第七話 赤城精太と須崎碧の家庭の事情
――衛守哲人の教官就任から五日目の夜。
赤城精太は帰宅した直後、玄関で見知った顔に捕まった。
「せーくん怖かったよぉ―、取って食われるかと思ったぁ!」
「あれが教官さんなのか? 父さんドアスコープ覗いてバット持ち出したよ!」
おーいおいと泣きながら精太に縋り付く二人を、少年は邪魔と引っ剥がす。
それでもなお追い縋ってくる姿に、精太は呆れて言葉も出ない。
これが自分の両親なのだ。そう思うとこっちが情けなく思えてくる。
「父ちゃんも母ちゃんも涙と鼻水拭けよ、はいティッシュ」
息子から受け取った物で二人揃って顔を拭う、その仕草までシンクロしている。
父、赤城朋成と、母、赤城風音。
どちらも身長は百六十と少し。細身で髪には時折燃えるような炎の色が、感情の起伏に合わせてちらちらと見え隠れする。
念波動の特定個性者――発火能力持ちに見られる現象だ。
見た目も動きも、姉弟か、双子にさえ間違えられそうな程に類似点を見せる二人であるが、これでも遠い親戚にさえ当たらない赤の他人同士である。
ある縁で知り合い、紆余曲折の末に付き合い、結婚した――息子を愛する家族である。
「本当に恥ずかしいなぁ。こんなの兄ちゃんに見られるなんて不覚だぜ」
「そんな事言わないでおくれよぉ。父さんも母さんもちゃんと対応したんだから」
「ぐすっ、せーくん見捨てちゃいやぁー……」
「しっかりしてくれよ、大人なんだから」
このままでは話にならない。
腰にしがみつく大人二人を引き摺って居間に移動する。
まったく生躰変様々だ。いっそ念力で教官のように吹き飛ばして運ぼうかとも思ったが、前に頼まれて浮かした時の、幼児みたいなはしゃぎ様を思い出して止めた。どうせ喜ぶに決まっているし、年齢を考えない両親の姿は正直辛いものがある。
「……で、兄ちゃんに変な事は言わなかったか?」
二人が落ち着くのを待ってから問う。
テンションの乱高下が激しいところのある両親だが、流石に普段からこんなに酷くはない。というよりも、今日の家庭訪問みたいな非日常、特別なイベントがあると、オーバーなリアクションを見せて構って欲しいとくっついてくるのだ。
これも家族生活に惰性の感覚を持ち込まない為の努力だったりするのだろうか。
かつて、父母のおかしな態度を納得できる説明を求めて頭を悩ませていた時に、黄桜奏からそんな推測を聞かされた記憶がある。
飽きない毎日を送れるのは素敵なことなのよ、と、疑問に思う精太の方が悪者であるかのように言われたが、隣の芝生は何とやら、奏もこの家に放り込まれたらすぐに音を上げるだろう。
「その前に、精太の言う兄ちゃんって熊みたいな人? それともお爺さんの方?」
「黙って睨んできていたお爺さんは、教官さんとは違うわよね? 熊さんの方でしょ」
「そっからかよ! 杉本のじいさんは兄ちゃんって見た目じゃねぇだろ、あと目つきが悪いだけで母ちゃん睨んでた訳じゃないよ。その人は整備班の主任だって」
「そうそう杉本さんで、まだ若い人が衛守さんよね。デジタル名刺貰ったから覚えたわ」
「なのに熊と爺って呼んだの……? デジタル名刺に仕事書いてあるだろ……」
息子の指摘に、本当だ! と声を揃える両親。
わざとやっているのだろうか。いや、ここまでくるともうわざとやっていて欲しい、本物だったら困るのが精太の正直な心境である。
「別に変な話はしていないよ。というよりも衛守さんが話すばかりだったからね」
「せーくん頑張っているのねぇ、褒められてお母さん嬉しかったわ」
「いいや、俺の方が嬉しかったね。こればかりは負ける気がしない」
「あら朋さん、せーくんへの愛でわたしに敵うと思っているのかしら」
「減らず口を、二人まとめて我が腕で息絶えるがよい!」
「きゃー☆」
「オレを間に挟むな!」
さっさと逃げて勝手に抱き合う二人を眺める。
精太が物心のついた頃からこんな調子なのである。一々付き合ってなどいられない。
「……母ちゃん妊娠三ヶ月目だろ、具合悪かったりしないのかよ」
「せーくんの時もだったけれど、わたしあまり症状出ない体質みたい。でも酸っぱいものは食べたくなるわね」
「騙されるなよ精太、母さんの酸っぱいもの好きは出会った時からだ!」
「あら、貴方にわたしのなにが分かって!?」
「あーもう面倒だからこれ以上は反応しない」
不貞腐れる両親を置いて精太は冷蔵庫を開けた。
冷やしたお気に入りのスポーツドリンクで喉を潤す。
――三日前の電子模擬戦から、自分の身体に違和感がある。
四肢を曲げる、或いは伸ばした時に感じていた、バネを思わせる何処かに引っ張られる感覚が無くなっている。筋肉が力んでいない。
