【番外編】初恋は暴走・妄想(後編)
最近ラーニャは、ずっとマドイの宮に入り浸りだった。
なぜなら婚礼の準備が忙しく、公爵家と王宮をいちいち行ったり来たりするよりは、ずっと王宮にいる方が手っ取り早かったからだ。
結婚後のことも含めて、備えることは山のようにある。
もちろん夜は自分の部屋に帰るが、結婚前にマドイの宮は、既にラーニャの第二の自宅と化していた。
とはいえ、何も朝から晩まで準備に追われているわけではなく、ぽっかりと時間が空くこともままある。
今ラーニャがぼんやりと窓の外を眺めているのは、そんな空き時間を持て余してのことだった。
せっかく朝から来てやったのに、マドイの予定が急に変わったのだ。
普段なら暇つぶしように雑誌やら漫画やらを持っているのだが、こういう日に限って持ってくるのを忘れている。
勝手にマドイの本棚から本を引っ張り出してもみたが、漫画は一冊もなく、小説もラーニャの好みとは正反対の甘ったるい恋愛小説か、もしくは耽美小説ばかりで、ちっとも面白い物はなかった。
(あー、暇だなぁ)
ラーニャはドレスが皺になるのも恐れず、ソファーの上でごろ寝をする。
大きな窓からは、時折小鳥がさえずる声が聞こえてきた。
だらしなく口を開けたまま仰向けになって、どれくらい経った頃だろうか。
外から「ぱちんぱちん」という妙な音が耳に入り始めた。
薄っすら目を開けると、レースのカーテン越しに、木に登っている人影が見える。
(アレ、何だろう?)
始めは不審に思ったが、目を凝らしてみると、庭師が剪定をしているのだと分かった。
大体十台半ばくらいの、少年である。
王宮の庭師は皆一流で、年齢が高い者ばかりだから、きっと見習いか手伝いだろう。
ラーニャはそう勝手に納得すると、そっと窓まで近付いて行った。
暇で暇で仕方なかったので、植木の剪定さえも楽しそうに見えたのである。
余程夢中になっているらしく、ラーニャが窓のすぐそばまで近寄っても、少年は気付かず木を切っていた。
しかし疲れてきたのか、やがてため息を吐いて汗を拭う。
「スゴイなぁ。さすが王宮だ」
少年がしみじみと呟いたので、ラーニャはつい噴き出してしまった。
確かに王宮の、特にマドイの庭園は、趣向が凝っている。
大理石の噴水はもちろん、隅には小川まで作ってあるし、その上異国から取り寄せた東屋まで設置してあったりするのだ。
もちろん植えてある花々も、芸術的かつどの季節でも楽しめるよう、綿密な計算に基づいて植えられている。
きっと少年は王宮に来て日が浅いから、とりわけ庭に感じ入ったのだろう。
「庭師でもそうおもう? やっぱり」
ラーニャが少年に話しかけると、彼は慌てふためいていた。
緊張しているらしく、なにやら謝ってくるし、悪いが見ていて笑ってしまいそうになる。
新しく来た庭師なのかと尋ねてみると、驚いたことに、彼は町の植木屋だった。
なんとプリットの木を切るためだけに、マドイに雇われているという。
正確には、雇われているのは少年の父親で、彼はその後継ぎ息子らしいが、特定の木を切るためだけに、町からわざわざ植木屋を雇うなんて、マドイも随分な酔狂である。
自らの容姿に始まり、「美」というものにを限りなく追求する彼だから、当然といえば当然なのかもしれなかったが。
話していると、少年が親方の父親に怒鳴られてしまったので、ラーニャはそれ以上邪魔をするのは悪いと思い、すぐに窓から離れた。
これ以上暇なのに耐え切れそうになかったが、幸い予定が早く終わったのか、マドイが部屋に戻ってくる。
今日は二人で、新婚旅行の行き先を決める予定だった。
王家では式後、一ヶ月もの間、新郎新婦が休暇を取ることが許されているのである。
