ファイル3 『河童』の怪 【②】
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田植えが終わって、ひと月ほど経っているのだろうか。大きな水たまりで規則的に生えている草にしか見えなかった苗は成長し、今の田んぼは緑の絨毯が敷かれているように見える。
舗装がボロボロになってしまっている田舎道。桜香たちは溝淵に案内され、村と商店街との間にある派出所に来ていた。
この派出所に勤務している警官は、定年近い田処巡査と新人の溝淵巡査である。ふたりとも、出身は近くの村であり、お互いをよく知っているのだという。土地がある田舎の派出所だからだろうか、勤務しているのはふたりなのだが、東都のものと比べると室内が随分と広い。
その広い室内の奥の方で、桜香は机を挟んで溝淵と向かい合い、村で起きた事件の内容を聞いている。その様子を、巡査二人のデスクの椅子に座る安那と山森が見ていた。カウンター横の長椅子に座っているタマモは、床に届かない足をプラプラさせながら外の景色を見ており、その横に座る住吉は、出されたお茶菓子をおいしそうに食べている。
「いや~。やっぱり、田舎というのはいいもんですな~――」
妙に年寄りクサい口調のタマモは、熱いお茶をズズズと啜ると、両手で持っていた湯呑を机に置き、椅子からピョンと飛び下りた。
「んん~……気持ちいい。やっぱり自然が多いから、新鮮な気がおいしいね!」
そのまま前進した彼女は、開いたままの引き戸に手をかけて大きな伸びをする。
「はは。やはり、東都の汚れた空気とは違いますかな?」
タマモの様子を見ていた、田処源治という白髪まじりの老警官が微笑んだ。
「うん。全然違うよ!」
元気よく答えたタマモに、田処は「そうですかそうですか……」と、満足そうに頷いた。まるで、孫を見るような優しい目だ。
田処とタマモの意見には違いがあった。老警官の田処は、田舎の清々しい空気のことだと思ったようだが、タマモが言った〝気〟とは、自然が発する精気のことである。
タマモたち妖怪の主食は、基本的には自然が発する〝精気〟なのだという。これさえ吸収していれば、彼女たちが飢えに苦しむ事は無い。妖怪のなかには生き物の(特に人間の)負の感情から発せられる〝気〟を好むモノもいるが、それらは人間に害をなそうとする一部の妖怪であって、ほとんどの妖怪はよほどのことがない限り、人間に生死にかかわるような危害を加える事は無い。
溝淵が、机の上で開いていた日誌を静かに閉じた。
「――ということなんです。自分は崎守刑事たちのような、本庁の方たちに来ていただくような事件ではないと思っていたのですが……」
「でも、被害に遭われたのは一人や二人ではありませんよね。それに、犯人の姿が見えなくなってしまうなんて『特殊事件』じゃないですか。これは、私たちの専門分野です」
溝淵と向かい合って座っている桜香が胸を張る。
それを見たタマモと住吉が、胸の前で小さく手を叩いた。
「おお~。桜香ちゃんの〝やる気〟が全開だよ」
「旅の疲れが、どこかに吹っ飛んでいるわけ」
「当然です! 犯人はまた、いつ何時犯行を重ねるのか判らないんですよ。疲れたなんて言っている暇はないんです!」
鼻息荒く答える桜香。ふたりの言う通り、今の彼女は満ち溢れており、ここまで来た道中の疲れなど吹き飛んでいた。というのも――
「崎守刑事、特殊事件というのは大袈裟なのでは? 自分は、山猿にイタズラされたのを誇張しているだけだと思っているのですが……」
溝淵が、迫力ある桜香に、うろたえ気味で話しかけた。
「け、刑事……」
桜香は小声でその言葉を噛みしめると、キラキラ輝く瞳を溝淵へと向ける。
「溝淵くん。逃走する犯人の姿を見失うのではなく、途中で見えなくなってしまうなんて、そんなことは山猿には出来ないわよ」
「し、しかし――」
桜香の瞳をまともに受けてしまった溝淵が再びうろたえた。
――桜香が〝やる気〟に満ち溢れている理由は、『刑事』と言ってもらえたことにあるとは誰にもわかっていない。彼女のように、二十代前半で刑事になるのは非常に稀な事なのだ。本来ならば、刑事になるためには〝実績〟と〝警察署所長の推薦〟、それにテストが必要である。ひょんなことから刑事になることが出来たが、桜香にはその実感がなかった。けれども、ここで溝淵から“崎守刑事”と言われたことで、自分は本当に刑事になれたのだと実感した彼女は、嬉しさから少々舞い上がっている。
