楊貴妃
雅己の住む世田谷区桜町は、世田谷区のほぼど真ん中に位置している。
雅己は、世田谷区は23区で一番大きな区だと認識していたのだが、実は最近、隣接の大田区に面積で抜かれたらしい。そもそも、区の面積が変わること自体不思議なのだが、大田区は、羽田空港などの埋立地がいまだ増えているのだ。なるほどである。
しかし、人口では、23区でも最大の80万人以上が暮らしている。
そのため、同じ世田谷区でも東西南北や環状7号線や環状8号の内外では、だいぶ雰囲気が変わる。まあ、一番違うのは、土地の値段である。しかし、おもしろいことに、都心に近ければ、土地が高いというわけでもない。路線や知名度などで、ずいぶん価格に差があるのだ。
雅己の住む桜町3丁目は、世田谷通りに面し、少し歩けば、馬事公苑があり、自転車を使えば、砧公園、駒沢公園まで行ける。そんな自然環境の良さが、今住むマンションを15年ほど前に選んだ理由である。当時は、「陸の孤島」と揶揄された土地だったが、桜新町の知名度が上がったことや物件が品薄なことから、現在は、当時の買った1.5倍ほどの中古価格がついているらしい。
そんなマンションのエントランスを、雅己とメダカのビニール袋を持った悠斗は、入っていった。
悠斗は、エントランスの一番右奥に位置する105号室のドアを勢いよくあけながら、
「ただいま!」と大声を上げている。靴の脱ぐのももどかしそうに、一直線に水槽に向かっていく姿が想像できた。
「メダカ買えたの?」と妻の麻美が、キッチンから手を拭きながら出てくる。
「うん!2匹おまけしてもらった」と嬉しそうに、悠斗は、メダカが入ったビニール袋を掲げてみせた。
「うわぁ、金魚みたいね。結構に赤いね」と麻美が感心しているので、
「1匹500円の楊貴妃っていう品種だよ。普通のメダカ10倍だったよ。でも、透明はヤツ、1000円、青は1800円だった。ちょっと感動したよ。メダカブームがきていて、結構真剣に見ている大人がいたよ。メダカの繁殖で、かなり稼いでいる人もいるみたいだよ」とペットショップの店長からも聞いた話をそのまま雅己は伝えた。
「へー、うちでもやりますか」と麻美が真剣な顔をしながらいうので、
「いやいや、新種がでるのは、数千分の一の低い確率らしいよ。さらに同じ色を掛け合わせて、固定しないといけないんだって。それに、野菜のハウスの面積ないとダメだって」とあきらめさせる。
「野菜ハウスか、それはうちの庭では無理か」と、猫の額ほどの庭を見つめながら、悔しそうに言う。
そんな夫婦の会話には、興味がないのか、すでに悠斗はメダカを水槽に浮かべて、観察をしている。
もちろん、ビニール袋のままである。この状態で30分ほど置いておくと水槽とビニール袋内の水温が同じになるらしい。以前、そんなことはつゆ知らず、ビニール袋からすぐに金魚を水槽に移したときに、パパだめだよ。人間が感じる水温1度は、魚にとっての3度なんだよ、とまだ、小学校1年生だった悠斗にだめだしをくらったことがあった。
「ちょっとバスでハプニングがあったけどね」と、雅己は、くまんバチの事件のことをかいつまんで、麻美に報告した。
「ふーん、蜂も悠斗の得意分野だからね」と料理の手を休めず、笑いながら答えた。
「馬事公苑にたくさんいるのよ。養蜂の手伝いもしてるし」という。
「でも、蜂に刺されるとショック死するとか言わない?」と雅己は、テレビで見たネタを振ってみると、
「そんなこといってたら、養蜂家いなくなるでしょ。マスコミが騒ぎすぎなのよ」と諭された。
「だいたい、ダニやら蚊に刺されただけで、やれ感染症だ、ウィルスだって、大騒ぎでしょ。危険生物とかいってるけど、人間が一番危険なんだから」とブツブツ文句を言っている。
このあたりの話題で、議論がはじまると、麻美に太刀打ちできないので、「ふむふむ」と素直に聞いてるのが得策である。
麻美は、普段から、いろいろなサークルや市民運動に参加している。ご近所にいるような物腰の柔らかい上品な主婦ではないのだ。政治から自然保護まで、幅広く興味があるようだ。少し変りものの女性ではあるが、雅己はそんな妻をリスペクトしている。
麻美とは、出会った時も一目ぼれだった。出会いは、中国語会話のクラスだった。
20年前には中国語会話の教室など皆無だった。