父と娘の朧月夜
月は巡る。形を自由に変えて次の予想がつかないもの。そう思っているルリアンナに、いつもは穏やかなその人が少し怒ったように言った。違う。規則正しく満ち欠けを繰り返すものだ、と。
それを聞いてルリアンナは理解した。この人の言う月は違う世界のものなのだ、と。
ルリアンナは小国シキビルドの筆頭パートンハド家の姫。さらさらの銀髪に青い目をした、美しい顔立ちの少女だ。常に冷静で落ち着いていて、他の子とは違う神聖な雰囲気をまとった子供だった。
その人は長い間パートンハド家に滞在していた。大きな敷地の中にある森に彼の住む小屋があった。ルリアンナは不思議に思い、父に彼の事を聞くと、父は柔らかく微笑みながら言った。
「彼は『百代の過客』なんだよ」
そう言われても幼いルリアンナには理解できない。シキビルド現地語を覚え古い書物にも手を出すようになり、ようやく意味が分かった頃にはもう彼のことが好きになっていた。
ルリアンナの父は、パートンハド家の惣領で事実上シキビルドを動かしている人物だった。明晰な頭脳と冷静な判断で王を支え、国を守っている。
容貌はルリアンナと同じくさらさらの銀髪に青い目で、娘の彼女から見ても美しく整った顔立ちだ。見た目に加え、にこやかで人懐っこい彼を慕う人は多く、シキビルドだけでなく他国からも会いに来る人は絶えなかった。
その友人たちの中で一番に入り浸っていたのが、名家サタリー家の惣領ペンフォールドだ。天才として学生の頃から有名だった彼は、「医」の道では敵う者はいない。父は素朴で茶目っ気のあるこの友人が好きで、ルリアンナもまた大好きだった。
今夜も芋のお菓子を食べながら話していく。ペンフォールドが気遣うように言う。
「王のやり方がどんどん酷くなるな」
「ああ」
「不甲斐なくてすまない」
「ペンフォールドには家を守って民たちを助けて欲しいんだ。だから逆らう真似はしないでくれ」
最近の話題はもっぱら王のことだ。王の差し金で母が急死してから、パートンハド家は変わった。父は笑わなくなり、あんなに好きだった音楽も封印してしまった。
王を諌め国を守る役目を持つパートンハド家は、残忍で陰湿な王に意見し続ける。父を支持する人が、また一人消された。証拠も残さずに。それは心優しい父には何より苦しい罰だった。
(ペンフォールド様も距離を置いた方がいい)
ルリアンナは心から心配していた。父の一番の友人が消されたら、父はもたなくなる。母が亡くなってからというもの、父は体調を崩し始め一向に良くならない。父の精神力はかなり強いので、対外的には分からぬよう取り作っている。王に弱みを見せれば、パートンハド家は終わる。
(あの王は普通ではない。彼を止めるのは普通の人間では無理だ)
ルリアンナは先見の能力を幼いころに発現させてからずっと、パートンハド家の終焉を見続けていた。その原因となる者が自国の王だと分かったのは、彼女が母の死を能力で先にみることができなかったことがきっかけだ。彼女の能力はとてつもなく強い。大きな出来事はほぼ先に感知することができる。しかし……
(異世界に由来するものはみえない)
父も強い能力を持っていた。異質なものを感知予知する能力。
この世界は脆弱で、異質なものや変異に弱い。この世界を守るため、異質なものを見つけ対処駆除していかなければならない。本来なら調停者と呼ばれるこの世界を司る人物が持つ能力だ。ルリアンナは苦笑いする。
(滅ぶと分かっている一国の臣下の家に、神様はたくさん祝福を贈ってくださった)
父はルリアンナの話と自分の能力、そしてパートンハド家の質の高い諜報組織を使い、シキビルド王が異世界に由来する魂を持った人間だと断定した。でも遅かった。母を失ってしまった。パートンハド家の人間は能力の強い者ほど不安定だ。亡くなった母はとても心が強く、大らかな人だった。父とルリアンナを明るく力強く支えてくれていた。
