【番外編】ラーニャの未来・故郷の未来(後編)
ちょうど約束どおりの時間に、マドイはラーニャの実家を訪ねてきた。
ラーニャは家の戸を開けて、彼に中へ入るよう促す。
マドイは付き従おうとする従者を目で制すると、一人で家の扉をくぐった。
その顔は若干緊張しているようにも見えなくない。
一方ラーニャの家族たちは、マドイの姿を見て絶句していた。
彼らは、王都から遥か遠くに住んでいるため、この国の王族たちの顔を知らない。
ただ彼の姿を見て純粋に驚いているのだった。
訪ねて来たマドイは、レースだらけの白いシャツに、紫の刺繍を多用した黒の上着を着ていた。
貴族の正装としては極めて常識的な格好ではあったが、平民目線で見れば、暑そうな上に眩しいほど派手である。
そして腰まで伸ばした真っ直ぐな銀髪に、女性顔負けの妖しげな美貌。
そんな彼の姿を見て、母親たちが言葉を失うのも無理はなかった。
ラーニャは静まり返った空気の中で「この人が、オレが結婚しようとしてるヒト」と、言った。
ラニーニャが我に返ったように答える。
「そ、そうなの。思っていたのと随分違って、驚いちゃったわ」
ラニーニャは見てとれるほど動揺していた。
知識はなくとも、雰囲気でマドイが只者ではないと分かるのだろう。
彼女は冷や汗をかきながら、取り繕うように続ける。
「ねぇ、ラーニャもしかしてこの方――。ひょっとして貴族のご出身とか……?」
ラーニャとマドイは顔を見合わせた。
マドイの紫の目は、「本当のことを言ってもいいか」と聞いている。
ラーニャが頷くと、マドイは胸に片手を当て、恭しく頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません、ラーニャのお母様。私はこの国の第二王子、マドイ・ロキシエルと申します」
ポカンと、ラニーニャとニーニャが揃って口を開けた。
だがマドイはかまわず続ける。
「今日はラーニャとの結婚を認めていただきたく、ここへ参りました。ラーニャのお母様、どうかラーニャを、この私にいただけないでしょうか」
顔を上げたマドイに穴が開くほど見つめられ、ラニーニャは目をぐるぐるさせていた。
今彼女の中では、一体どんな思いが渦巻いているのだろう。
がくがくと全身を震わせながら、ラニーニャはラーニャに聞く。
「ラーニャ、このお方は本当に――?」
「本物のマドイ・ロキシエルだよ。ほら、マドイ。アレ見せてみろ」
ラーニャに促されて、マドイは懐から懐中時計を取り出した。
純金でできた外蓋には、しっかりと王家の紋章が掘り込まれている。
紋章を見た途端、顔色が真っ青になったかと思うと、ラニーニャは即座に地面の上に這いつくばった。
ニーニャも母親にならい、慌てて地面に額をつける。
「知らなかったとはいえ、数々のご無礼をお許しください!!」
彼女の声は痙攣を起こしていた。
「そんな。頭を上げてください。私はお願いに参ったのですから」
「申し訳ありません。申し訳ありません」
ラニーニャはマドイが何か声をかけても、必死で謝るばかりであった。
いきなり王子様が自宅を訪れ、なおかつ自分の娘を嫁に欲しいと言ってきたのだから、パニックを起こすのも無理はない。
だがこれでは一向に話が進まなかった。
ラーニャとマドイが困り果てて顔を見合わせていると、何者かがマドイの背中を突っついた。
振り返れば、弟のラーマが目を輝かせながら立っている。
「おみやげ、持ってる?」
ラーマの一言にラニーニャは悲鳴を上げたが、マドイは笑顔で彼の問いに応じた。
「ええ。持ってますよ。今持ってこさせます」
マドイの合図で、召使が土産と言うには立派過ぎる箱を持ってきた。
並べられた箱を見て、マドイはにこやかに言う。
「これはほんのお近付きのしるしです。よろしければもらって下さい」
目の前に置かれた箱に、ラニーニャとニーニャは戸惑っていたが、ラーマは躊躇せず包み紙を毟り取っていた。
ラーマの箱からは、馬の模型が現れる。
子供用ではあるものの、そこかしこに細工が施された、貴族の子弟が遊ぶような模型だった。
