあやすように叩いた。
手入れの行き届いた髪はツヤツヤして、以外に触り心地がよい。
「あんま悩んでるとハゲるって。なんとかなるよ――きっとな」
ラーニャの「なんとかなる」は根拠があって言ったわけではなく、ほとんど祈りや呪文に近かった。
できるなら、このまま何事もなく小麦の値段が落ち着いて欲しい。
だがラーニャの願いが天に届くことはなかった。
マドイと話してから三日後、ついに王都で暴動が起こったのである。
その日ラーニャは、偶然にもミカエルに招待されて王宮の中にいた。
試験が終わった打ち上げをするためである。
「なんか外の方、騒がしくないか?」
用意された豪華な昼食を前にして、ラーニャは窓の外を覗いた。
ここからでは町の様子はおろか城の外も分からないが、何となく空気がざわついた感じがする。
「そうかなー。ぼく全然分かんないやっ」
「気のせいかな?」
気にしていても仕方がないので、ラーニャとミカエルは打ち上げを始めることにした。
ラーニャは用意されたご馳走に舌鼓を打ち、ミカエルはしばらく会っていない間に仕入れた噂話をまくし立てる。
だが食事が半分ほど進んだ所で、ミカエルの侍女が慌てた様子で駆け込んできた。
「どうしたのっ? 夫の浮気現場でも見ちゃった?」
「違います殿下! 暴動です。王都の民がパンをよこせと暴動を起こしました!!」
侍女の知らせを聞いて、ラーニャは思わず立ち上がった。
恐れていた事態が、ついに起こってしまった。
侍女の話によると、暴動を起こした庶民たちは小麦問屋に押しかけ、店を打ち壊したり、略奪を働いたりしていると言う。
もちろん王城の門にも大勢人が押し寄せているようだ。
このままでは十五年前と同じように、死傷者が出ることは目に見えている。
騒ぎが広まれば、巻き添えを食って家や財産を破壊される者も出てくるだろう。
それに――。
「……マドイのヤツ、悲しむだろうな」
ラーニャは呟くと、ふらりとミカエルの部屋を出た。