二人とも趣味がてんでバラバラなので、もめるかと思ったが、行き先は、大して話し合うこともなく決まった。
なぜなら、王家が既にバカンスに最適な南の島の別荘を持っていたからである。
マドイ曰く、その島はエメラルド色の海に囲まれ、これぞ楽園というような美しい場所であるという。
生まれてから一度も海を見たことがないラーニャにとって、これ以上の旅行先はなかった。
「オレそこがいい。海が見てみたい」
マドイはラーニャが海を見たことがないと知ると、大層驚き、ならばその別荘にしようと言ってくれた。
普段はヒステリー持ちで我侭なくせに、こういう所は譲ってくれるのだ。
午後からはまたマドイに仕事の予定が入っているので、ラーニャは彼と一緒に昼食をとった後、自分の部屋に帰ることにした。
だがいざ帰ろうという時に、ラーニャはマドイから呼び止められる。
「忘れていました。そういえば貴女にどうしてもお渡ししたいものがあって」
そう言ってマドイが部屋の奥から取ってきたのは、一冊の薄紅色をした本であった。
表紙には金色の字で「籠の中のナイチンゲール」と、題名が印字されている。
見たところ小説のようだった。
「これ、すごく面白いんですよ。ぜひ読んでください」
「えー」
正直ラーニャはあまり気が進まなかった。
元々小説よりも漫画の方が好きな性分だし、そもそもマドイとは本の趣味がまったく合わないからだ。
「『えー』とはなんですか。『えー』とは」
「えー。だって」
「いいから。とにかく読んでみなさい。素晴らしい傑作ですから!」
マドイは「今度感想を聞かせてください。絶対に」と言うと、ラーニャよりも先に部屋を出て行ってしまった。
ラーニャは仕事に向かうマドイを引き止めることもできず、手元に残った本を見てため息をつく。
厄介な物を押し付けられてしまったと思った。
感想を求められているので、読まずに適当なことを言って返すこともできない。
無言で突っ返す方法も考えなくもなかったが、もしそうしたらマドイの機嫌は最低一週間は最悪だろう。
「あいつも困った奴だよなぁ」
自室に戻ったラーニャはぶつくさ言いながら、本の表紙を開いた。
数ページ読んで見たが、やはり思ったとおり好みに合わない。
主人公は森で暮らしていて、いつも森の花畑で歌を歌っているという設定だったが、その時点でもはや意味不明だった。
何でせっかく森で暮らしているのに、走り回らないで、歌だけ歌っているのか。
というか、彼女は農民の娘だろうに、仕事はしなくていいのだろうか。
そんな下らない疑問が浮かんでは消える。
その上文章も詩的な表現が多すぎて、読んでいくのがウザくなる始末だった。
きっとマドイや大多数の女性のように、メルヘンチックな話と美しく情緒的な文章が好きな者にはいいのだろう。
だがメルヘンより冒険活劇を求め、美しい文章より「ガンガン行こうぜ」とか「モンスターが現れた」とか、簡潔すぎる文章を好むラーニャにとっては、相性が死ぬほど悪かった。
そのうち感想を言わなければならないのは承知している。
だがラーニャはこれ以上この小説――「籠の中のナイチンゲール」を読み進めることはできなかった。
怒られるのは必至だが、無理なものは無理である。
そもそもマドイが無理矢理本を押し付けたのであって、こちらは読んでやる義理も何もないのだ。
しかし翌日、突っ返すつもりで本を王宮へ持ってきたラーニャは、いまいち覚悟を決められず、どうしようかと迷っていた。
マドイだって、何もイジワルで本を渡したわけではない。
むしろ好意とも言える彼の行動を無下にすることは、いささか後ろめたい気持ちだった。
もっとも、彼に怒られるのが嫌だというのが、覚悟を決められない主な理由ではあったが。
迷いに迷ったラーニャは、結局、もう一度「籠の中のナイチンゲール」を読んでみることにした。