「スッゲー! ありがとう魔女さん!」
眩しい笑顔で叫ぶラーマ。
どうやら彼は、マドイのことを魔女だと勘違いしているらしい。
たしかに今日のマドイは黒い格好をしているし、顔も女性に見えないことはないのだが。
「あのなー、ラーマ。コイツは魔女じゃねーよ」
「えー? ちがうのー?」
「ちげーよ。コイツは悪の魔法使い『ヒステリー・ムラサキ』だよ」
発言と同時にラーニャは自分で爆笑したが、ラニーニャは「なんて失礼なことを!!」と怒鳴った。
顔を真っ赤にするラニーニャを、マドイは慌ててなだめる。
「そんなに怒らないで下さい。いつものことですから」
「いつもってことは、あの子は――!」
「それより、先程のお話、考えていただけたでしょうか」
ラニーニャは自分の娘をくれと言われていることを、今思い出したようだった。
おぼつかない口調で、コクコクと首を縦に振る。
「上げます。差し上げます。いくらでも差し上げます!」
(いくらでもって、オレは一人だけなんだけど)
ラニーニャの色よい返事を聞き、マドイはその整いきった顔に凄絶な笑みを浮かべた。
その様子を見て、なおさら母親と妹が引く。
予定ではもう少し雑談をしてから、ラーニャとマドイは引き上げるつもりであったが、これ以上長居しては、二人の身が持たない。
なのでラーニャはマドイに先に帰ってもらい、自身はまだ家に残って憔悴した母と妹のフォローをすることにした。
二人はマドイが帰ってもまだ、呆然と虚空を見つめている。
ポツリとニーニャが呟いた。
「おねぇの結婚相手って、マドイ殿下だったんだね」
「うん。まぁ、そんなとこになるな」
それきり、会話が途切れた。
何か話題を振りたいが、下手に話をすると、またパニックが起こりそうで怖い。
ラーニャが言葉を出そうとしては飲み込むのを何度か繰り返すうちに、ラニーニャが言った。
「アンタ、本気でマドイ殿下のお傍に上がるつもりなの?」
もちろんだ、とラーニャは頷く。
するといきなりラニーニャは目を見開き、物凄い剣幕で叫んだ。
「アンタなんかが、殿下のお傍に行っても、上手くいくはずないでしょ!!」
突然の豹変振りに、ラーニャは軽く仰け反る。
「な、何言うんだよ。かーちゃん」
「アンタみたいな可愛くもない女が、王宮へ行っても幸せになれるわけない! 現実を見なさい!」
「か、かーちゃん?」
「アタシはアンタを、そんな身の程知らずに育てた覚えはないわよ!?」
あまりのラニーニャの形相に、とうとうラーマが泣き出した。
泣きじゃくる弟を庇いながら、ラーニャは切れた母親に反論する。
「どうしてそんなことが言えるんだよ。王都でのオレを見たこともないくせに」
「見なくても分かるわよ。いい? アンタはね、何の取り柄もない平凡な女なの。何の間違いで殿下に見初められたかは知らないけど、バカな夢を見るのもいい加減にしなさい」
「確かに、オレは平凡な女だけど――」
「やっぱり、魔導庁で働いたのが間違いだったのよ。そんな所にいるから、勘違いしちゃうんだわ」
ラニーニャは娘に反論の隙を与えない程まくしたてると、彼女の肩を両手で掴んだ。
「ラーニャ、殿下の求婚は断って、仕事も辞めて村に帰ってきなさい。この村で結婚して子供を産むのが、アンタに一番釣り合った幸せなのよ」
ラニーニャは今まで見たことがない程、怖い顔をしていた。
娘が王族に嫁ぐのを不安に思う気持ちは、確かに分かる。
しかし有無を言わさず「幸せになれるわけがない」と決め付け、「バカな夢を見るな」と怒鳴るのは、理解しがたかった。
その上求婚を断り、仕事も辞めろと迫るとは――ラーニャの中で、言い知れぬ怒りが涌きあがる。
ラーニャは自分の肩を掴んだ手を引き剥がすと、低くうなり声をあげた。
「――こんな。こんな未来のない村に帰って、幸せになんかなれるかよ」
ただならぬラーニャの気迫に、はっとラニーニャが後ずさった。
「意地の悪い身内共で固まって調子のってる、腐った村に帰って、一体ドコが幸せになれるんだよ?」
「く、腐った村って……」
