【番外編】からっぽの皇太子妃(前編)
ラーニャが花嫁修業中のお話になります。
ラーニャがマドイの住む宮殿の一角を訪れたのは、実に三ヶ月ぶりのことであった。
いつ来ても美しく整えられている宮殿の庭には、今春の花々が溢れんばかりに咲き誇っている。
ラーニャの花嫁修業が始まったのが、今年の初め。
それから今までというもの、ラーニャはいつ終わるとも知れない修行に追われ、休む暇もなかった。
貴族の子女が生まれた時から教えられてきたことを、僅か一二年で身体に叩きこむのである。
過酷で過密な花嫁修業に、強靭な精神と体力を持つラーニャも、さすがに何度か根を上げそうになった。
しかしその辛い修行に耐え続けること三ヶ月。
ようやく様々な稽古事にも慣れ始め、ついに教師の側から休暇の許可が出ることと相成った。
マドイと仮婚約を結んでから、初めての休暇である。
行き先は初めから決まっているようなものだった。
ラーニャは侍女に見晴らしの良いテラスまで案内されると、そこでマドイが来るのを待った。
彼と会ったのは年明けが最後である。
どうせ大して変わっていないだろうが、それでも会うのが楽しみだった。
久しぶりにお目にかかる彼の顔を想像して、ラーニャはひそかににやりと笑う。
マドイはラーニャがテラスに通されてから割とすぐに、彼女の元へやってきた。
銀色の髪を春風にたなびかせる彼は、相変わらず女性と見紛うほど艶やかで美しい。
服装は気合を入れたのか、金糸や銀糸やらで刺繍した上着に、レースをふんだんに使用したシャツを組み合わせており、まるで舞踏会かと思うほど華やかだった。
マドイは三ヶ月ぶりに会いに来てくれた彼女に、紫色の瞳を向けて微笑む。
「お久しぶりです。ラーニャ。調子はどうですか」
彼の挨拶に、ラーニャはスカートの両端をつまむと恭しく頭を下げた。
「ごきげんよう殿下。私はおかげさまで至極健在にございます。殿下も相変わらずお元気そうで何より」
そう言って微笑むラーニャは、仕草も形も、まさしく名門貴族の令嬢そのものだった。
褐色の肌に合わせた橙色のドレスを纏い、胸元には宝石の付いた首飾り。
髪の短さを隠すため上に結い上げた髪には、金細工の髪飾りが揺れている。
男装時代の面影など少しも残っておらず、それは見事な変わりぶりであったが、マドイは多少引きつった表情を浮かべていた。
「まぁ、元気ならいいんですよ。元気なら」
マドイは席に着くと、改めてラーニャを見つめる。
「で、花嫁修業の方はどうなんですか? なかなか大変だと聞いておりますが」
「いいえ。少しも大変ではございませんわ」
「……そうですか」
「殿下の方こそ、お仕事大変でございましょう?」
ラーニャは彼に向かって、上目遣いをしながら小首を傾げて見せる。
マドイはなぜか居心地悪そうに肩をぶるりと振るわせた。
「ラーニャ。いい加減よしませんか? そういうの」
「そういうのって、どういうのでございますか?」
「ですから、そういうのですよ。」
「ですから、そういうのってどういうのでございますか?」
「ですから! そういうまどろっこしい言葉遣いです!」
マドイが声を荒げる様子に、ラーニャはしばらくぽかんとすると、やがて両手で顔を覆った。
「殿下ヒドイ! 私のことをまどろっこしいだなんて」
今度は、マドイがぽかんとする番だった。
まるで病気の子猫を気遣うような目で、ラーニャを見やる。
「貴女、一体どうしてしまったのですか?」
「どうしたも何も、私は殿下のために頑張って花嫁修業を……」
「それは良く知っていますが……。ひょっとして、花嫁修業が厳しすぎてノイローゼに――!?」
マドイはしばらく呆然とした後、「嗚呼」と悲痛な声を上げて、ラーニャの目の前に崩れ落ちた。
「そんな――私のせいでラーニャを病気にしてしまうなんて!」
マドイは完全に涙目になりながら、彼女の両肩にすがりついた。
目を真っ赤にした彼の様子に、ラーニャは上半身を仰け反らしてたじろぐ。
「マドイ……ちょっおまっ」
「花嫁修業がそんなに辛いものだったなんて。ラーニャ、この愚かな私を罵ってください!」
「だからちょっと……」
「そんなに修行が辛かったなら、どうして私に一言言ってくれなかったんですか!?」
(ちょっとした冗談のつもりだったのに……)