幸い、マドイとの待ち合わせにはまだ時間がある。
今日は昨日と同じ、素晴らしい快晴だったので、ラーニャはせっかくだからと、本を読む場所に庭園を選んだ。
直射日光が当たる所は暑いので、ちょうどいい木陰が出来上がっていた木の下に腰をかける。
だがいくら環境がよくても、本の中身が変わるわけがなかった。
二回読んでもやっぱりつまらなくて、ラーニャはどうしたものかと途方にくれる。
やっぱり、読まないまま返すしかないのか。
ラーニャは答えを出しかねて、じっとこのつまらない本を凝視していたが、その時、ふと視線のようなものを感じて顔を上げた。
マドイかと思ったが、目の前にいるのは、銀髪の長身ではなく、そばかすだらけの男の子である。
ラーニャはすぐに、彼が昨日の植木屋見習いであると気付いた。
きっとこの木の剪定に来たのだろう。
ラーニャは邪魔になるだろうと思って、彼に尋ねる。
「あ、この木切る? 邪魔ならどうこうか?」
「いっ、いえ! 後でもかまいません!!」
少年は昨日と同じく、酷く取り乱した様子だった。
もしかしたらラーニャのことを、貴族の我侭お姫様だと勘違いしていて、下手をすると折檻されると思っているのかもしれない。
「後でって、いちいち戻ってくるの面倒だろ? どくからいいよ」
「そんな、めっそうもない!!」
少年が自分から「じゃあお願いします」と、言うとは思えなかったので、ラーニャはさっさと腰を上げた。
そのまま王宮に戻ろうかと思ったが、ふとラーニャの脳裏に妙案が閃く。
「――さっきこの本気にしてたみたいだけど、ひょっとしてお前本好き?」
さっき少年の視線を感じたのは、きっと彼が本を気にしていたからだろう――そんな推測に基づく、ダメで元々の問いかけだった。
もし彼が本好きなら、この「籠の中のナイチンゲール」を任せてしまおうという、非常に狡い企みである。
「はい! ボク本大好きです!」
少年がそう断言したので、ラーニャはにやりと笑った。
これなら少年は好きな本をただで読めるし、ラーニャは助かるし、利害関係が一致する。
「ホント? 良かった! この本誰かに読んで欲しかったんだ」
ラーニャは手早く本を渡すと、感想を頼んで王宮に戻った。
マジメそうな少年だったから、借りた物はきちんと返してくれるだろう。
時間が来たのでマドイの部屋に行くと、彼は早速本の事を聞いてきた。
ラーニャは多少罪悪感を感じながらも、「今読んでるよ」と、何食わぬ顔で答える。
聞けば、マドイは気に入った文章に線を引くほど、あの小説に入れ込んでいるらしい。
今日本を返さなくて、本当に正解であった。
少年に本を任せたおかげで、翌日もラーニャは気がかりなくマドイに会うことができた。
おとといから引き続き快晴なので、二人は用事の合間に庭園へ散歩に出かける。
芽吹きの季節だからか、完璧に整えられているように見えても、庭の隅にはところどころ野の花がこぼれ咲いていた。
マドイは除草剤を嫌っているから、どこからか飛んできた種が根付いて育ったのだろう。
そこかしこに咲く大輪のバラのような華やかさはないものの、どれも素朴で可愛らしい花ばかりだった。
「なぁ、あの雑草、つんでいい?」
ラーニャが聞くと、マドイは「むしろそうして下さい」と、即答した。
聞けば、抜いても抜いても生えてくるため、対処に困っているのだという。
庭の主からお墨付きをもらったラーニャは、早速片隅に咲く花々に駆け寄った。
気にいった物を次々摘み取っているうちに、彼女の手は瞬く間に花でいっぱいになる。
持ちきれなくなるとラーニャはマドイの所に戻って、できたての花束を見せびらかした。
「どうよ? 雑草とはいえなかなか綺麗だろ?」
