第一話
人間は地上に、獣人は森に、虫人は地中に、人魚は海に。住まいを分けて暮らしているという。それは物語の本で知っただけの、家の外にあるらしい広い広い世界の話。
少女は見たことがないヒトを見に行くことにした。
「だから会えてうれしいです」
「そりゃよかったじゃあもうこれからは一人で海に近づくなよ絶対だぞ」
「はぁい」
波に足を掬われて、泳ぎ方も知らなかった少女が溺れたのが数拍前。海の底から現れた妙な男に助けられて浜辺へと生きて戻ってこれたのだ。海ってしょっぱいし、広いし、ざぶざぶしていて怖いんだなあと少女は少し反省した。
少女を助けた男は二足歩行でひょろ長い体軀をしていた。しかしあばらから下は白い甲羅のような皮膚で覆われ、手足も赤と白のまだらに染められた頑丈で滑らかなものでできていた。関節や足首から爪先までは人間のような柔らかい部分に見えるが、手は大きな鋏になっていて、球状の突起が並んだ刃はなんでも潰してしまいそうだ。背中はささくれだった赤い甲羅が肩甲骨あたりから生えており、その下に左右に三本づつ、自在に操れる節足がある。赤くなかったら蜘蛛のようだな、と少女は思った。
長い長い脚を折り曲げてしゃがみ、その前傾姿勢を後ろから生えている節足で支えているので、まるでソファにどっかり座り込んだ父のような体勢で見下ろしてくる男を見て、少女は椅子いらずで便利ですね、と思わず声をかけた。
その言葉に呆れたような視線を向けて、男は返す。
「今さっき溺れかけてたおチビの癖に人魚は怖くねえの」
「海っておよがないとおぼれちゃうんですね。初めてきておよげなかったから、海は怖いなあ。でも人魚さんは初めて会った人が助けてくれた人だから、こわくないです」
「ああそう」
変なチビだ、と思う。今日は暖かいとはいえ、陸の生物が海水に濡れたのままでいるのは嫌じゃないのだろうか。そもそも、人魚と会いたいから海に来た、という行動原理も妙であるが。人間の本には大抵、他の種族は野蛮で残忍だとかそんな描かれ方をしているものだ。そうでなくとも、自身が人間の絵本にあるような人魚の姿でないことも自覚しているので、怖がってもいいのに。そんなには気にしない。そんなには。
「わたしはマールって名前です、人間です。あっちの方にある黒い屋根のお家に住んでます。人魚さんは?」
「俺はエンベルト。タカアシガニの人魚。そこの海の底で暮らしてる。……なんで自己紹介してんの」
「エンベルトさん、助けてくれてありがとうございました、知らない人とお話しするのはダメなので、知ってる人になってもらいました」
「どういたしまして。ちゃんとしてんのな」
マールが嬉しそうに笑ったので、右鋏を開いて上刃を使って頭を撫でてやった。楽しそうにして鋏を触ってきたので、好きなようにさせてやる。突起が面白いようだ。エンベルトの種族は、貝の殻を潰して食べることに特化しているから鋭くないし、触るだけなら問題はないが、こちらの意思でいつでも骨くらいすり潰せるのだからあまり気安く触るものではないと思う。そんなことしないが。
「人魚さんは服着ないんですね」
「人間や獣人は着るよな」
「寒かったり暑かったりしませんか?」
「寒すぎたら海を移動したりあったかくなるまで寝たりする。暑すぎたらもっと深いところに潜るし。ちゃんと家を作ってるやつもいるけど、俺はあんまりこだわってないからどこでも行くよ。おチビは今びしょ濡れだけど寒くないわけ」
「海って広いからいいなあ。でもずっと寝るのはなんだかもったいないですね。今日はあったかいのでだいじょうぶです」
寝るのがもったいないか。確かに。生きてる時間って有限なわけだしなあ。
「一人で来たんでしょ? 怒られないの」
「うーん、じつは、すっごく怒るので帰りたくない、です」
「なるほどなあ」
顔をくしゃくしゃに顰めて嫌! という感情を表現してくる。マールには悪いが、エンベルトもこれはちゃんと叱られるべきだと思うので苦笑するに留めた。
「でも悪いのは、わたしなので。わかってます。えーん、でもやだなあ。エンベルトさんとまだお話ししたいし、怒られたくないし」
「おチビがかわいいこと言ってくれたから、明日もこの辺でいてやろうかな。今日は帰りな。遅くなったら、きっともっと怒られるぜ」
そろそろ背中と甲羅の間に溜まってた水も減ってきた。息がしづらい。蟹だって鰓呼吸なのだ。エンベルトはそう思って、ゆっくりと立ち上がる。そのついでに両の鋏でマールの脇を優しく挟んで持ち上げる。二人が立ち上がると、その身長差は歴然だ。ずいぶん下に見える子どものつむじに親愛のキスを一つ。それに驚いたマールが両手で頭を抱えるようにして見上げてくる。
「いい子にしてたらきっといいことがおきるおまじないだ」
ぽぽぽとマールが赤くなって、ニコニコと笑い出した。人間はこういうことをあんまりしないのかもしれない。ずいぶんと嬉しそうだとエンベルトは少し目を見開いた。
「おまじない、初めてです。ありがとうエンベルトさん。ちゃんと怒られてきます! それじゃあまた明日!」
「頑張れよ。また明日」
駆けていくマールが足をもつれさせて転ばないか内心ハラハラしつつ見守って、見えなくなっても人間の街を眺めていた。マールはここに住んでるのか。小さかったから、きっとあと10年くらいはここにいるだろう。この辺りの人間はあまり顔ぶれが変わらない。明日も会う約束をした。きっとその次の日や、来週にも、会うんじゃないか。エンベルトは考えた。そろそろ家を作ってもいいかもしれない。