ファイル8 『前鬼・後鬼』の怪 【⑧】
□◆□◆
8
★
向かってくる水柱に対し、前鬼は左手をかざした。
その手から放たれたのはまたもや孔雀の羽吹雪。その羽吹雪は水柱を突き破るとそのままジンや後鬼へと向かって行く。
しかしジンは刃で羽を切り落とし、後鬼も見事な身のこなしで羽を全て躱す。
「おいおい。後鬼、それは崎守の身体だということを忘れるな。今のは人間が耐えられる動きじゃないぞ」
<崎守なら、私が憑依している限り心配ありません。私たちが役行者と前鬼を滅した後に崎守の身体から離れる時にはその影響もあるでしょうが、その時には崎守に治癒を施していきますから――>
呆れ顔をするジンに後鬼は微笑む。
<しかしそれには、前鬼が腰から下げている瓢箪が必要です。天之尾羽張、間違ってもあの瓢箪を壊さぬよう気を配ってください>
真顔になった後鬼の言葉にジンは頭を掻く。
「――まったく、余裕がないってのに面倒なことを……」
渋々了承するジンだが、後鬼はジンが本気で桜香を心配していることを見抜いていた。表情には出さないものの、後鬼はそのことに驚いてもいる。
神々に属する天之尾羽張が、たかが人間を心配し、先ほどは加勢の申し出に対して“協力してくれ”と頼んできた。天之尾羽張から見れば、妖怪や人間など取るに足らない存在でしかないはず。にもかかわらず、人間も妖怪も自分と同列であるかのごとく敬意を払っているようにしか見えない。
なにが天之尾羽張をそうさせたのか――。後鬼は、もし許されるのならばそれを訊いてみたいと思っている。
<ふん。鬼の身体というのも悪くはない。妖力がこれほど呪術の発動時間を短縮するとはな>
向かってくるジンや後鬼を気にすることなく、鼻を鳴らした前鬼は笑みを浮かべた。
しかし、前鬼の身体を操っているのは役行者である。
満足気な役行者に、身体を乗っ取られた前鬼が内から語りかける。
<かつては魑魅魍魎と戦いながらも薬草を探し、服用薬を民衆に与え伝えていた男が、醜く力に酔いしれておる……。その姿、あさましいな役行者よ。いや、もはや役行者とも呼べぬ、生にしがみつくただの邪魂か>
<鬼ふぜいが儂を邪魂というか>
役行者の憎々しい口調。それに対し前鬼は、
<貴様も人間ふぜいであろうが>
と笑った。
<ぬかせ前鬼! 儂は孔雀明王の呪を体得した呪術師、役行者である! そして、儂は今から神をも超える! あの天之尾羽張を倒してな!>
役行者は気合の息吹を放ち、ジンと後鬼へ駆け出した。
その内で、前鬼は怒りで奥歯を噛みしめる。
<孔雀明王の呪を体得……それは我妻、後鬼の魂を奪ったからこそ成しえたことであろうが……>
前鬼は遠い昔、まだ後鬼も役行者も生きていた頃を思い出していた――。
役行者は7世紀後半の山岳修行者であった。陰陽道や密教を日本固有の山岳宗教に取り入れた修験道の開祖でもある。
後に神格化され役行者と呼ばれるようになったが、前は役小角と呼ばれていた。
呪術に秀でた才能を持っていた小角。各地を転々としながら、前鬼や後鬼と共に魑魅魍魎と戦っていた。しかしある日、弟子にしていた若者が小角の能力を妬み、『師は呪術を悪用して人々を惑わしている』と朝廷に訴えた。それは事実無根であったが、母親を人質にとられてしまった小角は自ら出頭し、伊豆の流刑地に赴くことになる。
そして、その頃から小角の心が荒れだしていく――。
信じていた弟子に裏切られ、母の安否もわからない。そしてこの流刑の地でも魑魅魍魎に襲われる日々。小角に心を休める間などなかった。
小角は自らを呪う。己が弱いからいけないのだと、もっと強くあれば……。
そして小角は禁呪に手を出した。朱雀明王の呪術を得るために、自分と後鬼の魂を同化させたのである。脆弱な人間の魂では朱雀明王の呪を受けきることは出来ない。そこで、自分と鬼である後鬼の魂と同化させることで朱雀明王の呪を受けるだけの容量を得たのである。