ラーニャは自分のいたずらを後悔した。
三ヶ月に会うのだから、少しマドイをびびらせてやろう――そう思って馬鹿丁寧に接してみたら、まさかこんな事態になるなんて。
マドイが泣き出すのは、時間の問題であった。
さすがにまずいと思ったラーニャは、何とかマドイをとりなそうとする。
「マ、マドイ、少し落ち着け。な?」
「ラーニャが……私のラーニャが病気に……」
「違うって。ただの冗談だって」
「そうですよね。こんな私と結婚するなんて冗談じゃないですよね……」
「だから落ち着けって! 落ち着いてオレの話を聞いてくれ!」
ラーニャの怒鳴り声によって、やっとマドイの混乱は収まったようだった。
マドイはラーニャにすがりついたまま、紫色の瞳をぱちくりさせる。
「ラーニャ……病気はもう治ったんですか?」
「だから最初から病気になんかなってねーよ。あの喋り方とかはただの演技だって」
「演技……?」
「せっ、せっかく久しぶりに会うんだから、マドイを驚かしてみようと思ってさぁ……」
ようやくマドイは全てを理解したようだった。
見開かれていた切れ長の目が、らーにゃの前でみるみるつり上がっていく。
「ラーニャ! このおバカ!!」
マドイに頭をはたかれて、ラーニャはその場にうずくまった。
見上げれば、マドイは凍てつくような冷気をほとばしらせながら仁王立ちになっている。
どうやらかなり怒り狂っているようだった。
「そ、そんなに怒んなって。」
「怒りますよ。貴女、どれだけ私が心配したとお思いなんですか?」
「だって、そんなに真に受けるとは思わなくて……」
「真に受けるに決まっているでしょう! 私は毎晩、貴女が辛い思いをしていないか、泣いてはいないか心配しているというのに――人の気も知らないで!!」
(コイツ……そんなにオレのこと――)
ラーニャは自分の愚かないたずらを悔やんだ。
マドイの心配に気付かぬばかりか、彼の心情をさらにえぐるような真似をしてしまっただなんて。
どうにもたまらなくなったラーニャは、マドイの胸元にすがりつくと「ゴメン」と叫んだ。
いきなりくっついてきたラーニャに、マドイの顔がぼっと赤面する。
「マドイゴメン! ホントにゴメン!」
「あ、べっ別に分かってくれればいいんですよ」
「でもオレ、お前の気持ちも知らないで……」
ラーニャが必死に謝っているというのに、彼はどこかあたふたとした様子だった。
何故か首をぎこちなく上下させながら、マドイは彼女の謝罪に答える。
「分かりましたから。もういいですから。もう怒っていませんから」
声が裏返っていたのが若干気にかかったが、とりあえず許してくれたので良しとしておく。
ようやく二人は落ち着きを取り戻すと、あらかじめ侍女が用意してくれていた屋外用のテーブルに着いた。
予定ではこのままテラスで昼食を取ることになっており、早速手配していた料理人がその場で肉を炙り始める。
わざわざ目の前で料理人に調理をさせるとは、王侯貴族らしい、なかなか贅沢な趣向であった。
現在公爵家に居候しているとはいえ、根が庶民のラーニャは、こういったことにいちいち驚いてしまう。
だがラーニャの驚きは、これで終わらなかった。
出来上がった料理が、ラーニャの大好きな「チキンの脚丸ごと揚げ」だったからである。
「マドイ、これ食べていいの?」
「もちろん」
公爵家ではこのような庶民丸出しの食べ物など、当然食卓に上がらない。
だからこそ余計に食べたくて仕方なかったのだが、マドイはそんなラーニャの気持ちを察してくれたのだろう。
「いっただっきまーす!」
ラーニャは彼の気遣いに感激しながら大口を開けたが、あることに気付いて、ふと勢いをなくした。
そして手元にあったナイフとフォークを手に取り、ちまちまとチキンを取り分け始める。
「齧り付かなくていいのですか?」
「だって、それじゃ下品なんだろ?」
ラーニャは一口サイズの鶏肉をちびちびつまんだが、不思議と丸齧りするより美味しくない気がした。
何より取り分けている間にチキンが冷めてしまい、せっかく目の前で調理してもらった甲斐が無い。
そんなチキンと格闘するラーニャの姿をしマドイはしばらく見守っていたが、やがて意外なことを言った。
「そんなにみみっちく食べてるなら、いっそかぶりついたらどうですか?」
