小麦騒動編1 マドイつきまとい
今ラーニャが魔導庁でついている役職は「精霊局研究補佐官」である。
研究補佐官はあくまでも研究の補佐が仕事であり、やれることに限りがあった。
高度な研究に協力するには、「精霊局研究員」にならなければならない。
その研究員になるための試験を、ラーニャは二週間後に控えていた。
今は最後の追い込み時期である。
研究補佐官の時とは違い、合格するには最低七十点は取らなければならない。
出題内容は基礎ばかりだったが、義務教育を受けていないラーニャには少々厳しいものがあった。
試験は夏と冬の年二回だから、これを逃したら次は新年である。
ラーニャの協力が必要な研究は溜まっている一方だし、いつまでも半人前でいたくなかったので、なんとしてでも今回合格したかった。
だからここ一ヶ月、特別に用意された勉強部屋で朝から晩まで勉強漬けである。
教科書を見れば分かる問題ばかりなので、基本一人での勉強だった。
だが一日に一回。
多い時で数時間に一回、勉強部屋には困った客が訪ねて来る。
魔導大臣、つまりラーニャの上司である「彼」は、暇でもないだろうに、時間を見つけてはラーニャの勉強を見に来るのだ。
(また来たよ……)
本日二回目の登場となったマドイを見て、ラーニャはため息をついた。
きっと今日は仕事がない日なのだろう。
部屋に入るなり、マドイは扇で顔の周りを仰ぐ。
「嗚呼熱い。ちゃんと窓開けてるんですか?」
「開けてるよ。風が入って来ないんだからしょうがないだろ」
「まったく。だから大臣室の隣の部屋を使うように言っているのに……」
そんなことしたら、一日中観察されるハメになるのは目に見えている。
今でさえうっとおしいのに、まっぴらゴメンだった。
「で、何の用だよ。別に分からない所なんてないぞ」
「特に用はありませんよ。様子を見に来ただけです」
だったら早く立ち去ればいいのに、マドイは椅子を持ってくると、ラーニャの向かいに腰掛けた。
「分からないことがあったら、聞いてくださいね」
「ないから大丈夫だよ」
再び問題にとりかかっても、マドイの視線はまだこちらに向かっていた。
視線が気になって、とてもじゃないが勉強なんてできやしない。
さすがにうざったくなって、ラーニャはつい声を荒げた。
「おいマドイ!」
「あ、この問題が分からないんですか?」
「ちげーよ。そうじゃなくて……」
「でもここ、間違ってますよ」
マドイが身を乗り出した。
いきなり近付いてきた彼の整った顔に、ラーニャの身体がつい仰け反る。
「オイコラ! 急に顔近付けんな!! テメェ自分の面のこと分かってんだろ!?」
「面のことって?」
「テメーの無駄にお綺麗な顔のことだよ!」
「あら、ひょっとしてラーニャ……照れました?」
なぜかうっとりとマドイが微笑んだ。
普通の女性なら顔を赤らめるだろう美しさだったが、ラーニャの全身には鳥肌が走る。
とうとう耐え切れなくなったラーニャは両手を机に叩きつけた。
「微笑んでんじゃねーよ! なんなんだよこの雰囲気!」
「え……なんですかいきなり」
「考えてもみろよ。最初の頃はもっと緊張感があっただろ!? オレたちの関係ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。机の向かいに座ったりしたら、いつ喧嘩が始まってもおかしくない、刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。」
「ちょっと。どこかの定食屋みたいなこと言わないで下さいよ」
「――とにかく! マドイはもう帰ってくれ。勉強の邪魔だから!」
ラーニャに徹底的に拒絶され、マドイはしょんぼりしながら出て行った。
若干罪悪感はあったが、勉強の邪魔になるのは本当なので仕方ない。
悪いのはしょっちゅうちょっかいをかけてくるマドイである。
(アイツ一体どうしちゃったんだろ)
勉強部屋が出来てからというもの、マドイは来たかと思えば、何をするでもなくラーニャの様子を観察している。
春頃の魔法の実践訓練の時のように、何かにつけて説教をしてくるわけでもない。
ただラーニャを――それもときおり微笑みながら――見ているのである。
(ひょっとして、アイツ皆に嫌われてるんじゃないのか?)
だから大臣室に居辛くて、ラーニャの所に来るんではないだろうか。
ラーニャはそう思った。
ならば何だかんだで相手をしてくれるラーニャの存在は、今の彼にとってオアシスに違いない。
(……だったら冷たくするのは可哀想かも)
今度ミカエルに会ったら、そこらへんのことを聞いてみようとラーニャは思った。
幸い次の休日は、ミカエルと買い出しに行く予定である。
一国の王子が町に買い出しに行くことの是非については、もはや気にすまい。
だが当日、ラーニャが待ち合わせ場所の時計台に行くと、そこにミカエルの姿はなかった。
代わりに立っているのは、何とマドイその人である。
「何でテメェがここにいるんだよオオォォ!!」
マドイはいつも真っ直ぐ垂らしている銀髪を一つに結び、銀縁のメガネをかけていた。
着ている物は、普段よりも随分大人しい。
変装のつもりだろうか。
彼はラーニャに気付くと、妖艶な笑みを顔いっぱいに浮かべる。
「ごきげんようラーニャ。少し遅かったですね」
「遅かったじゃねーよ! どうしてマドイがここにいるんだよ!?」
「ミカエルが体調不良なので、私が代わりに来ました」
(こなくていいよ! っていうか来るんじゃねぇ!!)
ラーニャは心の中で声を張り上げたが、彼に聞こえるはずもない。
「買い物があるんでしょう? さっさと行きましょうよ」
マドイはラーニャに確認を取るでもなく、さっさと街に向かって歩き出した。