これが筋肉から念波動を剥がした成果なのだろうか。
念波動という拘束衣が脱げた事で、筋肉への過分な負荷が抜けた状態なのか。
体が軽く感じる反面、前より力が掛けられない。
ここから念波動の意識的な操作により、姿勢矯正のサポートを行わせる。
そう説明すると難しそうだが、哲人曰く、精太が正しい姿勢を意識して、それを日頃から心掛けるようにすれば、念波動も勝手に精太の思惑通りに動く、らしい。
……本当なのだろうか。そんなに都合の良いものなのか、これは。
また筋肉を締め付け拘束衣になり、以前に戻るだけではないのか。
そう疑い始めたらきりがない。ここまできたら、なるようになれだ。
「そう言えば、変な話はできなかったから、あれを上げたの思い出したわ」
「ん、あれって?」
「せーくんの写真データ。これを見てうちのせーくんを勉強して下さいってね」
「とんでもないデータ量だと驚いていたよ。赤城家の家族愛の勝利だな」
精太は居間に戻ると、ソファーに乗ったクッションを手当たり次第にぶん投げた。
――長いテーブルがある。
敷かれたベージュのテーブルクロスはジャガード織りで、光沢感のある生地は華やかさと上品さを両立した見事な物だ。
その上には多種多様な料理が並ぶ。どれも味や匂い、彩りに細やかな気を配られた逸品が、全体を通しても調和を成して、見るだけ、嗅ぐだけでも楽しめるだろう。
パンを取ればこの邸宅に置かれた石窯製の焼きたてだ。
食器に至るまで抜かりのない一級品と、隙を感じさせない完成された食卓がある。
そんな料理を囲むのは二人。
テーブルの両端に一人ずつ、向き合うように椅子に座っている。
須崎碧と、その父親の須崎政宗である。
「お父様、今日も深見さんを使いました」
「うん、良いことだ。深く聞いてもいいかい?」
「はい。今後を見越して富士大宮基地の整備班にハガネマルを与えようと思いまして、必要な手続きをして頂きました」
「なるほど。思い切ったね」
「整備班は四人、全員経歴を確認した上で私も接触しましたが――」
「宜しい。信頼できると碧が判断したから深見さんを動かしたんだろう。君の目を疑ってはいないよ」
「…………」
「ただ使い途を知りたかっただけさ。深見さん、これからも碧を宜しくお願いします」
「はい、旦那様」
虚空より姿なき返答が届いた。
それきり会話は途絶え、無言の晩餐が再開する。
だが空気の重みに耐えかねたのか、碧は一口二口でまたフォークを置き、父親に問い掛けた。
「須崎重工の調子はどうでしょうか? シープ・ネバーランド社の台頭でプロジェクト契約が難しい状況だと聞いていますが」
「半ば笑い話だよ。この分野における悪しき風習の再来と言おうか、かつて癒着と惰性の契約にマネーゲームまで取り入れた結果、十五年戦争で痛い目を見た筈なんだがね」
「ヤマト級の戦果が安定しているのは良い事ですが、今の兵器開発は国民へのポーズを取るためのもので、軍事予算の縮小は止まらないと思います」
「これも平和ボケかな、僅か五年でかつて被った痛みを忘れつつあるらしい。三十年前とは違い、村雨さんはもう居ないというのに」
村雨――それは碧の母親、須崎村雨の名前だ。
碧は村雨の顔を写真でしか知らない。父の語る通り故人だからだ。それもずっと昔に。
「村雨さんがどれだけこの国に、いや、世界に貢献したか。二十年前の戦争が始まるまで、ウォーキャリアの有用性を真に理解していた国家はなかった。ほぼ民間企業の力だけで戦車を上回る大型兵器の試作型を造るなんて無謀を通せたのは、彼女の人脈、カリスマがあったからこそだよ。ふふっ、敵性存在に弛んだ頬を殴られた途端に彼女へ縋り付く連中を見た時は、不謹慎ながら胸がすくような気分だった」
碧の心境は複雑である。
父、政宗は村雨の話になると饒舌だ。
過去に思いを馳せる目には、確かな愛と――多分の狂気を孕んでいる。その信奉具合は狂信者に近いものがあると、娘ながらに恐怖を覚えるのだ。
「世界平和の為に、あの若さで世界を相手に立ち回る。そんな偉人の付き人の真似をできたのは、僕にとって生涯の誇りだよ。村雨さんはこの星の宝だった、ああ本当に、彼女が生き永らえるのなら、この命も喜んで投げ出したというのに」
母の偉大さを語る父にかつての碧は悟った。彼の隣には、未だに母が居るのだと。
色褪せない過去を、常に昨日の事のように語る。その心は母のいた時代に置いたまま、碧には触れない、触らせようとしない。
若くして代表取締役会長と最高経営責任者を兼ね、須崎重工を支配する政宗は、その潔癖とも言える態度で他人を寄せ付けない。
