ファイル8 『前鬼・後鬼』の怪 【⑨】
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ジンと後鬼が役行者との戦いに入った時、タマモは土蜘蛛の糸によりついに身動きが出来なくなっていた。
手足や胴体にからみつく糸。土蜘蛛がその気になれば、いつでもタマモの四肢はバラバラにされてしまうだろう。
それがわかっているからか、勝利を確信している土蜘蛛がタマモに近づき不敵に笑う。
<すばしっこい子狐だったが、こうなれば手も足もでまい。白面九尾、その妖力を喰らいつくしてやるぞ>
高々と笑う土蜘蛛に、タマモも高々とした笑いを返した。
<九尾よ、気でも狂ったか>
勝ち誇った顔の土蜘蛛に、笑いを止めたタマモはにこりと微笑む。
「おバカさんだな~。自分で言ったくせに気が付かないの?」
<あ? お前何を言ってやがんだ?>
土蜘蛛が眉をひそめた時、タマモから一気に霧が噴き出した。
「手足は出せなくても、尻尾は出せるんだもんね~」
霧に隠れたタマモの声に、土蜘蛛は驚きの表情を見せる。
<こ、これは!? ええぃ! 今すぐ四肢をバラバラにしてやるわッ!>
土蜘蛛が糸に力を込めた。しかし、霧の中から響いたのは張りつめた糸の切れる音。
「キミねぇ、本気でわたしに勝てると思ってたの?」
霧の中から出て来たタマモが、今度は霧を操って土蜘蛛を襲う。
「九尾の尾はそれぞれに違う能力を秘めている――。人間をいじめて喜んでいただけの小者だから、そんなことは知らなかったかな?」
タマモが不敵に微笑んだ。
<これは毒霧!? くッ、おのれぇぇぇ!>
咽る土蜘蛛はたまらず後ろへ飛び退く。しかし霧から飛び出た土蜘蛛を待っていたのは、大槌を野球のバットのように構えたタマモ。
「さ~てさて、どこまで飛んでいくのかな~」
先回りしていたタマモがペロリと舌を出して大槌を振ると、土蜘蛛の巨体が弾き飛ばされていく。
そしてその先には住吉の後姿が――。
「ありゃりゃ、こりゃいかん。スンく~ん、あっぶないよ~」
「ん?」
もう何匹目かもわからないほどの一角鼠を塵にした時、住吉は緊張感のないタマモの声に振り向く。
そこには視界いっぱいに広がる土蜘蛛の巨体。
「どわっひゃぁぁぁッ!」
慌ててその場に伏せる住吉。その髪をかすめて飛んで行った土蜘蛛は、住吉へと迫っていた大ムカデ三匹を巻き込みながら転がっていく。
「……。スンくん、こ、これを狙っていたのだよ。あぶなかったね!」
「うそつけっ! ありゃりゃって声も聞こえたわけ! こりゃいかんとも言ったよな!」
固い笑顔で親指を立てるタマモに住吉が声を張り上げた。
「だ、だから、スンくんがやっつけるはずの大ムカデを横取りしちゃうことになるから、ありゃりゃ、こりゃいかんって……」
「言い訳が苦しすぎるっしょ」
誤魔化しきれないタマモに、住吉は針の剣で体当たりしてくる一角鼠を塵にしながら溜息を吐いた。その様子に山森は――
「あいつら見てると飽きねえな」
扇での烈風で数匹の一角鼠を霧散させて微笑んだ。
◇
一方で、安那と道満の戦いは新たな局面を迎えていた。
道満は三体の黒鬼を操っていたが、それでは安那の素早い動きを捉えきれず、今は九体もの黒鬼を操っていた。
<フハハハハ、どうした妖狐よ、防戦一方ではないか>
道満が笑うなか、安那は振り下ろされた黒鬼の金棒をなんとか避ける。
しかしそれを狙っていたかのように、別の黒鬼が安那を蹴り上げた。さらに別の黒鬼が宙を舞った安那に金棒を振り上げる。
だが安那はそんな黒鬼の顔に狐火を放つと、その煙幕に紛れて黒鬼との間を開けた。しかし周りには別の黒鬼が六体。
「くっ、道満にこれほどの黒鬼たちを操るなんて……」
安那は驚く。千年前の道満とは比べ物にならないくらい呪術力が上がっているのだ。
その黒鬼たちが向かってくると、安那は印を結んで指に挟んでいる自らの髪を式神と化す。
「天空!」
安那に応じて現れたのは土気色の顔をした武人、十二神将の天空。
霧や黄砂を呼ぶ土神である。
天空は砂塵の嵐を巻き起こし、向かってくる黒鬼たちを吹き飛ばしたのだが、その砂塵を突破してきた一体の黒鬼。
安那は次の式神を出す。
「謄蛇!」
髪が変化したのは炎を纏った羽の生えた蛇。
謄蛇は迎え撃つ黒鬼の金棒をくぐり抜けるとその体に巻きつき、黒鬼を焼き尽くす。
声にならない絶叫を上げ塵となる黒鬼から、謄蛇は残る八体の黒鬼たちへと飛翔した。これに天空も続く。
<これが十二神将の力か……。ならばッ!>
