召喚されかけた勇者が持ってきたもの
はて、ここはどこだろう。
周囲を見渡すと何やら時代錯誤な服装の、どう見ても東洋の人種ではなさそうな金髪碧眼の面々。サーコートというやつだろうか。帯剣もしているし、騎士コスプレの集会か何かかね?
場所は聖堂、神殿、みたいなところ。白亜の石で組まれた台座の中心に自分がいて、四方にパルテノンだかそのへんにありそうな柱が存在を主張している。天井も白亜の石造りだけど、中心が透明なガラスかな。日中らしく陽光が差し込んでいた。
簡素だけど厳かで、静謐さに満ちた神社のような聖域。
不思議と、そう思えた。
誰もが少しの驚きと、それを上回る喜色を浮かべている。大きく叫ぶのを我慢しているようにも思えた。おそらく、「やった、やったぞ!」と言っているのだろうか。ガッツポーズをする者や、口元に笑みを作り肩を叩き合うもの、静かに目線を合わせて頷きあう者。嬉しいを全面に押し出した雰囲気。そして意識は自分に向けられているのがわかる。
はて、ここはどこだろう。
再び胸中で問うも答えは出ない。自問自答しても頭の中は霞がかったように曖昧だ。身体は熱くて寒いし、鼻水が自然と垂れ下がってくる。おっと、ティッシュティッシュ。
ポケットの中にあるティッシュを取り出して、鼻水を拭う。ずびびびばーっとやれればいいのだが、さすがに人前で勢い良くやるのは憚られる。それくらいの恥じらいはあるのさ。
おかしい、という一点だけは理解している。これといって特長のないジャージを着て、マフラーを首に巻き、マスクで口元を隠し、履き慣れたスニーカーでふらふらと病院に行って帰宅している最中の出来事だった。いきなり足元に眼も開けられないくらいの眩い発光現象。スポットライトのようにカッと一瞬で光る形ではなく、パアアアッ、と徐々に光が強まっていく感じだったかな。そして気がつけば今の状況というわけだ。
足元の光は、場所が変わって、石造りの聖堂っぽいとこでも淡く発光している。あ、弱まってきた。もうすぐ消えそうだな。
ごほ、ごほ。
ティッシュで鼻水をぬぐうときにマスクをずらしたが、空気に触れたことでつい咳が出てしまった。うーむ、失敗失敗。幸い周囲の金髪の人々は気分を害してはいない。むしろ、向けられる視線から思うに、こちらを心配し始めている。気遣いの出来る良い人たちのようだ。
今年のインフルエンザは凶悪の一言に尽きる。予防接種の抵抗をやすやすと突破する攻撃性だとか何とか。防御無効の貫通攻撃。体力低下、思考低下、精神低下を兼ね備えた状態異常を誘発させる。ひどい話だ。
感染拡大を防ぐ為に一週間は会社が休めるといっても、年末の今日この頃。元旦も控え、年末年始の連休が闘病生活で消費されることに遺憾の意を表したい。普通の風邪ではなくインフルエンザなので彼女を呼んで看病プリーズと情に訴えるのもNGだろう。まったくもってひどい話だ。
そんなことを考えながらぼへーっと突っ立っていると、眼前にいる女性――さしずめ騎士に守られるお姫様といったところかね。上品なドレスを着た20代らしき女性がよくわからない言語を口走りながら懇願している。
懇願。
たぶん、それで合っているかね。
こう、いかにも「どうか私たちを助けてください」と、まるで魔王に脅かされた国を救うために勇者を召喚したかのようなシチュエーションだし。となれば、自分は神隠しされたわけか。いや、この場合は同意のない召喚なんだし、拉致と言っていいんじゃないかな。
ははは、ないって、ない。
漫画や小説じゃあるまいし、現実的じゃないない。
なーので、帰らせてくださいな。
第一、39度近くまで熱ある自分を呼び出してどうするのよ。なーんにもできんよ。多少は運動能力に自信があっても戦いなんて知らんし。武器があっても、せいぜい猪を狩った経験があるくらいか。それも罠にかかった状態での話だし。正面から猪や熊に襲われたら死ねるで?
あーそうだ、インフル直ったら牡丹鍋を食べよう。確か冷凍庫に一切れ凍らせたのが残っていたからな。
じいちゃん猟友会で取って余ったから食えって言ってたけどさ、毎回どどーんと送ってきても消費するの大変なのよ? まあお嬢様な彼女はそういった野性味溢れる肉は新鮮だったらしく、大好評なのだけど。今じゃ立派な山ガールだし、付き合い始めたころの大人しさはどこに飛んでったというくらいアグレッシブになっている。夜も積極的でいつも勝負は白熱してしまうし……風邪で頭がぼーっとしていても性欲は持て余してしまうものか。これが男として悲しいサガよの。
というわけで、帰るわ、すんません。
おお?