絶大な権力にすり寄る信念無き有象無象を、男も女も関係なく切って捨てる。
もしかしたら、須崎村雨以外を見下し、自分と同じ人間と認めていないのではないかと、そんな噂も立つ程に彼の狂的な一面は苛烈だった。
だがそれは、少し違う。
「優しい碧よ、深見さんを存分に使いなさい。彼女を使って、人を使う抵抗を無くしなさい。それまで僕は須崎重工を守ろう。任せなさい、世界を守るなど土台無理でも、会社一つくらいなら何とかなるさ。父からの薫陶もあるしね」
彼は自分自身さえ嫌っていた。偉大な妻の後光を浴びているだけの俗物であると。
だから彼は汚れないよう本物に、碧に、一度も触った事がない。
須崎村雨の一人娘、須崎碧が自分を使い潰す日を夢見て、彼女に捧げる須崎重工を少しでも太らせるべく、痩せ細らせないよう尽力するだろう。
「須崎重工は君のものだ。それ以上さえ存分に望んでいいんだ。そうして君は僕にできなかった事を成すだろう。穢された村雨さんの栄誉を、真の意味で回復しようじゃないか」
「……お父様、一つ言い忘れていたことがありまして」
「なんだい?」
「富士大宮基地のナイツライズを見てきました」
政宗の椅子が床を擦る音を立てた。
おお、おおと、政宗が唸る。
瞳が潤み、感動に打ち震える腕がフォークを床に落とした。
尋常ではない食卓を、彼の波打つ感情が更に混沌へと落とし込む
「村雨さんの努力の結晶だね……! 会いに行ってくれて嬉しいよ碧、僕が無理矢理連れて行っても駄目なんだ、君の意志で選んだ選択にこそ、運命の車輪を回す力がある。パイロットは誰なのかな、今度僕にも紹介してくれないか」
「申し訳ありません。パイロットの人となりには、まだ確認したい事が」
「いやいい、いいんだ。君の出会いなのだから、君のペースで進めるといい。だけど楽しみだ、村雨さんがくれる驚きと喜びをまた味わいたくて、どんな人物なのか何も調べていないからね」
気分を落ち着けるべく息を整える父は、娘からの冷ややかな視線に気付いているのだろうか。
気付いているだろう。彼は神亡き世界に残された信徒であるが、そこに希望を見出そうとする探求者でもある。
娘を新たな神と崇めるのではなく、神への道を敷こうとしている。
今も、見張っている。母の事ばかり語りながらも、その目は己さえ省みない冷徹さで、道を踏み外さないよう碧の一挙手一投足を監視している。
「碧、君がハガネマルに選ばれた事実だけは、村雨さんも予見できなかった事だ」
「はい」
「村雨さんの夢の一助として、せめて愚かな人類を見捨てずにいておくれ。奏さん、だったかな。彼女には嫌われてしまったが、僕のハガネマルへの期待は本物だ。できる事なら何でもしよう。この口も、手足も、自由に使って欲しいんだ」
「分かっています。いつか必ず須崎政宗を、骨の一本まで真の平和への礎にしましょう」
「ああ、待っているよ碧、未来は明るいなぁ」
そうして親子の食卓から言葉は消えた。
碧は思う。父は変わらないなぁと。
こうやって一生、きっと一度も自分の頭を撫でる事もなく、いもしない母に寄り添い続けるのだろう。
死の淵で永く眠る最後まで――須崎村雨に謝り続けるのだろう。
自分の犯した罪を、娘に背負わせた原罪を、傍らの母に懺悔し続けるのだろう。
そんな哀れな男の血は、自分の中にも確かに流れている。
それが滑稽で、碧は行儀も悪く少し吹き出した。
父は咎めない。生まれから歪な家族は、その歪さを真っ直ぐに、今日も元気よく生き恥を晒している。
須崎碧は目を閉じた。幾ら探しても、瞼の裏に母はいない。
翌日、火曜日の午後、休みを終えた精太は威勢良く格納庫に乗り込んだ。
日曜日、月曜日とまともな訓練はできなかった。
ウォーキャリアの知識も勝利に貢献できるのかは怪しいし、はっきりと実感できたのは一本下駄が上手くなった事だけだ。
それでも今日は勝つと、英気を滾らせて少年は挑む。
こんな相手を哲人が電子模擬戦で四回負かした頃、シミュレーションルームを訪れた人物がいた。
電子模擬戦上で通知を見た哲人は、精太との戦いを中断して黒い玉から出る。
「衛守教官、精太くんとの訓練中に不躾ですが、お願いがあって参りました」
目の前の少女は、顔見せをした初日の印象とは随分と違う。
挨拶一つにも石橋を叩いて渡る慎重さで言葉を選び、周りの暴走に振り回されては焦っていた人間と同じには思えない。
今は中々堂々としたもので、大男の哲人から目を逸らさない、精太を思わせる真っ直ぐさではっきりと言った。
「これから私とデートをして下さい」
そんな有無を言わせない勢いではあったが。
須崎碧のお願いに、哲人は精太を説得できたらと答えた。