道満の顔が険しくなり、刀印を切りながら呪言を唱えた。
すると八体の黒鬼たちが道満の前に集合し、一斉に口から黒煙を吐く。そしてその姿が見えなくなった。
「呪力が強くなっている!? 道満、一体何を……」
呪力が強大していることを感じ取った安那は天空と謄蛇を黒煙のなかへと突っ込ませた。
肌がピリピリする呪力には嫌な予感しかしない安那。何が起きているのかはわからないが、黒鬼たちを一気に殲滅させるつもりだ。
激しく衝突する音が響く。
黒煙はまだ晴れないが、天空と謄蛇は黒鬼たちと激闘を繰り広げているようである。
しかしこれは安那にとっては予想外のことだった。
天空と謄蛇は十二神将。本来ならば黒鬼たちでは太刀打ちできないはずなのだ。
安那が式神として十二神将を出す時、それは十二神将そのものが出てくるわけではなく、自らの髪を媒体に十二神将のチカラの一部を借り受けて具現化させる。
その式神の能力は呪術者の力量に左右されるのだが、妖力を基にしてはいるが、安那の呪術者としての腕は一級品である。道満の結界内で力を削がれているとはいえ、十二神将ならば黒鬼たちを瞬く間に殲滅してもおかしくはない。
しかし黒煙のなかで天空と謄蛇は黒鬼たちと互角――いや、むしろ苦戦しているようだと安那は感じていた。
考えられる原因はただ一つ。黒鬼たちが天空と謄蛇を上回っているのだ。
「天空と謄蛇がやられたというのですか!?」
式神の反応が消えたことに安那は驚きの声をあげた。
そして黒煙が晴れていくなか、安那が目にしたのは巨大な鬼。それは――
<晴明……今度は……今度は負けはせぬぞ……>
八体の黒鬼たちと融合し、その身を鬼へと変えた道満だった。
「あれが道満!? 人の姿を捨て、私と晴明の違いもわからなくなるほどの狂気を……なぜあなたはそこまでして……」
声を聞かなければ、安那はそれが道満だとは気付かなかったかもしれない。
肌の色は黒から茶に変わり、頭の角は二本から九本に増えている。
かろうじてその目は道満を残してはいるが、眼球は黄色に染まり、獣の眼差しで安那を睨みつけていた。
<晴明……セイメェェェェッ!>
鬼と化した道満が咆哮を上げ、安那へと突進してきた。
巨体にもかかわらずその速さは黒鬼をはるかに超えている。
安那は横に飛んで躱そうとしたが、それでも腕を突き出した道満の爪が安那の肩をかすめる。たったそれだけで安那は回転しながら弾き飛ばされてしまった。
<コレデ終わりだセイメイッ!>
うつ伏せに倒れる安那に道満が大きな拳を振り上げる。
「うっ……ぐッ! せめて、もう一度式神を出せれば……」
安那はまだ起き上がれない。
そして空を切り裂く音と共に迫ってくる拳が眼前に広がった。
「ごめんなさい桜香さん、私はここまでです……」
安那は堅く目を閉じた。
桜香を守れず、救えず。無念しかない。しかし一矢報おうにもマヒした体はまだ動いてくれない。
安那にはどうすることも出来なかった。――だが、そんな安那に衝撃と同時に宙に浮く感覚が走った。
「おいおい、諦めるのはちぃ~とばかし早いんじゃないか?」
熟年の男性の声に目を開けると、安那は烏天狗の姿となっている山森に抱えられて飛んでいることを知る。
間一髪、安那は山森に救出されていたのだ。
「安那、戦い方が中途半端だ。お前さんと道満の因縁を知らないわけじゃないし、お前さんにも何か考えがあっての戦い方なんだろうが……。ああなっちまったらもう道満ですらない。ひと思いに滅してやりな。俺は、それがかつて晴明と友だった道満への慈悲だと思うがな」
「山森さん……」
「あれを呼び出すんだろ? 時間稼ぎくらいはしてやるからよ」
何とも言えない顔をする安那に、山森はぎこちなく片目をつむった。
それに対し、安那はくっと唇を閉めて頷く。
「すみません。お願いします」
意を決した表情の安那に山森は微笑む。そして――
「俺には一撃でアイツを葬れる力技はないからな。あとは頼んだぜ」
安那から手を離すと同時に、突風に乗せて妖気の礫を放ち、下で待ち受けている道満を牽制した。
そのかいあり、安那は無事に着地することが出来た。
「道満、晴明に対する怒りや憎しみ……それらを全て焼き払ってあげましょう」
安那は山森に気をとられている道満を見据えて印を結ぶ。そして呪言を唱えながら髪を挟んだ指で五芒星を描く。
天空や謄蛇を出した時とは比べ物にならない呪術の高まりに道満が気付いた。
<セイメェェェッ!>
猪突猛進する道満。
