泥かぶり編9 魔法使いなんて必要ない
「明日の夜、私の宮で晩餐会を開きましょう。そこを写真にとって送りつけてやればよろしい」
マドイはラーニャ一人のために、わざわざ晩餐会まで開いてくれるらしかった。
気持ちは有難いが、そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ない。
「いいよ。そんなことまでしなくても」
「なぜですか? 親戚たちに泡を吹かせてやりましょうじゃありませんか。『魔法使いの来ない泥かぶり』の汚名返上です」
マドイの表情から察するに、ラーニャのためと言うよりも自分が楽しみたいだけのようであった。
しかしそのためだけに晩餐会を開くとは、さすが王子様と言ったところだろう。
「晩餐会と言っても、来るのはミカエルだけですがね。でも、ちゃんと今日の服を着てくるんですよ。普段着じゃ意味ありませんから」
「明日の夕方、貴方の下宿先まで馬車を迎えによこします」とマドイは実に楽しそうにラーニャに告げた。
人のトラブルを楽しみたがるあたり、やはりミカエルの兄弟である。
翌日の夕方、ラーニャはマドイに言われた通り、昨日のワンピースに身を包み、下宿の入り口で迎えの馬車を待った。
一緒に贈られたビーズ製のネックレスももちろんつけている。
天候はあいにくの雨だったが、ラーニャの気分はいつになく軽快だった。
思えば最後に女の子らしく着飾ったのは一体いつだっただろうか。
村では肉体労働ばかりを任されていたラーニャに、女の子らしい服を着る機会などほとんどなかった。
ごくたまに祝い事などで着飾っても、大人たちは皆ナータばかりを褒め、ラーニャに目が向けられたことなど一度もない。
王都に出稼ぎに来てからは言わずもがなである。
ラーニャはオレンジ色のワンピースを着た自分の体を見下ろした。
マドイが選んだだけあって、自分で言うのもなんだが良く似合っていると思う。
自分に似合った可愛い服を着て、華やかな晩餐会。
まるでおとぎ話のようだった。
ラーニャは春の寒い雨が振るなか、じっと馬車が来るのを待った。
少し遅れているのか、迎えはなかなかやって来なかったが、それでも気分は少しも悪くならなかった。
鼻歌を歌いながら、ラーニャは下宿の玄関から辺りを見回す。
雨に濡れて光る石畳。
屋根から落ちたしずくが跳ね返る音。
傘を差して歩いていく老婆。
普段ならどうということもない光景が、今日は妙に楽しかった。
段々足先がかじかんできたところで、やっと迎えの馬車がやってきた。
いつか出会った執事風の老人が、遅れたことを詫びながらラーニャを中に招きいれようとする。
だがラーニャが馬車の中に一歩踏み入れたそのとき、女性の弱々しい悲鳴が辺りに響いた。
驚いて馬車の外に飛び出すと、先ほどの老婆が石畳の上に倒れている。
「泥棒! バッグを返して頂戴!」
老婆の視線の先には、彼女の物と思わしきバッグを掴んで走り去る男の姿が見えた。
状況から考えて、引ったくりに間違いないだろう。
老婆は足腰が悪いのか、冷たい地面の上に倒れたままもがいていた。
仮に立ちあがれたとしても、年老いた女性の足で引ったくりを捕まえるのは不可能である。
(でもオレなら――)
ラーニャは筋力と持久力に並外れて優れているから、もちろん足も速い。
ひょっとしたら捕まえられるかもしれなかった。
「返して! あたしのバッグ――娘の形見なのよぉ」
老婆はゴマ粒くらいの影になった男に、泣きながら叫んでいた。
「返してかえして……」
とうとう彼女は雨に濡れた地面に突っ伏して泣き始める。
弱々しくすすり泣く彼女の姿を見て、ラーニャは何も考えずに男が逃げた方向に向かって走り出した。