ラーニャはナイフで鶏肉を切り分けながら顔を上げる。
「でも、それじゃ品がねぇじゃねぇか」
「別に、見ているのは私だけなんだからかまいませんよ。どうせいただくなら、美味しくいただく方が良いでしょう?」
確かに彼の言うことももっともである。
とはいえ大口を開けてかぶり付くのも気が引けて、ラーニャは遠慮がちにチキンを口に頬張った。
だが咀嚼しながらちらりと向かいに座るマドイを伺うと、彼はまだ不満そうな顔をしている。
何がそんなに不満なんだとラーニャは尋ねようとしたが、それより先にマドイが口を開いた。
「――ねぇ、ラーニャ」
マドイは何故か真剣な表情になると、こちらに向けて身を乗り出してきた。
「私の前では、いつもどおりのラーニャでかまわないんですよ?」
「別にオレはいつもどおりだけど?」
彼の発言の真意を計りかね、ラーニャは首をかしげる。
「一体どこが、いつもと違うって言うんだよ?」
「だっていつもは、遠慮なんかしないで肉にかぶりつくじゃありませんか」
「それは、オレが礼儀作法とか知らなかったから……。今じゃとても、あんなみっともない真似できねーよ」
ラーニャの答えを聞くと、意外なことに、マドイは切なそうに目を伏せた。
「私はそんな『みっともない真似』をするラーニャも含めて、好きになったんですけどね」
「え……?」
「これだけは誤解しないでいて欲しいのですが、私は別に、ラーニャに変わって欲しくて花嫁修業をさせているわけではないんですよ」
マドイはますます悲しそうな顔つきになり始めていた。
ラーニャは何とかしたいと思ったが、その何とかする方法が分からず、ただ様子を伺うことしかできない。
「私がラーニャに修行させるのは、貴女が王族に嫁ぐ以上、どうしても礼儀作法を知ってもらう必要があるからです。王族は他の貴族の手本になったり、他国の王侯貴族と接したりしますからね。でも、これは飽くまでも相手と接するための手段。私はラーニャに、今までの自分のあり方や、立ち居振る舞いを恥じてもらいたいのではないんです」
「……」
「だからこれからも私やミカエルの前では、好きなように振舞って欲しい。散々きつい目に遭わせておきながら、何を虫のいい話と思うかもしれませんが、これが私の正直な気持ちです。考えてもみてください。私は今まで散々貴女の粗暴で滅茶苦茶な行いを見てきたんですよ。今更遠慮して何になると言うんですか?」
最後こそ茶化していたが、マドイは切に自分の思いをラーニャに訴えかけていた。
彼はそのままのラーニャの姿が、過酷な修行によって失われてしまうことを、何よりも恐れて入るのだろう。
ラーニャは二三度大きく瞬きした後、「分かったよ」と言ってにかっと笑った。
「お前の言いたいことは充分伝わった。じゃあオレは、チキンバリバリ食っていいんだな」
「ええ、どうぞどうぞ。実は多めに用意しすぎてしまったので」
「おし来た。やっぱ豪快に食べないと美味しくねーんだよな」
それからラーニャはチキンを遠慮なく貪り食い、マドイとの会話も盛り上がった。
おなかがいっぱいになった後は、食後のティータイムである。
銘柄はよく分からないが、ラーニャが薫り高い紅茶を味わっていると、宮殿の方からマドイの部下が小走りでやってきた。
なにやら急ぎの用らしい。
マドイは切羽詰った部下に耳打ちされ、しぶしぶながらも立ち上がった。
「すみません、ラーニャ。急用が入りました。すぐに戻ってきますから」
「お前も大変だなぁ。せいぜい頑張れよ」
馬鹿にしているようにもとれる応援を送り、ラーニャはマドイを見送った。
残念で無いと言えば嘘になるが、すぐに戻ってくるはずなので、それまでは庭園の景色と紅茶を楽しむことにする。
花壇に花弁の多い派手なバラばかり植えられているのは、マドイの趣味のせいだろうか。
どちらを向いてもバラばかりだが、庭師の腕のせいか、けばけばしい印象は受けない。
ラーニャは遠くの方に珍しい紫のバラが咲いているのを見つけ、そちらに向かって目を凝らす。
すると紫のバラの向こうの方から、侍女を数名従えた貴婦人が、こちらにやってくるのが見えた。
ここはマドイの住む宮にある彼専用の庭園で、入ることのできる人間は限られている。