なんか身体から何かが抜けていく。
あ、弱まって消えかけていた足元の光が急に――。
◇
「そ、そんな……っ」
「勇者様が消えてしまわれたぞ!」
「ばかな、召喚は完璧だったはずだ!?」
魔道騎士たちは酷く取り乱している。当然です。手順に間違いはなかったし、召喚された勇者様に不敬を働いていたわけでもない。いったいどんなミスがあったというのでしょう。
召喚の光が消えることで私たちの世界へと固定される最中に、何故か光が強まり、勇者様が消えてしまった。彼の保有する魔力が召喚陣に干渉したのだろうけど、いきなりすぎて何もわからない。
不思議な装いの勇者様。黒髪黒目の若者で、がっちりした体形はしなやかで、いかにも素早さに秀でた戦士といったお方だった。首や口元に布を纏い、出ている肌は目元くらい。目線は俯瞰的で、一言も喋ることなく情報収集を最優先していた。日常的に自然体で警戒するそのお姿はとても頼もしい。勇者として不足のない膨大な魔力を持っていたし、彼のような強者ならば、我がチーサナ王国の救世主になるだろうと確信したというのに。
口元を隠していた白いマスクは、おそらくは溢れんばかりの魔力を抑える働きをしていたと推察する。急に別世界にやってきたことで空気が変わり、ごほごほと咳き込んでいたけど、そのときに喉から、口から漏れた息吹には身震いするほどの魔力が込められていました。まるで吐息の粒子ひとつひとつに生命体が存在し、洪水のごとく放出されている様子を幻視したくらいです。
彼がズボンのポケットから白い薄布を取り出して鼻を拭きましたが、拭き後の薄布にもべったりと魔力がこびり付いていました。まさしく全身に魔力が駆け巡っている状態だったといえます。
「……送還された、と考えるの妥当でしょう」
ばっ、と召喚を主導していた魔道騎士ユーカイハンに皆の顔が向く。彼の表情は苦々しいもので一杯だった。
「ともあれ、いったん王に報告せねばなりません。タスケーテ姫、此度の件、一切の責任は私にあります。どうか部下たちにはご温情をお願いいたしますれば……」
「なにを言うのユーカイハン。誰一人として予想していなかったことなのです。召喚の儀式に用いる魔力の充填に数ヶ月です。たった数ヶ月、魔王ジツハイーヒトの軍勢を耐えればいいだけですよ。失敗なくして成功はありません。今回の不運は、きっと別のところで幸運と成り代わって私たちを助けてくれるでしょう」
姫様、とユーカイハンは沈みかけた心を浮上させる。感動した表情。くうぅ、と涙をこらえていた。
これでいい。彼らの士気は何よりも重要な事柄です。成功して大喜びから崖下に突き落とされたかのように召喚失敗を見せ付けられたのです。姫である私だって悔しくて悲しくなりますが、それでも、彼らを導く王族として有らねばならないのですから。
そうです、くよくよしていられません!
ここは気持ちを大きく、強く持っていきましょう!
半端な召喚だったとはいえ、勇者様は途轍もない魔力の持ち主でした。次に召喚したとき、同じ勇者様が現れるかどうかは不明ですが、どうしても期待してしまいます。
たった二回の咳き込み。
ただそれだけで、数分という僅かな時間で、この召喚の儀式を行った神殿を生命力溢れる魔力で満たしたのですから。それに勇者様の魔力の影響か、心なしか身体が熱くなっている気がします。
「では皆さん、城に帰りましょう。次こそは成功すると信じて――」
◇
「おかーさん、それでそれで、チーサナ王国はどうなったの?」
「滅亡しちゃった」
「うぇっ!?」
「一瞬だけだったみたいだけど、どうも勇者様が撒き散らした魔力が強すぎたらしくてね。王国の人たちには耐えられなかったんだって。ほら、魔力酔いってあるでしょ」
「ぐわーんってするやつだよね」
「そそ。それの超強力な症状が出て、ぱたぱたと倒れる人が続出したとか」
「なにそれー、勇者様のほうがずっと魔王みたいじゃん」
「きっと勇者様には悪気は一切なかったと思うわよ。ただ、王国の人たちと力の差が大きかったってだけじゃないかな」
「あ、そっか! だから異世界の召喚はやっちゃだめっ、になったんだね!」
「そゆことー。貴方も魔道騎士を目指すならちゃんと覚えておきなさいよ。何しろ、今でも冬の時期になると勇者様の残した魔力が活性化して、弱い身体の人が抵抗できなくてぽっくりいっちゃうんだから」
「早寝早起き、けんこー第一だね!」
「はい。なので今お皿からどかしたピーマンはちゃんと食べないとダメですね」
「うぇぇ、お話でごまかすつもりだったのにぃ」
「お肉と一緒に食べて誤魔化しなさいよ、もう」
「はい、がんばります」
「食事はのんびりが一番なんだけどねぇ」
インフルやべぇよ、という話でした。