「そうですねぇ。今まで気にもしませんでしたが、こうしてみるとそれなりに見られますね」
意外にマドイは興味しんしんだった。
きっと彼の鋭敏な美的感覚をくすぐるものが、野の花の中にあったのだろう。
もっと良く見せてくれと言われたので、ラーニャは持っていた花束を差し出す。
だがマドイは受け取ろうとした瞬間に、奇妙な叫び声を上げて花束を叩き落とした。
「けっ、毛虫!!」
良く見れば花束の中に紛れて、橙色と黄色をした毛虫がくねっていた。
たかだか毛虫の一匹なのに、マドイの顔色は一瞬で青白く変わる。
「け、けむっ。こっち来ないでくだい!!」
意味の分からない言葉を発すると、マドイは鮮やかな足裁きで回れ右をし、ラーニャを置いて王宮に帰ってしまった。
よっぽど毛虫が苦手なのだろうが、婚約者を置いて逃げるなんて情けなさ過ぎる男である。
「あんなに怖がることねーよなー」
呆れかえったラーニャが逃げ帰る恋人の後姿を眺めていると、地面に落ちた毛虫が、足元によじ登ってきた。
畑仕事をしていたラーニャは、毛虫はもちろん、蜘蛛やゲジゲジの類も平気である。
ひょいと人差し指で、つま先にくっついた毛虫を掬い上げた。
近くで見るとこの毛虫、フカフカしていて可愛らしい。
「お前、意外と可愛いじゃねーか。よし、ケムタローと名付けよう」
近くの雑草を探してみると、ケムタローの家族だか仲間だかが、たくさん草の茎に掴まっていた。
この庭は農薬を使っていないから、繁殖しやすかったに違いない。
ラーニャが毛虫の鼻先に葉っぱを持ってくると、もしゃもしゃとそれを食んだ。
小さな口で一生懸命餌を食べる姿は、何ともいえない愛らしさがある。
「よーし。お前ら全員、オレのペットな!」
だがせっかくしたラーニャの「ペット宣言」は、思いも寄らぬ形で、いや、ある意味当然の形で、すぐに幕を閉じた。
翌日、ラーニャが毛虫のことをマドイに話すと、彼が「毛虫は今日中に駆除する」と告げたのである。
「どうして、そんなヒドイことすんだよ! 可哀想じゃねーか!」
お馴染みになった庭園の散歩の最中、ラーニャは庭のど真ん中にも関わらず、マドイに向かって叫んだ。
しかしマドイは、悪びれた様子もなく答える。
「アレは食欲旺盛で、草なら何でも食べてしまう害虫です。放っておいたら、庭を食い荒らされてしまうんですよ」
「いいじゃねーか。ちょっとくらい食べさしても」
「ダメです。あんな気持ち悪い生物が、私の庭を食い荒らすなど、耐えられません!」
「気持ち悪いって、可愛いだろ!? オレンジ色で、フカフカしてて……」
ラーニャが全ていい終わらないうちに、マドイは身震いしながら「このお馬鹿!」と叫んだ。
彼の顔色は、昨日と同じく土気色になっている。
「やめなさい! 想像してしまうでしょう? 嗚呼気持ち悪い。考えただけで吐き気がします。」
マドイが毛虫を嫌いなのは分かっていたが、好きなものをけなされて、ラーニャはにわかに腹が立った。
「……テメーだって女郎蜘蛛のクセに」
「誰が蜘蛛ですか。もっぺん言ってみなさい」
「何度でも言ってやるよ、女郎蜘蛛野郎。むしろ毛虫のお仲間じゃねーか」
「毛虫のお仲間」
このフレーズがマドイの逆鱗に触れたらしい。
ラーニャはしたたかに頭をひっ叩かれた。
「いてーな。何すんだこの野郎!」
「それはこっちの台詞です! 『毛虫のお仲間』なんて、侮辱するにも程があります!」
「うっせぇ。オレのケムタロウ殺そうとするからワリーんだろ! このオネェもどき!」
「その『オネェもどき』と、結婚するのはドコのどの猫ですか?」
冷静なマドイの返しに反論できなかったラーニャは、しばらくたじろいだ後、王宮に逃げ帰った。
昨日とちょうど正反対の光景である。
(マドイのバカ。毛虫殺し!!)
