ファイル8 『前鬼・後鬼』の怪 【⑪】
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<もしあなたが封印を破りそうになった時には、ワタシがその余波を受けるためです>
「お前が俺のチカラを受けるだと?」
<はい。ですがご心配なく、ワタシの魂をもって余波を受けるので崎守に影響はありません>
「しかし、いくら前鬼と共に鬼神といわれたお前でも無事では済まないぞ」
<ワタシのことを気にする場合ではないのではないですか?>
後鬼の声に少しばかりの怒りが混ざる。
<今後もこの世にあの方が現れるのを阻止していくのならば、まずあなたは今の自分のチカラをどこまで発揮することが出来るのか、その限界点を知る必要があります。崎守の記憶から、今までのあなたの戦いを見せてもらいました。これまでのあなたは、封印が破れるのを恐れるあまり今の自分を保ったまま発揮できるチカラの限界点を探ろうともしてきませんでした。もしもの時、今のあなたではあの方に対してあまりにも無力――。今すぐ決断しなさい。自らと戦わずに滅ぶか、戦って望みをつなげるか>
静かだが語気は強い。けれども、その瞳には哀愁がある。ジンの背負っているものの大きさを理解しているかのように。
「わかった、後鬼の言う通りだ。やれることはやっておかないとな。後鬼、もしもの時は頼む」
ジンは瞳を閉じ、自らとの対峙を決断すると神気を高めだす。
黄金色に輝きだした身体。封印を解かない限界点を見極めようと、ジンは自らの内側に集中する。
後鬼はジンの背中に額をあててもたれると、右手の刀印を顎にあて目を閉じて集中する。そして時折ジンの神気に赤黒いものが混ざるたびに顔を苦痛に歪めた。
左手に持つ瓢箪も同調しているのだろう。後鬼が顔を歪めるたびに震え、細かなヒビが入っていく。
<これが神のチカラ。なんと底知れぬ……。ふふ、前鬼よ、この者たちに希望ある未来を託したいというあなたの想い、わかる気がします>
後鬼は苦痛のなかで微かに笑う。
夫婦の阿吽の呼吸に言葉はいらない。前鬼の考えはお見通しだった。
あの方がこの世に出てくるのを防ぐため、役行者と共に魑魅魍魎と戦い、鬼神と呼ばれた前鬼と後鬼。しかしこの二鬼も初めからそうしていたわけではなかった。
遠い昔、前鬼と後鬼は暴れ鬼であった。生駒山地に居を構え、近隣の村々を襲っては物を奪い、殺戮を繰り返していた。闇に生まれ闇に生き、そして闇に還って行く――。それが鬼の運命であり、そういうものだと思っていた。
だがその話を聞きつけてきた役行者に出会ったことでその運命が変わる。
役行者と対峙した前鬼と後鬼は、彼から魑魅魍魎と戦うのに協力してほしいと頼まれた。
鬼が人間に協力するなどありえないと一笑に付した前鬼と後鬼だったが、次の役行者の言葉で考えが変わる。
「この世の負気が高まり今以上に魑魅魍魎が溢れれば、お前たちの子供までも犠牲になってしまうのだぞ」
類稀なる呪術の才能を持つ役行者は、あの方が虎視眈々とこの世に出てくる機会を窺っていることに気付いたのだという。
もしそれが現実になれば、あの方の強大な怒り、怨み、悲しみによってこの世の全てを――いや、この世そのものを壊してしまうに違いない。そうなれば人間を含む動物だけでなく、植物や妖怪までも存在することは出来なくなるのだと。
前鬼と後鬼には子供たちがいる。しかし子供たちは鬼としてのチカラが弱く、前鬼や後鬼の足下にも及ばない。見た目の恐ろしさで人間から迫害された経験から、人間たちが滅ぶことは望ましいとは思うものの、子供たちやこの世が滅ぶことは望まない。
鬼が子を授かるなど稀なこと。親心として、子供たちの未来を護るために役行者に協力することにした。
とはいうものの、この世はすでに人間が主となって文明文化を築いている。妖怪であっても人間と関わらずに生きていくことは出来ない。役行者にそう言われた前鬼と後鬼は、協力の条件として子供たちの教育を役行者に願い出る。
自分たちには出来そうもないが、この世を生きていく子供たちが人間と良い関係を築いていけるのならば好ましいと思っていたのだった。
役行者は快く了承する。鬼の子たちに水を汲ませたり薪を割らせたり、言うことを聞かなければ呪力によって罰を与えたりした。一見すると酷い行いにも見えたことだろう。しかし、鬼である自分たちを理解してほしいのならば人間のことも理解しなければならないというのが役行者の教え。
鬼と人間では習慣や考え方が全く異なるのだ。
それがわかっている前鬼と後鬼は役行者に何も言わなかった。親が子供にしてあげられることは、子供に親がいなくなっても生きていけるすべを学ばせること――まさに心を鬼にして、厳しくしつけられて泣く子供たちを見守っていたのである。