これにより小角は空をも飛べるようになり、さらなる強さを求めて毎夜冨士山まで飛び、修業を積んでいた。
しかし、前鬼にとってそれは妻である後鬼を人質にとられたのと同じだった。魂が同化したということは、小角が死ねば同時に後鬼も死んでしまうということである。この日から、小角と前鬼後鬼の関係が一変した。
それまでは『あの方』がこの世に出てくるのを阻止するための、対等な協力関係であった。だが、前鬼は『あの方』のことよりも小角を死なせないために魑魅魍魎と戦うことになる。小角の言うことに逆らえない前鬼後鬼を、人々はいつしか小角の使役鬼を呼ぶようになった。
前鬼は妻である後鬼を心から愛していた。だからこそ、小角の死と同時に後鬼が塵となって消えてしまった時には悔しさで胸が張り裂けそうだった。
人間が死ねば黄泉の国に逝くという。だが妖怪が滅する時、その魂は数百年もかけ、徐々に混沌とした何処かへと消えていくのだという。
その妖怪の妖力の強さや想い、または執念によってはさらに数百年かかることもあるらしいのだが、後鬼の魂がいつまでこの世に留まっていられるかは前鬼にも知りようがなかった。
前鬼に後鬼を復活させるだけの業はない。しかしいつか、後鬼を復活させる機会が巡ってくるかもしれない。
危惧することはあるが、その希望だけを胸にして前鬼は人間の魂を集めるようになる。それは、どこかの呪術者が後鬼の魂を召集した時、魂の足りない部分を補うためである。
そうして長い長い千年以上の年月を経た現代でその機会が巡ってきた。
前鬼にとっては小娘にしか見えない、元は人間だった女が後鬼の復活に手を貸すと申し出てきたのだ。
召喚術に秀でた能力を持つその女は、妖怪を復活させるのならばこの者が良いでしょう……と、蘆屋道満を復活させた。
女が前鬼に求めた見返りは『あの方』をこの世に招くことに協力する事――。
それは千年以上前、前鬼が行っていた事と真逆の道であった。そして『あの方』が出てきた時、この世がどうなってしまうのかを前鬼は知っている。
それでも前鬼は、後鬼が復活した暁には女に手を貸すと約束する。
前鬼はもう一度、ひと目だけでも後鬼に会いたかった。そして、自分が危惧していることになっているのならば、後鬼を救いたかったのだ。
そして道満が呪術で後鬼の魂を集めた時、前鬼は後鬼の魂がいまだ役行者に囚われていることを知る。
それは、その昔民衆のために服用薬を調合していた役行者ではなく、怒りと絶望から強さのみを追い求めた役行者の魂の一部ではあるのだが、それでも朱雀明王の呪術を得た役行者であることには変わりなかった。
前鬼に『あの方』をこの世に出す協力をするつもりはない。
それでも召喚術を操る女の話に乗った理由は二つある。
一つは、死してもなお後鬼の魂が役行者に囚われているのなら、愛する妻の魂を救い出す。これについては役行者の魂を自分に移すことに成功した。欲を言えば、後鬼から引き離した役行者の魂を滅したかったのだが、朱雀明王の呪術力の前にはこれが精一杯であった。
二つ目は、自分が敵対する妖怪たちのなかに天之尾羽張がいることを知ったからである。
神をも斬り殺した天之尾羽張ならば、自分もろとも朱雀明王の呪をも断ち切れると考えたのだ。
前鬼は向かってくるジンを見る。
意志の強い、良い眼をしている。
<天之尾羽張よ。あの方が出てくることになればこの世は死者や魑魅魍魎どもであふれることになる。そうならぬ為にも、見事この前鬼を討ち取ってみせよ>
ジンが自ら天之尾羽張としてのチカラを封印したことは知っている。
それでもジンは、今はあの方に対抗できるただ一人の存在――。
この戦いは今のジンのチカラを効率よく発揮させる為の良い試練となるに違いない。そして――
<この戦いでお前が負けるような事になるのであればそれまでのことよ……>
役行者に操られているとはいえ、前鬼に手加減をするつもりは微塵もなかった。
□◆□◆