そんな桜香の心情を知らない溝淵は、自分を落ち着かせるような咳払いをした。
「し、しかし、村の女性たちが言っている〝犯人〟は『河童』なんですよ。河童といえば妖怪です。はるか昔なら通用しても、現代社会に妖怪なんて……そんなのいるわけないじゃないですか」
苦笑いする溝淵に、桜香以外の〝捜査官〟たちが白い目を向ける。
「和生。案外そうとは言い切れないかもしれないぞ――」
そう言ったのは田処という老警官だった。彼は微笑み顔で、タマモの隣から溝淵へと近づいていく。
「この辺りの村にはな、昔から〝河童伝説〟がある。妖怪が犯人だとしても不思議はないと思うがな」
その冗談めいた言い方に、溝淵はため息を吐いた。
「なに言ってんだよ源さん。イルはずもない河童が犯人だなんて、報告書に書けるわけないだろ?」
「こらっ和生。勤務中は“源さん”とは呼ぶなと、いつも言っとるじゃろ」
「だったら源さんも、勤務中は“和生”って呼ぶのやめてくれよ。俺だって、いつまでも学生のままじゃないんだからさ――」
困り顔の田処は桜香たちを気にするが、溝淵はそんな彼の様子に気付かないばかりか、地の言葉使いが出てしまっている。
「だいたいさ、被害に遭った人たちにも“狐に化かされたかな?”とか言ってたけど、人を化かせるような狐がいるなら見てみたいよ――」
サッと、タマモと安那が手をあげた。“人を化かせるような狐はここにいます”と自己主張をしているのかもしれないが、田処が壁となっているため溝淵には見えていない。
「もし仮に河童なんていう妖怪が犯人だったとしてもさ、そんなのどうやって逮捕すればいいのさ。相手は、馬だって川に引き込んじゃうような怪力なんだぞ――」
スッと、住吉と山森が懐から石の手錠を取り出す。が、やはり田処が壁となっており、溝淵は気付いていない。
この手錠は、各捜査官たちが特殊な石に妖力を込めて手作りしたものらしい。持ち主以外の妖怪の妖力を封じることができるだけでなく、相手の大きさによって伸縮してくれる優れものである。
「溝淵くん。と、とりあえず、話を戻そうか」
桜香は、タマモと安那に手を下げるように、住吉と山森には手錠をしまうようにと手で合図しながら溝淵の話を遮った。
「すみません。お恥ずかしいところをお見せしまして……」
溝淵が気まずそうに頭を下げる。そんな彼に、桜香は微笑みかけた。
「さっそくだけど、現場まで案内してくれるかな。犯人の侵入と逃走経路を確認したいし、もしかしたらなにかしらの痕跡が残っているかもしれない」
桜香が提案し、溝淵の案内で河童が犯したという〝痴漢〟の現場まで行くことになった。
◇
桜香たちが捜査する事件は、被害者の証言によると河童が犯した痴漢らしい。
犯行が行われたのは村のすぐ近く。商店街から帰る途中の村人たちが狙われた。特徴的なのは、被害者は女性だけではなく男性も含まれているという事だろう。
お尻を触られた被害者たちはその場にへたり込んだ。急に立ちくらみのような目眩がしたかと思うと、次の瞬間には力が抜けてしまったらしい。虚ろな目で気配をたどれば、そこにいたのは河童だったという。
顔はよく見えなかったが、口がくちばし状で身体は緑色。はっきりと見えたのは犯人の手だけ。その指の間には、膜のような水かきがあったそうだ。なにかの質問をしてきたらしいが、気が抜けてしまっている被害者たちには何を言っているのか聞き取れなかった。
長閑な田舎の農村である。被害者の多くは結構な歳を重ねたおじいさんやおばあさんたち。気が抜けていなくても、耳が遠くてよく聞こえていなかったのかもしれない。
◇
「ここが犯行現場――」
桜香は、現場を見回すフリをしながらタマモに目を向けた。
間違いないよ。妖気の痕跡が残ってる。
そう言っているかのように、片膝をついてしゃがんでいるタマモが頷く。
現場は村に近い田んぼ道――ではあるが、長い草が生え茂り、荒れている田んぼが多い。すぐそばの茂みの向こうには小川もあり、犯人が身を隠すにはうってつけであろう。
「なんでここは水田にしないわけ?」
住吉が溝淵に訊ねた。
「ああ。そこは休耕なんですよ」
「休耕って、田んぼを休ませているの?」
風邪でなびいた髪を戻す安那。その色っぽいしぐさに、少しだけ顔を赤くした溝淵は渋い表情で頷く。