「かーちゃんだって分かってるんだろ? この村はどうしようもないって」
怯えの色を見せる母親を一睨みすると、ラーニャは玄関の扉を開け放った。
「悪いけど、オレはなんと言われてもマドイと結婚する。結婚を認めたくないなら、マドイに直接言ってくれ。結婚式は出なくてもいい。――オレは、幸せになるからな」
大きな音を立てて扉を閉めると、ラーニャは振り返りもせず家から出て行った。
驚かれても、少しくらいは祝福してもらえると思っていた。
なのにあんなことを言われるなんて、少々現実を甘く見ていたらしい。
「……ちくしょう」
炎天下の中、ラーニャは汗と涙を拭いながら、マドイのいる宿屋へと歩いた。
*
「ええ!? 婚約披露パーティー?」
「夕方村長の家で、村人全員を呼んで婚約披露パーティーをする」――宿屋に着くなりマドイからそれを聞かされ、ラーニャは叫んだ。
ラニーニャに暴言を吐かれ、落ち込んだ気分も、おかげで雲の彼方である。
「一体何でそんなことするんだよ? つーかいつ決めたんだよ」
「何でって、ラーニャと私の婚約を見せつけるために決まっているでしょう。あなたに言ってなかっただけで、ずーっと前からやろうと思ってました」
ラーニャが花嫁修業を始めた頃から、マドイは計画を温めていたらしく、必要な物も全部持ってきているとのことだった。
昼間村長の家に行ったのは、そのパーティーとやらの打ち合わせのためにだったらしい。
どうして、婚約を見せびらかすという悪趣味な真似をしたがるのか。
ラーニャは甚だ疑問だったが、顔をしかめている間にも、マドイはパーティー用の衣装を準備し始めていた。
「おいやめろ。オレは絶対嫌だからな」
「そんなこと言われても。もう会場も料理も準備してしまいましたし。食事を全部ゴミに変えても良いと言うなら、話は別ですが」
長い間貧乏暮らしをしてきたラーニャにとって、食べ物を無駄にするのは絶対にありえないことであった。
たとえ断れなくするための方便だとしても、食べ物を引き合いに出されては、素直に言う事を聞くほか無い。
しぶしぶながらラーニャが頷くと、マドイは満面の笑みを浮かべて、ドレスを取り出して見せた。
用意されたドレスは、胸元が大きく開いた華美すぎるものだったが、ラニーニャのことで気力をそがれていたラーニャは、抵抗することなくそのドレスに着替える。
化粧をし、髪を結わえ、アクセサリーと靴を選び、そうこうするうちに、すぐにパーティーの時間はやってきた。
馬車に乗って村長の家まで行くと、二人は丁重に会場へと通される。
宴の舞台になる広間は、村人全員が充分入るほどの広さがあった。
タマタビ村の村長宅は、一体どうやって金を用意したのか、無駄に豪勢で広いのである。
会場には既に村人たちが集まり、中には母も妹もいた。
マドイが自分たちが結婚する旨を簡潔に述べると、おそらく村始まって以来の盛大な宴が始まる。
しかし趣向を凝らした食事も、銘酒も用意されているにもかかわらず、パーティーは水を打ったように静まり返っていた。
皆じっとりとした目でラーニャを見ながら、黙ってひたすら料理を口に運んでいる。
こんな重苦しい空気の中では、ラーニャも黙りこくるほかなかったが、マドイはなぜかニンマリと笑っていた。
どう贔屓目に見ても、祝われていないのは明らかなのに、何がそんなに嬉しいのか、意味が分からない。
宴はほぼ一度も会話が交わされないまま進み、一時間ほどしたところで、マドイが不意に席から立ち上がった。
「すみません。ちょっと席を外します」
多分トイレか何かだろう。
ラーニャはそう思って彼を見送ったが、すぐにこの気まずい空気の中、一人で取り残されたことに気付いた。
見れば、村人たちがこちらを穴が開くほど睨んでいる。
そのうち、夫である村長の息子と座っていたナータが、立ち上がって叫んだ。
「どうして、アンタがマドイ殿下に見初められるのよ!!」
凄まじい形相でラーニャを睨め付ける彼女の顔は、熟れた果実のように真っ赤だった。
ナータの迫力にラーニャは少したじろいだが、すぐに気を取り直して反論する。