(滅ぶならあなたと一緒にその痛みに耐えましょう。母はそう言って父の求婚を承諾した)
父と娘はずっと泣けないまま時を過ごしている。
久しぶりのペンフォールドとの語らいでも、父は気分が晴れていないようだった。ルリアンナはいつものように誘う。
「父様」
「なんだい。私の愛しい小鳥ルリアンナ」
小さい頃からの父の呼び方をくすぐったく感じながら、ルリアンナは言う。
「森にお散歩に行きましょう」
「それはいい考えだね」
シキビルドの森は豊かで美しい。季節ごとに移り変わる姿をみれば誰もが癒される。ルリアンナがそっと父を盗み見ると、父に小突かれた。父はそっと手を取ると、優雅にエスコートする。我が父ながら、見惚れてしまう。
(父はモテるだろうなあ)
父は本当に非の打ち所がない美男子だ。未だに縁談があるが、丁重に蹴っ飛ばしてるらしい。それでも滅びようとしているこの家を支えるため、もう一人妻を娶った。パートンハド家は秘密が多く、今は安全とは言えない。その妻は実家に置き、通い婚をしていて、異母妹と異母弟はそこにいる。
ルリアンナと父が二人きりで過ごせる時間は、そうたくさんあるわけではなかった。
お散歩とは言ったが、行くところは決まっている。森の中の客人の小屋だ。ルリアンナが扉を叩く。
トン トントン
中から何やら慌てた音がする。すると予想通り髪も整わず、落ち着かない様子で男は扉を開ける。相変わらず彼の部屋には、使用方法の分からない不思議な物が騒然と並んでいた。
「どうぞ」
勧められた素材不明の椅子に二人は座る。男は困り切ったようにルリアンナを見た。
(本当に表情豊かな人だな)
ルリアンナは彼に会えるだけで楽しくなってしまう。
父が面白そうに言う。
「ベルン。いつものように何でもいいから弾いてくれよ」
「何でもって一番困るんです」
「ベルンの弾ける曲なんて、だいたい知らない曲だしなあ」
「分かりました。じゃあ楽器は? 鍵盤楽器か弦楽器か」
そこへルリアンナは割って入る。
「鍵盤楽器で『朧月夜』」
ベルンは了解しました、と準備を始める。文部省唱歌か……と意味不明の言葉をつぶやいている。父は自分の膝に頬杖をつきながら、口先を尖らして言う。さっきの美青年の姿はない。
「ルリアンナがここに来ると元気になるのが気に入らない」
「元気がない方が良いと?」
「ほら! そういう感じ」
「父様もだいぶ崩れていらっしゃいます……」
「こっちが素だ。私は無理して美青年やってるんだ。ルリアンナ。絶対私の許可なしに男と付き合わないように! もちろんベルンも例外じゃないからな」
父様が少し壊れ気味でちょっと鬱陶しいな、とルリアンナが思っていると、ベルンがそろそろ弾いてもいいですか? と様子を伺う。ルリアンナは小さく頷いた。
ベルンはさっきまでのおどおどした感じがなくなり、静かで穏やかな表情だ。鍵盤楽器の鍵盤にそっと指を置くと、指を軽やかに弾かせながら綺麗な前奏を弾き始める。そこに彼の歌が重ねられる。それは月の歌でありながら、土の匂いがするどこか懐かしい歌だった。シキビルドの春を思い起こさせる。
「君歌えるでしょ。上歌って?」
途中からベルンがルリアンナに歌をふってきた。ルリアンナは2番の歌詞を思い出しながら歌う。ベルンは下の音を彼女の声に重ねて歌う。二つの音色が合わさると清い透明な何かが辺りを包んだ。父はそのさまに目を細め、二人の歌に聴き入っていた。
曲が終わり夜も更けていく。父とルリアンナは小屋を出て家に戻る。ちょうど月が出ている。家までの道を照らしてくれるようだ。
「もうすぐ春だな。いい歌だった」
「はい」
「火も色も人も音も全てを霞める、か。凄まじい歌詞だ。さすがは異世界の歌だな」
「……」
父の様子にルリアンナは身を固くする。わざわざ言う必要のない秘密を絡めて話をするのは、彼が厳しくことをいう時の特徴だ。父は歩みを止め彼女の手をとらえた。
「通い過ぎだ。どれだけベルンと二人で会ってるんだ。彼が何者なのか、もう分かっているのだろう」