ラーニャはすぐにその貴婦人が、皇太子オールの妻であるセリーヌ・ロキシエルであると気付いた。
白いレースの付いた水色のドレスに身を包んだ彼女は、ロキシエル三大美女の一人と謳われるだけあって、遠目から見ても凛とした美しさがある。
急いで椅子から立ち上がり、ラーニャは彼女に向かって挨拶した。
だがセリーヌは挨拶が気に入らなかったのか、ラーニャに向かって氷のような一瞥を向ける。
「貴女が噂のラーニャ・ベルガ?」
「……ハイ」
「さすが南の奥の方から来た出稼ぎ娘ですわね。着飾っても田舎の匂いがぷんぷんするわ」
セリーヌの物言いを聞いて、彼女の侍女たちがくすくすと笑い声を立てた。
ラーニャとセリーヌは初対面のはずなのに、いきなりこの言い草は何なのだろうか。
よほど言い返そうかと思ったが、ラーニャは何とかやり過ごす。
「たしかに私は田舎臭いかもしれませんが、未だ花嫁修行中の身なので……」
「フン、修行中ねぇ。そもそも花嫁修業しなければならない人間が王宮にいるなんて、何と身の程知らずなのかしら」
「……それは」
「それに貴女、先程鶏料理を大口開けてがっついていたじゃないの。なんて下品で野蛮な女なのでしょう」
(テメェ! 何だとこの野郎!)
危うく喉まで罵声が出かかったが、ラーニャは寸でのところでこらえた。
もしラーニャが今までと同じく、単なる出稼ぎ娘なのだったら、迷うことなくキレていただろう。
しかし今ラーニャは仮とはいえ、マドイの婚約者という立場である。
マドイのことを考えると、皇太子妃であるセリーヌに迂闊に手出しするわけにはいかなかった。
(なんなんだよコイツ。いきなりオレに突っかかってきやがって)
言いたいことを言って満足したのだろう。
セリーヌは来た時と同じく、侍女たちを引き連れて、ラーニャのもとから去っていった。
だがいつものように言い返せなかったラーニャの中には、言い知れぬ怒りが残る。
再び席に着いたラーニャが激しく貧乏ゆすりをしていると、やっと戻ってきたマドイがギャッと叫んで仰け反った。
「ラ、ラーニャ。どうしたんです、その顔は?」
「なんだよ。そんなにオレの顔が田舎臭いってか?」
「何言ってるんですか。もしかして、席を外したこと怒ってます?」
「ちげーよ。実はさっき――」
ラーニャはたった今起こった出来事を説明しようとしたが、とっさの判断で思いとどまった。
もしラーニャがセリーヌに嫌がらせをされたことを話せば、きっとマドイは心配するだろう。
怒りで我を忘れたりはしないだろうが、兄である皇太子オールに直接抗議しに行く可能性は充分ある。
そんなことになったら、せっかく築き始めていた兄弟の絆にまたヒビが入ってしまうかもしれない。
そのような事態を絶対避けたかったラーニャは、慌てて笑顔を取り繕った。
そしてセリーヌの事を告げ口する変わりに、彼女についてマドイに尋ねる。
「そういえばさ、皇太子妃セリーヌ様って、どんな人?」
「一体なんですか急に。それに彼女の来歴や人柄についてははとっくに教えられているでしょう?」
「そ、それはそうなんだけどよ」
マドイが言うとおり、ラーニャは嫁入り修行の一環として、ロキシエルの貴族について教え込まれていた。
細かいことについてはまだまだだが、王家連なる面々については、当然最初に知識を植えつけられている。
その教えられた知識によると、皇太子妃セリーヌは、余り高く無い身分の家に生まれながら、有り余る教養や気品ある物腰、そして並外れた美貌が目に留まり、見事皇太子妃の座を射止めたとのことだった。
性格は奥ゆかしく、最近では慈善事業に力を入れているという――今日目にするまでは、ラーニャも彼女が、王家の女性にふさわしい人間なのだと思っていたのだが。
「別にいいじゃねーか。生のセリーヌ様を知ってる人間として教えてくれよ」
「とは言っても、あなたが教えられた通りだと思いますよ。高い教養、溢れる気品。控えめな性格、凛とした美貌。おまけに庶民を顧みる事を忘れない――まさに理想の貴婦人の姿を具現化したようなお方ですね」
「そうなのか……」
「趣味は生け花で、ほとんど一流の腕前だそうですよ。そのほかにも楽器演奏や詩など、貴族の女性のたしなみは大抵こなせるようです」
(オレが会った時は、偶然スゲェ機嫌が悪かったのかな?)