「そんなこと言ったって、ただ縁があったとしか言えねーよ」
「縁!? どうしてラーニャなんかに殿下との縁があって、アタシにはないのよ!!」
ナータは悔しいのか、真っ赤なままブルブル震えていた。
しかしいくら悔しがられようと、縁がなかったものはなかったのである。
仕方ないじゃないかとラーニャが呆れていると、無視されたと思ったのだろう、ナータは甲高い声を上げて、足を踏み鳴らした。
「おかしい! アンタみたいな行き遅れブスが、王子様に見初められるなんて絶対おかしい」
「……あのなー」
「断ってよ!! 断って村に帰って来なさいよぉ!!」
ナータの言い分は、当たり前だがムチャクチャであった。
その場で足踏みしながらキーキー喚く彼女の醜態に、さすがのラーニャも言葉が出ない。
「ちょっと! さっきから無視しやがって!! お高くとまってんじゃないわよ!!」
「……」
「断れって言ってんでしょうが! 断らなかったら、アンタの家族を、村にいられなくしてやるんだからね!!」
ナータは、「家族を村にいられなくしてやる」という脅しが、この場合ラーニャに通用するとでも思ったのだろうか。
脅しにならないことなど、少し考えれば分かるはずなのだが、村長の後取り息子と結婚し、すっかり『女王様』になったナータには、最低限の思考力も残っていないのかもしれなかった。
「いい? 村に帰って来なかったら、アンタの弟を学校に通えなくしてやる。日用品も売ってもらえないようにしてやる。アンタの母親と妹は、村人全員から無視されるようになるんだから!」
「……ひょっとしてそれは、新しく来たお嫁さんたちにしたことと同じなのか?」
思いも寄らぬラーニャの切り返しに、ナータがひるんだ。
「……やっぱりか。どうも具体的過ぎると思ったんだよな」
「そ、それがどうしたって言うのよ」
慌てるナータを無視して、ラーニャは広間に集まった村人たちを眺めた。
そしてため息を吐く。
いるのは中高年とばかりで、若者はナータの取り巻きしかいなかったからだ。
後は小さな子供が少しばかり。
行動力のある若い大人は、ナータの取り巻き以外全員村から出て行ってしまったのだろう。
「お前、気に入らないやつ全員いびり出して――これからどうするつもりだよ」
村の大部分を占める中高年はこれから老人になり、労働力にはならなくなる。
たとえナータの取り巻きが、一人五人以上子供を産んでも、失われた労働力を補うに至らないことは明白だった。
他に産業がなく、農業で生計を立てているタマタビ村にとって、労働力の不足は致命的である。
「このままじゃ、村は潰れてなくなるぞ」
真剣な警告のつもりだったが、ナータは馬鹿にしたように笑い声を上げた。
「アンタバカじゃないの? 村が潰れるはずないでしょ?」
「だって若い奴の数が……」
「そのうち子供が生まれるから、増えるに決まってんじゃん。そんなことも分かんないなんて、オワッテルね~」
ナータに釣られて、今まで黙っていた村人たちも笑い出した。
笑う彼らは、危機的な状況に見えないフリをしているのか、それとも本当に見えないのか。
やがてこちらに罵詈雑言を浴びせかけ始めた彼らを見て、ラーニャは悟った。
村人たちは、本当に分かっていないのだと。
このままでは、この村は長く続かない。
いくら腐った村人達だらけだとはいえ、父との思い出が詰まった村である。
ラーニャは幾度も村人たちに村の危機を訴えたが、それは結局伝わらなかった。
絶望感に打ちひしがれる彼女に、相変わらず酒に寄った伯父が絡む。
「さっきっから、不吉なことばっか言いやがって。王族に気にいられた位でチョーシ乗ってんじゃねーぞ!!」
「だけど伯父さん」
「テメェみたいなブスは、そのうち飽きられて捨てられるんだよ。ボロ雑巾みたいにな」
「マドイはそんなこと……」
「お前みたいな生意気な女は、本妻にイビリ殺されちまえ!!」
罵倒が決まったと、伯父は赤黒い顔で耳障りな笑い声を上げた。
だがラーニャは彼の言葉に首をかしげる。
(コイツ今、本妻って言わなかったか?)