その動きは速く、あっという間に安那の傍まで接近した。だがその拳が届く前に安那の術が完成する。
「道満の邪を焼き払え――朱雀ッ!」
安那の髪が姿を変え、五芒星から炎を纏った鳥――朱雀が飛び出した。
姿は鳳凰に似ている朱雀は、いくつもの音色が重なった高い声を上げて道満に向かう。
迎え撃とうとした道満だが、朱雀に触れた途端その腕が灰になり、瞬く間にその身も焼き払われた。
<せ、せい……晴明……>
灰となりその身を散らせながら、道満は安那の姿に晴明を見た。
遠い昔、蘆屋道満にとって安倍晴明は憧れであった。
晴明は半人半妖でありながらも、それを気にすることなく人間たちと上手に付き合っていた。それに比べ道満は、人間でもなく妖怪とも言い切れない自分の存在は何なのかと気になって仕方がなかった。
蘆屋道満は、当時の朝廷によって苦しんでいた民たちの救われたいという想いが塊となり、それに自我が芽生えて形を成した存在である。
だからこそ道満は人間として生き、民たちのために出来るだけのことをした。そうしなければ、自分という存在が無くなってしまうのではないかと怖かったのだ。
そして晴明も自分の存在を人間と位置づけたからこそ民のために尽力しているのだと――道満はそう思っていた。
道満にはそんな晴明の姿が眩しかった。自分の存在が消えてしまうのではないかという理由で民に尽くす自分に対し、晴明は民のために民に尽くしている。行動は同じでも、道満は民に尽くすのは自分のためであるという負い目を抱えていた。
道満は晴明のようになりたかった。なのにある日、晴明は朝廷の側へと付いた。民を苦しめる朝廷の下僕となり、権力を手に入れたのだ。これに道満は憤慨した。理由を訊いても渋い顔をするだけの晴明に、道満は怒り狂い憎しみを抱いた。憧れ信頼していた友に裏切られたと感じた道満。胸の内からわき上がってくる黒い暴走を止めるつもりもなく、晴明に挑み、敗れても策を弄してその命を奪った。
「蘆屋道満……」
安那の声に、道満は灰になりながら焦点を合わせる。
もう自分には何をすることも出来ない。完敗である。
安那は自分に息子を殺された母。最後に恨み言の一つでも言いたいのだろうと、道満はその言葉を待った。
そして安那は静かに口を開く――
「晴明は口下手でしたので、あなたに何を言ったのかは知りません。でも、あなたの晴明が裏切ったのだという誤解は解いておきたいのです――」
今さら何を――。そう思う道満だが言葉を返すことが出来ない。
「あの時、晴明が朝廷についた理由は、大陸へ留学するためだったのです。そこで新しい知識を得て、戻ってきた時にはその知識で朝廷を内部から変えていこうと思っていたのです。国とは民があってこそ。その民を苦しめるような政では国として成り立たなくなってしまう――逆に、民を思いやる政をすれば民も協力し、この国の礎が強くなる――時の権力者たちにそう言って納得させられるだけの知識が欲しかったのですよ。お腹をすかせた者に食べ物を与えるような対処も必要ですが、民たちを苦しめている朝廷が変わらない限り何も解決することはない……」
それは道満が初めて知る晴明の胸の内だった。
朝廷についた晴明を問いただした時「今の私では力不足なのだよ……」と言った晴明の言葉にそんな意味があったとは。
「晴明が大陸へ留学する前、妻である梨花にこんな話をしていました。――もし道満がいなければ、自分は民が心配で留学しようという考えすら浮かばなかったであろう。道満がいてくれるから、信じられる友がいるからこそ自分は安心して留学することが出来るのだ――と」
晴明の想いを知った道満は心を打たれた。
権力欲しさに民や自分を裏切ったわけではなかった。晴明はずっと、友として認めてくれていた。呪詛の件があって討伐を命じられても自分の命を奪わず、同じ思いを持つ仲間として信頼してくれていた。
なのに自分は……。
<ふ、ふははは……。愚かなり――晴明よ、私はなんと愚かだったのだ……>
道満は声にならない言葉を吐いて涙を流した。
朱雀に焼かれた道満が灰となって消えていく。
安那には今の言葉が道満に届いていたのかを知る術はない。
蘆屋道満は晴明を殺した憎い相手であるのは間違いない。しかし同時に、晴明にとっては――いや、両者にとって心からの友であった事も間違いない。
心境は複雑だが、安那は僅かに道満への感謝も込めて、灰が消えゆくのを見送っていた。
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