「まあ……休ませているというより、ジイさんバアさんたちだけじゃ手が回らないと言った方が正しいでしょうね。若い人なんて、ほとんどいないですから……」
「過疎化ってやつか。長閑で良い農村なんだがな、若いモンには刺激がなさすぎるってことか」
と、山森。
「ええ。山間の何もない農村ですから……自分は、好きなんですけどね」
溝淵は寂しそうな顔で頬を掻いた。
「ねえねえ。そんなことより、おじいちゃんが言ってた〝河童伝説〟ってどんな話なの?」
言いながら立ち上がったタマモに、桜香は首を傾げる。
「おじいちゃんって、田処巡査のこと?」
うん。と頷くタマモ。
田処は「もう一度、その辺を見回ってやるかな」と言って巡回に出て行ったのでこの場にはいない。なんでも村の若者がひとり、家出をしてしまっているらしい。そういえば、彼が派出所で“この辺りの村にはな、昔から〝河童伝説〟がある”と言っていたことを桜香は思い出した。
「伝説っていうか、言い伝えですね。そんな大した話じゃないですよ――」
溝淵がそれを語りだす。
・
ずっと昔。この辺りにはイタズラ好きな河童がいた。
農作業で頼りになる馬を川へ引きずり込んで溺れさせ、「助けてほしかったら、俺と相撲を取って勝ってみろ」と村人を困らせた。当然、人間が河童に勝てるはずもなく、村人は簡単に川へと投げ込まれてしまった。河童は、村人と馬が溺れる様子をお腹を抱えて笑った。そして、村人と馬を助けた河童は「俺って強いだろ」と言い残し、笑いながら去っていった。
そんな河童が好んだもう一つのイタズラが、女性のお尻を触る事であった。川で野菜を洗ったり、洗濯をしている女性たちのお尻を触っては驚かせて喜んだ。
あまりの悪さに業を煮やした村長。彼はある日、女装をして川へ行くと洗濯をするフリをして河童を待ち伏せた。そして、現れた河童がお尻を触ろうとした瞬間、隠し持っていた鉈でその腕を切り落とした。その場から逃げていった河童であったが、夜になると村長の家を訪れて来た。
「すまねえ。もう悪さはしないから、俺の腕を返してくれ」
泣きながら懇願する姿が可哀相になった村長は、二度と悪さをしないことを条件に腕を返してあげた。
許しを喜んだ河童は、次の日から毎日、村長の家に川魚をとどけるようになったという……。
・
「前半はともかく、後半は今回の事件に似てるわね」
話を聞き終えた安那が桜香に耳打ちした。
「そうですね。案外、無関係じゃないかも――」
今回の事件は男女問わずお尻を触られている。しかし、〝お尻を触る〟という共通点がある以上、無関係とは言い切れない。
「溝淵くん。その河童がよく現れていた場所ってわかるかな」
「え? ええ、だいたいの場所は……って。まさか行くつもりですか!? 結構な山の中ですよ」
桜香に言われて驚く溝淵。地元の人間がこう言うのだから、相当険しい道のりなのだろう。
「お嬢ちゃん。どうやら、山の中まで行く必要はなさそうだぞ」
渋い声に振り向けば、山森は桜香を見ながらアゴで茂みを指す。
ガサガサと音を立てて茂みが揺れた。
そこから現れたのは――
「うわあああ!? リ、リザードマンだあああッ!」
溝淵が腰を抜かす。だがそれも無理はないだろう。
現れた人型は全身が緑色。爬虫類のような顔をしたソイツの目はギョロっとしており、口はくちばし状になっている。そして、鋭い爪のある指の間には水かきがあった。
その姿は、妖怪の河童に似ているのだが――。
「あれ? 河童じゃないよ。お皿がないじゃん」
タマモに指差されたソイツの目が妖しく光る。
「おまえ……ガキの姿してるけど妖怪だな。お前たちも……」
住吉、安那、山森にも視線を送り、楽しそうに喉を鳴らした。
「クックック……。ただの妖怪風情が、俺様に何の用だ?」
茂みから完全に出たソイツを見た溝淵が――
「あわわ…… あ」
白目をむいて失神する。
「何をしにきたのか知らないが、ここは俺様の縄張りだ。痛い目にあいたくなければ……さっさと帰れ!」
胸に突き刺さるような怒号。
「わ 私たちは、警視庁特殊事件広域捜査室の者です! あなたにお聞きしたいことがありますので、任意同行願います!」
足がすくんだ桜香だったが、警察手帳を広げて見せると、自分に気合いを入れるかのように声を張り上げた。
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