なぜそんな単語が出るに至ったのだろう。
疑問に思うラーニャをよそに、伯父はまだ一人で喋っている。
「本妻のイビリってのは、そりゃあヒドイんだろ? 食べ物にゴミを混ぜられたり、ドレスをメチャクチャにされたりしてな」
「伯父さん、本妻のイビリって……」
「ヒドイときゃ、子供殺されたりしてよ。いやー大変だな。王族の愛人ってやつは」
――王族の愛人。
その言葉を聞いて、ラーニャはようやく分かった。
伯父は、ラーニャがマドイと正式に結婚するのではなく、愛人になると思いこんでいるのだ。
普通に考えたら、平民のラーニャが王族に嫁げるはずがないからだろう。
ひょっとしたら、村人全員が伯父と同じ誤解をしているのかもしれない。
誤解を解こうとラーニャは叫ぼうとするが、その前に母のラニーニャが割って入る。
「ラーニャ。おじさんの言うとおりよ」
「かーちゃん?」
「アンタみたいな平凡な子は、王宮で愛人なんてやっていけないわ。いじめられて、村に帰ってくるのがオチよ」
ラニーニャも、やはりラーニャがマドイの愛人になるのだと思い込んでいるらしい。
「かーちゃん、オレ愛人になんかならないって」
「じゃあ何になるって言うの?」
説明しようとした矢先に、背後から聞きなれた声がした。
「あら皆さん、私がいない間に随分と盛り上がっているようですね」
振り返れば、部屋の入り口にマドイが立っていた。
罵声などで騒がしかった広間が、ピタリと静かになる。
マドイは室内の様子を一瞥すると、王族らしい威厳に満ちた様子で、ラーニャの隣まで進み出た。
そしておもむろに彼女の肩を抱いて言う。
「皆さん、何を誤解しているのか知りませんが、私はラーニャを愛人にするつもりはございません」
静かだった広間が、少しざわついた。
「ロキシエル王室は、ラーニャ・ベルガを正式に私の妻として、王室の一員として向かえるつもりです」
どよめきが広間を支配した。
マドイの宣言を聞いた村人は、ある者は手で口を覆い、ある者は顔を真っ青にしている。
だが当のマドイは顔色一つ変えないまま、凛とした面持ちで言葉を続けた。
「――ですから、これからラーニャを罵ろうとする者は、王室を罵るのだと思いなさい。ラーニャを馬鹿にする者は、王室を馬鹿にするのだと思いなさい。そしてもし、ラーニャに害をなそうとする者は――」
マドイは懐からいきなり鞭を取り出すと、思い切り床を打ち据えてみせた。
乾いた音が、静まり返った広間に鳴り響く。
「このマドイ・ロキシエルが全力で叩き潰します。それでも良ければかかってきなさい」
マドイはぞっとするほど妖艶な笑みを、村人に向かって浮かべてみせる。
笑みを向けられた村人たちは、一斉に顔色をなくし、やがて誰からか床にひれ伏し始めた。
広間にいる全員にひれ伏され、マドイは満足げに何度も頷く。
「では、これで宴はお開きにしましょう。余った料理は、自由に持ち帰りなさい」
一連の出来事に唖然としていたラーニャは、マドイに腕を引っ張られ、広間から連れ出された。
だが廊下に出たところで、誰かに呼び止められる。
見ればラニーニャが、暗い廊下にポツンと一人で立っていた。
「遠い所へ行っちゃうのね……」
彼女の呟きは、ひどく寂しく聞こえた。
ラニーニャは一言だけ言った後、すぐに元の広間へと消える。
(……かーちゃん)
彼女の言葉は、寝床に入る頃になっても、ラーニャの耳から離れなかった。
親戚たちの色に染まり、前回村に帰った時から、こちらに辛く当たってきたラニーニャ。
今日も「お前なんか幸せになれない」「村に帰ってこい」と散々罵られた。
正直顔も見たくない程の怒りが芽生えていたが、先程の母親のしんみりした姿を見て、ラーニャはふと冷静になる。