*
誰だか分からなくなるほど泥まみれになったラーニャを見て、マドイは絶句していた。
それは横にいたミカエルとアーサーも一緒である。
ラーニャの毛先からは泥水が滴り、顔にはまるで塗りたくったように泥がこびりついていた。
綺麗だったワンピースも茶色く染まり、ところどころ破れてすらいる。
彼らが唖然とするのも無理ない有様だった。
「ラーニャ、この惨状は一体どういうことですか?」
やっとマドイが尋ねると、ラーニャは一言「ゴメンなさい」と謝った。
「謝れといっているのではなく、理由を聞いているのです」
「……」
ラーニャは俯いて一言も答えようとしない。
だが彼女を庇うように、ラーニャをここに連れてきた老人が口を挟んだ。
「マドイ殿下、この方は老婆を襲った引ったくりを捕らえられようとしたのでございます」
「引ったくりを?」
「はい。ラーニャ様は引ったくりを追い、捕まえようともみ合いになってこのようなお姿に」
「……」
マドイは無言のまま視線をラーニャに移した。
「雨の中引ったくりを捕まえようなんて、服が台無しになると分かるでしょう」
「……ごめんなさい」
無表情になったマドイの顔を見て、ラーニャは身をすくませた。
いくら正義感に基づく行動だったとはいえ、贈り物を昨日の今日でダメにされたら怒るに決まっている。
だがマドイは顔の筋肉をふっと緩ませながら言った。
「全く。貴女という人は」
彼は懐から絹のハンカチを取り出すと、乱暴にラーニャの顔を拭いた。
ラーニャは驚いて顔を上げる。
「……怒ってないのか」
「怒ってませんよ」
軽く笑いながらマドイは彼女の後頭部を手で押さえ、顔を強引にぐりぐりと拭う。
せっかく贈った衣装を台無しにされたのに微笑んでいるなんて、ラーニャはさっぱり理解できなかった。
「どうして怒んないんだよ。オレ、ワンピースメチャクチャにしたんだぞ」
「ワンピースなんて、金さえあればいくらでも用意できます。髪も体もまた洗えばいい。だけどラーニャの中身は、金を払おうが洗おうが手に入りませんからね」
マドイはやっとハンカチを止めると、ラーニャの頭の上に手を置いた。
「だからもう、そんなしょげた顔するのはおやめなさい。ミカエルも私も、ラーニャが泥まみれだろうが何だろうが、貴女の味方に変わりありませんから」
――オレはいつでもお前の味方だ。お前が泥まみれだろうが鼻水まみれだろうがな。
マドイの言葉は、死んだ父にいつか言われた言葉を髣髴とさせるのに充分だった。
ラーニャははっと目を見開いて、彼の紫色の双眸を見つめる。
一体彼はいつからこんな優しすぎる言葉を言うようになったのだろう。
つい最近まで、もっと冷たい人間のはずだったのに。
(……マドイのクセに生意気だぞ)
急に何がしかの衝動がこみ上げて、ラーニャは近くにあった彼の頭をはたいた。
「いたっ。何するんですか!」
「テメーがお前が変なこと言うからワリィんだよ。ヴァーカ!」
ラーニャは彼の手を振り払うと、背を向けて強引に廊下を歩き出す。
もうナータたちをギャフンといわせることなどどうでも良かった。
ここには泥をかぶったままでも自分を必要としてくれる人達がいる。
「ちょっ。どこに行くんですか!」
「晩餐会の用意してあんだろ? 飯冷めちまうだろーが」
「その前にお風呂に入りなさい。お風呂! あと着替えも!!」
マドイが慌てて追いかけてくる。
必死すぎる彼の姿が滑稽で、ラーニャは久しぶりに笑ったのだった。
泥かぶり編はこれで終わりです。
なぜか投稿したのに反映されてなかったみたいなので、本当にすみません。
次回からは「愛の力編」が始まります。
題名こそアレですが、次回もいつもの激烈出稼ぎ娘です。