マドイの口から聞かされたセリーヌの余りの完璧超人ぶりに、ラーニャはそう思わざるを得なかった。
いくら貴族の息女として幼少から様々な稽古を受けているとはいっても、彼女は間違いなく才気に満ち溢れた女性である。
そんなセリーヌがまさか初対面のラーニャに罵詈雑言を投げかけてくるなんて、何かの間違いとしか思えなかった。
ラーニャは今日あった出来事を、誰にも言わず、胸に秘めておくことにした。
その方がラーニャにもマドイにも、そしてセリーヌにも、一番いいと考えたからである。
だが次の休日、再びラーニャが王宮を訪れると、またセリーヌがこちらに突っかかってきた。
なんと彼女は、マドイの宮に行こうとするラーニャを、わざわざ廊下で待ち伏せていたのである。
女性の割りに背の高い彼女は、ラーニャの前に立ちふさがると、馬鹿にしたような口調で言った。
「あら野良猫さん。懲りずにまた王宮に出てきたのかしら」
こちらを見下ろしてくるセリーヌにむかっ腹が立ったが、ラーニャは何も言わずに耐え忍んだ。
その態度が余計に気に触ったらしい。
セリーヌはにわかに語気を強める。
「何か言ったらどうなのよ。このおんぼろ猫」
「どいていただけませんか? 急いでいるので」
「あら、そんなにマドイ殿下と乳繰り合いたくてしょうがないのかしら? これだから盛りのついたメス猫は嫌なのよ」
(これが皇太子妃の言う台詞かよ)
ラーニャは呆れかえって目を向いたが、セリーヌはまだ言いたい放題暴言を吐いていた。
その暴言の中身はもはや、品性下劣極まりない物で、よくこんな言葉が出てくるものだと、逆に感心してしまうくらいである。
一体いつまで彼女の罵倒に付き合っていればいいのだろうか。
うんざりしたラーニャは、もう強引に立ち去ってしまおうかと思ったが、その時急にセリーヌの罵詈雑言が止まった。
何事かと思えば、向こうから王妃ヘンリエッタがやってくるのが見える。
セリーヌは歪んだ形相を一瞬で笑顔に変えると、王妃に挨拶し、そそくさとその場を立ち去って行った。
さすがに王妃様の前でラーニャを罵倒することはまずいと思ったらしい。
それからもセリーヌは、ラーニャと侍女しかいないときを狙い、こちらに向かって攻撃を仕掛けてきた。
攻撃と言っても嫌味当てこすり、または根拠の無い誹謗中傷ばかりで、直接的なダメージは大して無い。
ただ敵意を向けられる原因が分からず、それがラーニャにとって思ったより重荷となっていた。
自分の侍女は「マドイ殿下に相談しましょう」と言ってくれるが、彼にいらぬ心配はかけたくない。
きっとそのうち収まるだろう。
ラーニャはそう思って何もしないことに決めたが、予想に反し、セリーヌの敵対行動は三ヶ月以上経っても収束の気配を見せなかった。
それどころか、すれ違い様にぶつかったり、足を踏みつけてきたり、行動はエスカレートするばかりである。
ラーニャは王都に出稼ぎに来てから、マオ族という理由だけで散々見ず知らずの人から、酷い扱いを受けてきた。
だが今回の相手は皇太子妃。
しかもそのうち身内になる相手である。
これまでのようにやり過ごすことも、やり返すこともできず、ラーニャはすっかり気が滅入ってしまっていた。
王宮に行くたび嫌がらせをされるので、最近ではマドイに会うのも憂鬱になるほどである。
(なんで皆から慕われる皇太子妃が、オレに嫌がらせするんだろう)
原因の分からぬまま、またラーニャが王宮へ行く日がやってきた。
よほど仮病を使って予定を取りやめようかとも思ったが、セリーヌによってマドイとの休日を邪魔されるのにも腹が立つ。