前回の帰省や手紙はともかく、今日彼女がラーニャを罵ったのは、彼女なりに娘の幸せを考えた故ではないだろうか。
ラニーニャは改めて言われるまで、ラーニャがマドイの愛人になると思っていた。
彼女はマドイの傍に上がったら、ラーニャが本妻にいじめられると思い、娘の結婚を反対したのかもしれない。
もしそうなら、このまま故郷を去るのはあんまりにも後味が悪かった。
ラーニャは明日、マドイの仕事の都合上、朝早くに村を立つ。
次に帰ってこられるのは、いつになるか分からなかった。
だが、ラニーニャと関係を修復する時間は、もうほとんど残されていない。
ラーニャはしばらく考え込んだ後、寝床から起き上がり、自分の荷物から便箋を取り出した。
そしてカバンを机代わりに、母に対する思いをしたためる。
「――できた」
にやりと笑うと、便箋を封筒にしまって脇に抱える。
部屋の窓をこっそり開け、辺りを見渡すと、ラーニャは警備の隙を突いて、寝巻きのまま宿屋から抜け出した。
行き先は、もちろん自分の家である。
死んだように静かな村を走りぬけ、ラーニャは実家まで急いだ。
ラーニャの足は速い。
すぐに家の門まで辿り着く。
実家にはまだほのかに明りが灯っていたが、声一つかけないまま、ラーニャは封筒を扉の隙間に差し込んだ。
「これでよしっと」
伝えたいことはあるものの、直接母に言う気にはなれなかった。
しばらく愛すべき我が家を眺めた後、ラーニャは名残惜しい気持ちを抱えながら踵を返す。
だが完全に立ち去る前に、後ろで扉が開く音がした。
「……おねぇ」
振り返ると、ニーニャが寝巻き姿で立っている。
まさか見つかるとは思っていなかったので、ラーニャは少したじろいだ。
「お前……。まだ起きてたのかよ」
「なんか、眠れなくて」
「かーちゃんは?」
「もう寝ちゃった。ラーマも」
ホッと胸をなでおろすと、ラーニャは落ちてしまった封筒を拾い上げ、妹に手渡した。
「……コレ、明日かーちゃんに手渡してくれ」
「何?」
「お前には関係ねーよ」
それだけ言うとラーニャは手を上げて、その場を去ろうとする。
しかしニーニャは呼び止めるように言った。
「おねぇ。結婚おめでとう」
「結婚おめでとう」
それはこの村で結婚を報告してから、初めて言われた言葉だった。
胸の中に、じんわりと暖かいものが広がる。
村に来て初めて結婚を祝福され、ラーニャは泣き笑いのような表情になった。
「ありがとう、ニーニャ。お前も困ったら、いつでも王都にこいよ。世話してやるから」
熱い涙がこぼれる前に、ラーニャは妹の前を走り去った。
結婚を祝福してくれたのは、村で妹だけだったが、一人でも祝ってくれるのなら、それで充分であった。
本当は一番ラニーニャに祝って欲しかったのだが、関係が拗れきった今、それを望むほどラーニャも欲張りではない。
翌日ラーニャとマドイはラーガの墓へ挨拶に行った後、すぐに帰りの馬車へ乗り込んだ。
村人たちは萎縮した様子で、帰って行く二人を見送る。
そこには伯父やナータはもちろん、ラニーニャの姿もなかった。
ラーニャは見送りに来たニーニャとラーマに別れを告げると、御者に出発の合図を送る。
「さよなら。かーちゃん」
だが馬車が動き始めた頃、背後から女性の叫び声が聞こえた。
耳を澄ましてみれば、声はラーニャの名前を呼んでいる。
馬車の後ろに突いた窓から覗いてみると、見送りの人々にまぎれて、ラニーニャが立っているのが見えた。
「ラーニャごめんなさい! 結婚おめでとう!!」
ラニーニャは、昨日ラーニャが妹に渡した手紙を持っていた。
ラーニャは、たまらなくなって馬車から身を乗り出す。
「かーちゃん! 今まで育ててくれてありがとう。オレはどこに嫁いでも、かーちゃんの娘だから!!」
ラーニャが叫んだ台詞は、昨日書いた手紙の内容と、同じものであった。