終わり編3 ラーニャ逃亡中
マドイは裏返しになった亀のように床でもがいていたが、ラーニャは呼び止める彼を無視して部屋を走り去った。
何だか彼の近くにいたくなくて、ラーニャは全速力で王城を抜け出す。
心臓が早鐘のように鳴り響いているのは、休まず走り続けているせいか。
顔もまだ火がついたように熱いままだった。
城下町に続く坂を駆け下り、町中に出ると、ラーニャは道端に置いてあるベンチに腰掛けた。
肩で息をしながら、背もたれによりかかる。
(一体何だってんだ。マドイの奴……)
彼の台詞が脳裏に蘇って、再びラーニャの顔が真っ赤になった。
結婚のことだけでも恥ずかしいのに、ましてや子供なんて。
ぶっ飛んでいるにも程があった。
(マドイの大馬鹿野郎!!)
一体彼は何を考えてあのような台詞を口にしたのだろうか。
マドイとは、かつては敵同然の仲であり、今では上司と部下。
そして家主と居候の関係でもあった。
だがどう甘く見積もっても、友達以上の関係ではないし、友達と言っていいかどうかも微妙である。
それを色んな段階をすっ飛ばして、いきなり結婚してくれだなんて、彼の真意が分からなかった。
(ひょっとして、アイツ結婚できなくて焦ってんのかな?)
マドイはもうすぐ二十三歳になる。
結婚するにはちょうどいい年頃だが、去年の騒動で婚約が破談になり相手がいない。
それで焦っているのかとも思ったが、彼は国王の第二子にして魔導大臣。
しかも絶世の美男である。
縁談は振る雨のごとくあるに違いなかった。
そうなると、ますますこちらに求婚する意味が分からない。
ラーニャは首をひねった。
ラーニャは大地の精霊の加護を受けてこそいるが、田舎から出てきた貧しい出稼ぎ娘である。
身分差はもちろんのこと、後ろ盾もなければ教養もない、むしろ彼に利のある物を探す方が難しい平凡な娘だ。
(やっぱりアレは冗談だったってことか?)
だがあの時のマドイの様子は、どうみても真剣そのものだった。
そうなると、残された理由はひとつしかない。
それは――。
「おい、こっちに逃げたそうだぞ!」
野太い男の叫び声が聞こえて、ラーニャの思考は中断された。
見れば遠くの方で、警備兵たちが集まって何やら騒いでいる。
「マドイ殿下を背後から襲った賊が、今城下町に逃げてきてるらしい」
「なんとしてでも捕まえて御前に引き出せとのことだそうだ」
「賊はマオ族の女なんだって?」
「でも男装しているそうだぞ」
「絶対無傷でってのが分からないな。ご自身を襲った賊だろうに」
ラーニャは熱かった顔が一気に氷点下まで冷めていくのを感じた。
今警備兵たちが言っている「マドイ殿下を背後から襲った賊」とは、間違いなくラーニャのことである。
マドイは城下町の警備兵にラーニャを探し出すよう、お触れを出したに違いなかった。
(こりゃマズイ!)
今ラーニャはどうしてもマドイに会いたくなかった。
あんなことを言われた直後である。
もしまた顔を合わせたら、顔から火なんて生易しいものではなく、溶岩でも吹き出すに決まっている。
なるべく気配を殺してラーニャはベンチから離れようとしたが、それを警備兵の一人が目ざとく見咎めた。
「おい、そこのマオ族――」
皆まで言われるより先に、ラーニャは再び全速力で走り出した。
怪しさ丸出しのラーニャの行動に、その場にいた警備兵全員がこちらに向かってくる。
「待てー!」
「やなこった!」
何せずば抜けて筋力と体力に優れたラーニャである。
すぐに警備兵たちを撒くことが出来たが、逆にこれで王都中のお尋ね者確定であった。
「これからどうすっかねぇ」
ラーニャは誰に聞かせるともなく呟く。
身一つで王宮を出てきてしまったため、ポケットの中には小銭しかない。
いくら王宮に帰りたくないとはいえ、これでは夜を明かせそうになかった。
ラーニャはかすかに疲労を覚えながら城下町を彷徨い歩く。
しかし曲がり角を曲がった所で、先ほどの警備兵の一人とばったり顔を合わせた。
「あっ」
「げっ」
ラーニャが走り出すと同時に、背後から「いたぞー!」という声が上げられた。
途端にわらわらと、町中のいたるところから警備兵たちが顔を出す。
(一体何人いんだよ!)
再び警備兵たちとラーニャのおっかけっこが始まった。
手配が整ったのか、兵の数は先程の時と比べ物にならない程多い。
いくら体力があるラーニャとはいえ、何十人もの警備兵をやり過ごすのは骨が折れた。
時に身を隠し、時に迫ってきた兵をぶん投げながら、ラーニャは王都を縦横無尽に逃げまくる。
いつの間にかあんなに高かった日は暮れ、王都には宵闇が訪れていた。
(こっちの方は追っ手がいないか?)
ラーニャはなるべく人目が付かない所を狙いながら、夜の王都をひた走る。
「こっちだー! こっちに行ったぞー!」
「早く殿下の所へ連行するんだ」
遠くから兵士たちの声が聞こえてくる。
休んでいる暇はなかった。
今捕まれば、否応なしにマドイと引き合わされ、せっかく逃げ出した意味がなくなってしまう。
(なんでこんなことになったんだろ……)
ラーニャは物影に身を隠しながら、両手で顔を覆った。
今日の昼までは、マドイといつものように会話していたというのに。
(アイツが悪いんだよ――!)
ラーニャは両手を力強く握り占める。
マドイが結婚だの子供だの言い出さなければ、こんなことにならなかったのだ。
あんなことさえ言われなければ、ラーニャは今までどおり当たり障りのない関係のまま、マドイといつまでも過ごしていられたのに。
兵士たちの足音は、すぐそこまで迫っていた。
ラーニャは見つからないうちに走り出そうとしたが、隠れていたゴミ箱のふたを引っ掛けて、大きな音を立ててしまう。
「いたぞ! あそこだ!」
四方八方から兵士が現れ、逃げ出そうとしていたラーニャを取り囲んだ。
皆一日中走りまわっていたせいか、血走った目でラーニャのことを睨んでいる。
「さぁ、観念してもらおうか。暗殺未遂犯」
「あ、あんさつみすいぃ?」
「マドイ殿下を背後から襲おうとしたんだろ! バッチリお縄についてもらうぞ!」
(襲ってなんかねぇよ! ……むしろ襲われたのってオレじゃね?)
どういう行き違いがあったのかしらないが、彼らの中でラーニャはマドイ殿下暗殺未遂犯になっているらしい。
じりじりと間合いを詰めてくる警備兵たちに、ラーニャはこれまでかと覚悟を決める。
しかしその時である、いきなり白い馬車が警備兵たちの間に突っ込んできたのは。
「ラーニャ! 早くボクの馬車に乗って!」
駆け込んできた馬車の中から顔を出したのは、紛れもないミカエルだった。
「ミカエル! どうしてここに!?」
「君を助けに来たんだよ! 時間がないから早く!」
ラーニャの目の前で、馬車の扉が開けられる。
迷っている時間などあるはずなかった。