それでもラーニャは意見を譲るつもりは毛頭なく、その後の打ち合わせは最悪の空気で行われた。
翌日もそれは変わらず、ラーニャとマドイは必要最低限の会話だけで、結婚式の準備を進めた。
しかしこのままではまずいと思ったのだろう。
マドイは帰ろうとするラーニャを引き止め、夕食を一緒にとらないかと誘ってきた。
ラーニャも言いすぎたと思っていたので、無言で頷く。
だが食事の支度ができるまでの間も、二人の間に会話はなかった。
「ちょっと、お手洗いに行ってきます」
マドイは独り言のように言うと、静かに部屋を出て行った。
ラーニャは広い部屋に、ぽつんと一人で残される。
これからどうやってマドイと仲直りするか考えていると、いきなり真後ろの窓から「コンコン」と、まるでノックするような音が聞こえた。
今いる部屋は二階である。
ラーニャが驚いて振り返ると、窓ガラス越しに、いつかの植木屋見習いの顔があった。
「おい、一体どうしたんだ?」
何事かと駆け寄って窓を開けると、少年は満面の笑みで言う。
「借りた本を、お返しに参りました」
「え? わざわざ窓から?」
毛虫騒動ですっかり忘れていたが、確かにラーニャは本を少年に貸していた。
なぜ窓から参上したのかは分からなかったが、せっかく本を返しに来てくれたのである。
戸惑ったが、気を取り直してラーニャは聞いた。
「で、感想はどうだった? おもしろかった?」
何でもない事を聞いたつもりだったのだが、少年は何も答えず、じっとこちらを見つめていた。
だがやがて、少年は言う。
「ボクと一緒にここから逃げましょう。それがボクの感想です」
彼の答えに、ラーニャは思わず「は? え?」と、言ってしまった。
一体あの本を読んだら何がどうなって、「ボクと一緒にここから逃げましょう」なんて感想が生まれるのだろうか。
「え? あの? 何でそうなるの?」
「ボクは分かっていますから、大丈夫です。マドイ殿下がいないうちに、ここから逃げましょう」
「え? 大丈夫って何が? 何で逃げなきゃなんねーの?」
「だって、マドイ殿下と結婚したくないんでしょう?」
マドイがお手洗いから帰ってきたのは、少年がそう言ったのとほぼ同時のことだった。
部屋の扉を開けたままマドイは、ラーニャと植木屋見習いの姿を見て、呆然と立ち尽くしていた。
どうやら少年の台詞を聞いたらしい。
マドイは何か言おうとするが、それをさえぎるように少年が叫ぶ。
「ラーニャさん! ここはボクにまかせて、アナタだけでも逃げてください!」
「えっ? ちょっ――」
「ボクのことは気にしないで、アナタは自由になってください!!」
(何言ってるんだコイツは――)
だがそれを口に出す前に、マドイがブルブルと震えながら呟く。
「……ラーニャ。そんなに私のことが嫌いだったんですか?」
「はい!?」
「私と結婚するの、本当は嫌だったんですね……。でもまさか、そんなこっそり逃げ出そうだなんて――」
マドイはものの見事に誤解しているようだった。
ラーニャは首を横に振りながら、慌てて弁解しようとする。
「違うって、これは誤解なんだ!」
だがラーニャの台詞は、静かにパニックに陥ったマドイの耳には届かない。
「そんな風に思っていたなら、早く言ってくれれば良かったのに。気持ちが離れた女性を無理矢理手元に置いておくほど、私は傲慢な男ではありません」
「だから違うって!」
「……どこへでも、好きな所にお行きなさい。私は貴女の幸せを祈ります」
しみじみとした様子で、マドイはラーニャを扉の方へと促した。
彼の中では、ラーニャが愛想を尽かして出て行くことが決定されているらしい。
「なんでそうなるんだよ。チクショー! 人の話聞けよ!!」
叫んでも、マドイは遠い所を見るばかりであった。
一方少年は顔を輝かせて、ラーニャの手を引こうとする。
「ラーニャさん! 貴女は晴れて自由の身ですよ!」
「触るなバカヤロウ! お前一体何のつもりだよ? オレとマドイを引き裂くつもりか!?」
ラーニャが凄むと、少年は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
この少年、一体何が目的で二人の中を裂こうとするのだろうか。
場合によっては、ミカエルの協力も仰いで少年を尋問しようかと思ったが、次の瞬間、彼は思わぬことを言った。
「え? 引き裂くって――ラーニャさんは無理矢理、マドイ殿下と結婚させられそうになっているんでしょ?」