「はい。申し訳ありません……」
「ルリアンナが彼に惹かれるのは、彼だけはみえないからだろう? 私たちは彼をだまして、この世界を保つために使おうとしている。その時ルリアンナは耐えられるのか?」
「申し訳……」
ルリアンナが苦しい声で謝ろうとするのを止めるように、父は彼女を抱きしめた。
「私もベルンに惹かれているんだよ。本当に困った。異世界の者というだけでなく、彼の音楽には何か力があるようだ」
「父様にも分からないのですか?」
「うん。分からない。まだ時間はある。二人であがいていこう。最後まで」
「はい」
父の懸念は当たっていた。ルリアンナは何度も一人でベルンの元へ行っていた。
ベルンはいつも不思議な世界の歌を歌っていた。それは眩しいほど色彩豊かで、それでいて切ない。
最初、ルリアンナは外から彼の音楽を聞いているだけだったのだが、彼女に気づいたベルンが小屋に入れてくれるようになった。
彼はとても綺麗な黒髪をしていて、真っ黒な目はすべてを見通すように澄んでいる。男の人とは思えないほど白くきめの細かい肌に、華奢な体躯。ルリアンナの知るどの人とも違っていた。
(でも月が嫌いらしい)
ルリアンナは苦笑いする。彼女の言葉にベルンは一度だけ声を荒立てたことがある。
「今日は月が丸いですね。明日はどんな形でしょう」
何年か前に『朧月夜』を初めてルリアンナに聞かせてくれた時のことだ。彼女がこの歌の美しい情景から思わずこぼした言葉だった。いつも穏やかなベルンがムッとした。
「規則的に満ち欠けをするのが月だ。暦にも使われたほど正確だ。ここの月はおかしい」
思ってもみなかった厳しい口調にルリアンナは動きが停止する。決まった周期で変化しない気まぐれな月が彼女は好きだった。先が分からないと思えることが少なかったから、毎夜月を見上げて楽しく思っていた。
(ベルンは私と同じ月を見ていない。今もそう。彼はこの世界を見ていない。自分の世界を思って歌っている)
ベルンはすぐに強く言ってしまったことを謝り、再び演奏を続けてくれた。でも彼の本音だとルリアンナは思った。今もそのことは彼女の心に残っている。
ベルンは当初、言葉が分からなかった。だが平民の話すシキビルドの現地語が、彼の言語とほとんど同じだと分かる。それで父の伝手で平民の店で演奏する仕事を始めることにした。その中で、特権階級が話す共通語を覚えていった。
その店の主にベルンはとても気に入られている。異質な音楽がとても客たちに受けているという。ベルンはのめりこむように、新しい曲を起こし楽器を練習していた。その姿はまるで現実を受け入れられず逃げているようにも見え、ルリアンナには痛々しく感じた。
父が珍しく一緒に出掛けようとルリアンナに言う。最近はパートンハド家の周りが物騒になり外出も最低限になっていた。今日は平民の店に行くため、服もそのように変える。特権階級が平民の町に行くことは通常ないが、パートンハド家では情報収集のための日常的な外出だった。
「これを被りなさい」
父は粗末だが清潔な布をルリアンナに渡した。14歳になった彼女の容貌はどう変装しても綺麗すぎた。父は自分の姿を平民に見えるよう魔法で変化させる。
(それでも十分いい男ですよ。父様)
ルリアンナは自慢の父の姿を見て、こっそり思った。
向かった先は『楽屋』という平民の店だ。歓楽街にありながら、素朴で華やかさに欠けている。そういう店でベルンは心のままに演奏していた。ルリアンナが彼に釘付けになっていると、父が彼女の手をとりさらに奥の部屋へと誘う。個室に通され、そこで二人は食事をとることになった。席に着くと、父は静かに話し出した。
「未成年だから個室をとった。ベルンの演奏聴きたかったか?」
父の言葉にルリアンナは動きが停止する。それを見て、これは重傷だな、と呆れたように呟いた。ため息をつきながら、ルリアンナが頭から被っていた布をとり丁寧にたたむと、彼女に返しながら言った。