ラーニャは嫌がらせ覚悟で王宮へ行くことに決めたが、今日は運がいいことに、セリーヌと会わずにマドイの部屋を訪れることができた。
部屋に入ると、マドイが待ってましたとばかりに出迎えてくれる。
今日のマドイは珍しいことに、思い切り破顔していた。
「おい、何かいいことでもあったのか?」
「ラーニャ、これを見てください」
ご機嫌な彼が指差す先には、ビロードのリボンで飾り立てられた大きめの箱があった。
「アレ何?」
「開けて見てください。プレゼントです」
「プレゼント!?」
沈んだ気分も吹っ飛んだラーニャが箱を開けると、中からは黄色いドレスが出てきた。
袖やスカート部分が膨らんだ、ふんわりとした印象のドレス。
ふんだんにあしらわれた細やかなレースと、きらめく宝石を見ても、この一着がいかに値の張るものなのかが分かる。
ラーニャは既に何着かドレスを持っていたが、こんなに上等で可愛らしいドレスは今まで手にしたことがなかった。
「マドイ……。これをオレに!?」
「ええ。私と結婚するばかりに苦労をかけているので、せめてもと。ラーニャに似合うデザインを、私なりに選びました」
「うわっ。嬉しい。ありがとう!」
ラーニャは金色の目を輝かせながら、贈られたばかりのドレスを眺める。
綺麗なドレスをもらったことも嬉しかったが、何より嬉しいのは、マドイの自分に対する気遣いだった。
きっとマドイは、ラーニャに似合うものは何か一生懸命考えてくれたのだろう。
これでまたセリーヌの嫌がらせにも、厳しい修行にも、耐えられる気がした。
その後ラーニャとマドイは庭園へ散策に出ることにした。
今の季節は雨季で毎日雨ばかりだが、今日に限っては雲ひとつないさわやかな初夏の陽気である。
だが貴重な晴れ間を味わいながら、ラーニャがマドイと取りとめのない会話を楽しんでいると、侍女が真っ青な顔をして二人の間に飛び込んできた。
「マドイ殿下、ラーニャ様。大変でございます!ドレスが――!」
侍女のただならぬ様子に二人が部屋へ引き返すと、そこでは侍女たちがある一点に集まって顔色をなくしていた。
彼女らの視線の先には、つい先程マドイがラーニャに贈った黄色いドレスがある。
ドレスは痛ましいことに、何かでボロボロに切り裂かれ、見るも無残な状態に変わっていた。
「なんだよこれ――」
変わり果てたドレスを見て、ラーニャは二の句を継げなかった。
良く見ると、レースは無理矢理引きちぎられ、縫い止められていた宝石やビーズも床に散らばっている。
どう考えても、誰かが故意にドレスを破壊したとしか思えない有様だった。
いたずらにしては、度を過ぎた行為である。
(ひょっとして、セリーヌが?)
ラーニャは反射的に、セリーヌを疑わざるを得なかった。
日常的にこちらに敵意を向けてくる人間と言えば、彼女くらいしか思い浮ばなかったのである。
最近彼女はラーニャが抵抗しないのをいいことに、暴力まがいのことをしてくるときがあった。
暴言暴力と、段々と嫌がらせがエスカレートしていき、ついにラーニャの持ち物にまで手を出したのではないだろうか。
もしセリーヌが犯人だとしたら、ラーニャは彼女を許せそうになかった。
今までラーニャが無抵抗でいたのは、単に被害を受けるのが自分だけだったからである。
しかし今回は違った。
切り裂かれたドレスは、マドイがラーニャのことを考えて贈ってくれた物なのだ。
そのドレスを傷つけたということは、マドイの気持ちをも傷つけたということである。
(絶対にとっちめてやる――!)
ラーニャは無残な姿になったドレスを抱き上げると、静かに犯人への怒りをたぎらせた。