ラーニャは彼の答えに、金色の目を剥いた。
「オレがマドイと無理矢理結婚? 何言ってんだ。そんなわけねーだろ」
「えっ? だってラーニャさんは、血が目当てでマドイ殿下に召し上げられたって――。子供産んだら用済みだって、皆噂してたから……」
ラーニャとマドイは、無言で顔を見合わせた。
なんだか、詳しく話を聞いた方が良さそうである。
「その話、もっと聞かせろ」
「もっとも何も。ボクはただラーニャさんが可哀想だから、マドイ殿下から助けてあげようと思って……。それに、ラーニャさん、ボクに助けを求めてたじゃないですか」
そう言うと少年は、服の下から見覚えのある本を取り出した。
薄紅色の表紙には、「籠の中のナイチンゲール」という題名が印字されている。
少年は本を開くと、ある一文を指差して叫んだ。
「ほらここに、赤い線が引いてあるじゃないですか! これ、ボクへのメッセージでしょう?」
一文には『どうか、私を森へ逃がしてください』という台詞だけが書いてあった。
なぜそれを見て、少年はその台詞が自分へのメッセージだと思い、なおかつラーニャを逃がそうと考えたのか。
ラーニャにはさっぱりだったが、マドイは何かを悟ったようだった。
「ひょっとして、貴方。主人公とラーニャを重ねて見てません?」
図星だったのか、少年の体がびくりと震えた。
マドイは人差し指を眉間にあてると、一つため息を吐く。
「何を勘違いしているのか知りませんけどね。私はそのお話の皇帝ような人間ではありませんよ」
「でも、ラーニャさんの花束を捨てたり、ラーニャさんを叩いたりしようとしたじゃないですかっ。ボクちゃんと見てたんですよ!」
「それは――」
答えようとするマドイをラーニャはさえぎった。
自分が説明した方が、より説得力があると思ったからだ。
「それは違うよ。花束を捨てたのは、苦手な毛虫が付いてたからだし、オレを叩いたのは、オレがマドイに言い過ぎたからだ。オレは別に、マドイと無理矢理結婚させられるんじゃないよ」
「じゃ、じゃあ、血と子供が目当てというのは嘘なんですか?」
「当たり前だろ。単なるデマさ」
「もちろん、子供はたくさん作りますけどね」と、マドイが言ったので、ラーニャは彼の腹をどついた。
王子相手に暴力を振るう彼女を見て驚いたのか、少年は目を見張る。
マドイは腹を抱え、咳き込みながら彼に言った。
「これで分かったでしょう? ラーニャと私は両性の合意の上で結婚するんです。無理矢理も何もありません。それにそもそも、ソレは私の本です」
「えっ。でもこれは、ラーニャさんがボクに……」
マドイの凍て付くような視線が、ラーニャに向けられた。
ラーニャはこちらに向かって雲行きが怪しくなっていることにやっと気が付く。
「……ラーニャ。これは一体どういうことですか? 私は彼にあの本を貸した覚えはないのですが」
「えっ、あの、それは」
「もしかして、読むのが嫌で勝手にまた貸ししたんですか? 私のお気に入りを!」
マドイは叫ぶと、ラーニャの両耳を両手で引っ張った。
耳と尻尾は、マオ族の弱点である。
大きな猫耳を垂直に引っ張り上げられ、ラーニャは思わず悲鳴を上げた。
「イタイイタイ! だってお前が無理矢理押し付けてくるのが悪いんだろー!」
「だからって、勝手に貸すことはないでしょう!」
「ゴメンて。オレが悪かったって!」
「気持ちがこもっていません! それに貴方が本を貸したせいで、少年が勘違いしたんですよ。彼にも謝りなさい!!」
良く分からないが、少年が二人の仲を引き裂こうとした理由は、そもそもラーニャ自身にあるらしい。
やっと掴んでいた耳を離されたラーニャは、頭頂部を抑えながら少年に頭を下げた。
「何というかその……。勘違いさせてゴメンな」
「……いえ、その」
「オレのこと、心配してくれたんだろ? ありがとう。でも全然心配いらないから」
ラーニャが笑ってマドイの手を握ってみせると、少年の顔がなぜか暗くなる。
彼は迷惑をかけたことをひたすら謝りながら、再び窓から帰っていった。
帰るときの少年の丸まった背中は、何故かラーニャに強く罪悪感を思い起こさせた。
彼に、何かとんでもなく酷いことをしてしまったのかもしれない。
そんな気がしてならなかった。
「何かオレ、悪いことしたかなぁ……」
「勝手に人の物を貸したりするからですよ。この埋め合わせ、どうしてくれましょうか」
「げげっ。まだ怒ってたの?」