そのかいあってか、子供たちは一部の人間たちと仲良くなることが出来た。前鬼や後鬼が役行者と魑魅魍魎と戦っていたこともあり、一部の人間は前鬼や後鬼たちを好意的に理解しようとし、感謝までする者たちがいたのだ。
それに伴い、前鬼と後鬼の人間に対する感情が変化していった。徐々に憎むべき存在から護りたい存在へと変わったのである。
人間は弱くて愚かだ。心に闇を宿し、時にはその闇の思念が妖怪をも生みだす忌むべき存在。だが一方では強くて慈悲に溢れ、神々も驚くほどの光を心に宿している。その強い闇と光りが混在し、バランスが取れているようで取れていない不完全な生き物――。そんな人間を、前鬼と後鬼はいつしか愛おしいとさえ思っていた。
前鬼と後鬼の子供たちはすでにこの世にはないが、その子孫たちは人間に混ざって今の世を生きている。だからこそ、あの方にこの世を滅ぼさせるわけにはいかない。
しかし後鬼は役行者と共に死んだ。仮に蘆屋道満が桜香の身体を使ってそれなりの復活をすることが出来たとしても、もしあの方がこの世に出てきてしまえば一瞬で滅ぼされてしまうだろう。だからこそ、前鬼はジンが神力をコントロール出来るようになるための贄を買って出た。そして言葉はなくとも、後鬼は前鬼の想いを汲み取った。
死んだ者の完全復活は神ですら成し得なかった禁事。後鬼は前鬼がそんな自然の摂理に反したことを、願ってはいても本気で望んでいるとは思えなかった。もし前鬼がその行動を取るのならば理由は二つ。
一つは後鬼の魂を呼び出し、もし役行者に囚われているままならばその呪縛から解き放つこと。
二つ目は、ジンたちがあの方からこの世を護ろうとする者達なのかを見極めること。
そして、前鬼はジンたちに未来を託そうとしている。
「後鬼、不安定で少々きついが、このあたりが限界点のようだ」
ジンの言葉に後鬼は目を開ける。
<なんと美しい。これが神が放つ神気なのですね>
まばゆいばかりの黄金色。それは力強くも愛しみのある温かな光だった。
しかしジンは苦しそうに顔を歪め、呼吸も荒い。後鬼はやすらぎすら感じる状況なのだがジンには違うのだろう。
それは己との戦い。つま先で崖っぷちに立って強風に耐えているような状況なのかもしれない。
「このまま一気に決める。後鬼、なんとか俺を抑えつけてくれ」
<わかっています、抑止の方はお任せを。天之尾羽張、どうかこの世を、前鬼を救ってあげてください>
後鬼はジンの腰に手を回してしがみつく。
「保証はできないからな!」
ジンは一瞬苦笑いを浮かべると、歯を食いしばって役行者へと飛んだ。
役行者は迎撃態勢をとる。
<紫焔結界ッ!>
自らの前に、印を結んで出現させたのは網状の結界。
それは前鬼の術である紫焔剛腕と呪術による結界を混ぜ合わせたものだった。
<いくら神でも、中途半端なチカラで易々と壊せる結界ではないッ! 手間取る隙にお前の首を刎ねてやるわッ!>
役行者は自信あり気に叫ぶ。
黄金色の軌跡を描いて向かってくるジンに、役行者は紫焔結界の強度を限界まで上げた。
これは呪術と神気との純粋な力勝負。ジンも神だが、役行者が体得した呪術の源である孔雀明王も神である。しかも、役行者はさらに前鬼という鬼神のチカラも上乗せしている。
しかもジンは本来のチカラを発揮できないとなれば、負ける要素など見当たらない。
<さあ来い天之尾羽張! 儂は今、神を超える!>
役行者は右手に斧を構えた。
結界にぶつかって動きが止まったところでジンの首を刎ねようというのだ。
ジンが紫焔結界にぶつかった。
<今だッ!>
激しいスパークを見て役行者が斧を振り上げる。
だが、その斧が振り下ろされる事はなかった――。
紫焔結界はジンが放つ神気により一瞬で粉々になり、飛び出してきた刃が役行者の胸を貫いたのだ。
<ばかなッ!?>
背中にも衝撃を感じた役行者。胸にあいた大穴を見て、ジンが自分を貫通していったのだと気付く。
そして燃えるような熱さを感じた。いや、現に役行者は燃えている。ジンの神気により、黄金色の炎に包まれていた。
<嫌だ……。また死ぬのは嫌じゃ! もう、もう死にたくはないッ! 死ぬのは嫌
だ! 死にたく、死にたくな――>
それが役行者の――後鬼と前鬼の魂を捕らえ、生にしがみついた役行者の最後の言葉となった。
後鬼は目を閉じ、グッと口を閉める。
<役行者よ。一部とはいえ邪魂となったのは残念ですが、子供たちを導いてくれたことは、本当に感謝しています>
口には出さなかったが、後鬼は心で追悼していた――。
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