「変異が少し緩やかになっている。ルリアンナはどうだ?」
「……あんなに鮮烈だったパートンハド家の終焉がみえなくなってしまいました」
「良いことじゃないか」
「パートンハド家の未来全般が霞がかかったようにみえにくいのです……。私の能力が弱まっているのではないかと思います」
ルリアンナは言葉を止めると、苦しそうにうつむく。父はたて肘をついて、不愉快そうに彼女を覗き込んで言った。
「そうかもな。恋をするとよくある話だ」
「……」
「でな。ベルンに話した」
「な、何を」
「シキビルドの王を倒すのにベルンの力が必要だから、利用しようとしてましたって」
父は飄々とした様子で言った。ルリアンナは動きを停止する。父はにやっと笑った。
「びっくりした?」
「し、しました。本当の話ですか?」
「うん。協力してくれたら、元の世界に戻れるか神々に聞けるよう段取りしてあげるから、お願いって言った」
「それ……聞けるだけですよね? 多分戻るのは難しいはずです」
「そう。でも嘘はついてない」
父は美しい顔立ちを活かした綺麗な笑顔で応える。
(ああ。なんて無駄な笑顔……)
ルリアンナはベルンの事が気になるため、父の鬱陶しさを無視して聞く。
「ベルンは何と答えたんですか?」
「ルリアンナと話したいって。……だから頼むね」
そう言うと席を立ち、個室の扉を開け一人外へ出ていく。少しするとベルンと一緒に戻ってきた父は、ベルンだけ入室させて自分はまた外へ出た。ルリアンナは立ち上がり、すぐに頭を下げた。
「すみませんでした」
彼女を見るベルンの表情に、いつもの穏やかさがない。少し怒っている。
「どのへんを謝ってるの? これまでの嘘? これから騙そうとしていること?」
「……」
「君のことを聞きたい……君は何? なぜ僕に構う?」
厳しい口調で重ねられるベルンの言葉に、ルリアンナは動きを停止する。それを見てベルンは黒髪を揺らしてうつむき、勢いを弱めた。
「ごめん。君の前だと多分僕は取り繕えなくなるんだ。聞きたいのは君の本音。君から本当のことを説明して欲しい。信じるから」
「……」
ルリアンナは何か言わなくてはと思うが、どうしても言葉が出ない。ベルンはため息をつき静かに話し出した。
「……君と月の話をしたことがあったね。君は、変化が予想できない月に癒されているの? いつも未来が見え過ぎて辛いから」
ルリアンナはゆっくりと頷いた。この話題を彼の方からしたことに驚いた。ベルンは黒曜石のような黒い目で彼女を見つめていた。
「君が見る一番辛い未来って何?」
「この世界の崩壊です」
ベルンの顔が強ばる。ルリアンナが話を続ける。
「……シキビルドの王がその引き金を引きます。同じく異世界から来たあなたになら、王を滅することができます」
「僕にどうしろと」
「何個か方法があります。でも……」
「どの方法でも僕は消えそうだね」
「……」
「全く。君のお父様は慈しみ深いが、目的のためには容赦ないな」
「……そうですね」
ルリアンナが俯いて答える。ベルンは呆れたようにため息をついた。
沈黙が続き、彼女は顔を上げる。
なぜか彼は不敵な笑み浮かべている。ルリアンナは目を丸くした。
「いいよ。受けて立つよ。どうせもう元の世界には戻れないんだろう? せっかく異世界に来たんだ。強敵の一人や二人倒さないとね」
「良いんですか」
「君一人に、そんな運命背負わせる訳にはいかないだろ?」
ベルンが軽い気持ちで言っていると分かっていても、ルリアンナは嬉しくて泣きたくなった。
「……私はあなたがいてくれるなら、頑張れるような気がします」
ベルンは彼女を見て愛しそうに目を細める。そっと彼女との距離を詰めるが、不意に立ち止まりそれ以上近づくことはなかった。
「……困ったな。君のお父様が恐ろしすぎて何も言えないし、できない」
不思議そうに見上げるルリアンナに、ベルンはボソッと呟いた。彼の背後にある扉は少し空いていて、そこから鋭い殺気が放たれていた。