「当たり前です。――とりあえず詩集十冊読破で、許してあげましょう」
マドイは「これも教養を高める一環です」と笑っていたが、ラーニャにとってはとんでもない無茶難題だった。
小説はまだ物語があるからいいが、詩集は何のことだか分からない文章が羅列しているだけの代物である。
それだったら、まだ「籠の中のナイチンゲール」を読み切る方がマシだった。
「ヤダ! 絶対ヤダ! もう一度『籠の中のチンナイゲール』読むから、許してくれ!」
「『ナイチンゲール』です! このお馬鹿。そんなこと言うと、大事な毛虫に殺虫剤ぶっ掛けますよ」
マドイの台詞に、ラーニャはふと冷静になって、目をぱちくりさせた。
たしか、毛虫は昨日の間に駆除されたのではなかったのか。
「……ケムタロウは、昨日殺されたんじゃなかったの?」
ラーニャが聞くと、マドイはビックリした顔をして、それからしまったという表情に変わった。
「あれ? 言ってませんでしたっけ? 貴女があんまり嫌がるものだから、殺すのはやめて、森に逃がすことにしたんですよ」
「……それ本当? 嘘じゃない?」
潤んだ目でラーニャが尋ねると、マドイは首を縦に振った。
マドイはあんなに嫌っていた毛虫を、ラーニャのために手間隙かけて、森に逃がしてくれたらしい。
本は無理矢理押し付けるし、毛虫は殺すしで急落していたマドイの株が、ラーニャの中で一気に急騰した。
ラーニャはたまらなくなって、マドイに飛びつく。
「マドイありがとう! 大好き!!」
「全く、現金な人ですねぇ」
「オレ、お前と結婚して良かった」
「まだしてないでしょう。……そんなに言うなら、今日は泊まっていったらどうです?」
「それはダメだな」
全く、調子に乗るとすぐこれである。
ラーニャにぴしゃりとはねつけられたマドイは、その後しばらく、がっくりと落ち込んでいた。
*
台車を一人で転がしながら町中を走るネックを見て、道行く人々は皆振り返った。
それもそのはず、ネックの顔は、今涙と鼻水でビシャビシャだったからだ。
しかし人々の噂する声も、今のネックの耳には届かない。
彼の耳の中では、最後に聞いたラーニャの台詞が延々と繰り返されていた。
最後にマドイ殿下の手を握ったラーニャの笑い顔は、幸せで満ち満ちていた。
それが嘘偽りでなく、本心から出た笑顔だと、とりわけ人心に敏いわけではないネックに悟らせるくらいにだ。
母から聞いたラーニャとマドイ殿下にまつわる噂は、全て嘘だったのだろう。
彼女は「血が目当て」でも、「子供目当て」でもなく、ただ望み望まれて、マドイ殿下と結婚するのだ。
殿下は彼女の子供を欲しがっていたから、その辺りの話が捻じ曲げられて、酷く歪んだ噂となって王都に流れ出てのかもしれない。
噂と違って、ラーニャは幸せに暮らしていたのに、何故かネックの涙は止まらなかった。
なら、彼女が不幸だったら良かったのかと、自分で自分を叱責する。
これで良かったんだと、何度も呟いたが、家に着くまでにネックは泣き止むことができなかった。
台車を押しながら家の倉庫を開けると、待っていたのだろう父が、文句を言おうと口を開いた。
だがネックの顔を見るなり、口を開けたままの状態で固まる。
やがて父は何かを悟ったのか、遅かったことを責めるでもなく、家の中へとネックを促した。
家に入ると、母親と姉がネックの酷い顔をからかおうとしたが、それを父は怖い顔で制する。
「よせ、お前ら。ネックを笑うんじゃない」
いつになく真剣な剣幕の父親に、女二人は押し黙る。
妙に静かなまま食事が始まると、父はおもむろにネックに酒を勧めた。
「まぁ飲め。お前もたまには、こんな時もあるだろ」
「親父、オレ……」
「何があったかなんて、親父様にはお見通しよ。だからお前は黙って飲みゃあいいんだ」
父の男らしい優しさに、ネックは嗚咽を漏らしながら酒を飲んだ。
いつか親父みたいな、立派な植木職人に、そして立派な父親になろうと、ネックは堅く決意する。
きっと次に王宮へ行くときには、今日の心の傷も癒えているに違いない。
もしまた彼女に会ったら、そのときはもう一度謝って、ちゃんと挨拶を返そう。
そしてあのマドイ殿下が唸るくらいの腕になるように、毎日マジメに修行しよう――。
その夜、ネックは次に王宮に行くときまでの目標をたくさん決めた。
だが、「取りこぼして毛虫が大発生したから、駆除を手伝ってくれ」と、マドイ殿下から要請が来たのは、それから僅か二週間後のことであった。




