ファイル8 『前鬼・後鬼』の怪 【⑦】
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<オ゛ォォォォぉぉぉ……>
その苦しむ呻き声は前鬼のもの。
前鬼は宙で体を震わせ、必死で何かに耐えている。
そして呻きの声を吐くたびに、その赤い目が漆黒の闇へと濁っていった。
「な、なにが起きているの……?」
木の枝に縛られ、自由が利かない桜香もその変化を見ていた。
道満の呪術により後鬼の魂が復活した。しかしその魂には役行者の魂までもが融合していた。
そして前鬼は後鬼から役行者の魂を吸いだし、今こうして苦しんでいる。
予想だにしていない展開に思考が追いついていかない。
後鬼が桜香へと振り向く。
<人間よ。どうか一時、あなたの身体を貸してはいただけませんか?>
「……え? 身体を……貸す?」
当然の頼みごとに桜香は面食らう。
<前鬼は今、吸い込んだ役行者の魂に支配されぬよう抵抗しています。しかし千年前、前鬼は役行者の全ての命に従うという呪術的な契約をしているのでそう長くは抵抗できないのです>
「その事と、私の身体を貸すことにどんな関係があるんですか?」
<今の私は魂だけの存在なのでなんのチカラもありません。前鬼を救うための呪術を放つための身体が必要なのです。例えるなら弓矢。今の私は矢ではありますが、身体がないので放つことは出来ません。だから……>
「私の身体を弓として呪術を放つということですね」
<はい。あなたを危険な目に遭わせてしまうことになりますが、今はこれしか方法がありません。どうか……どうかお願いします>
「そんなこと、急に言われても……」
迷う桜香。
必死に頼む後鬼に同情はする。しかし、いま会ったばかりの後鬼を信用できないし身体を貸すという未知の体験への恐怖がある。それでも――
「――わかりました。後鬼さん、あなたに協力します」
ふうっと息を吐き、桜香はそう答えた。
<人間よ……感謝します>
後鬼は深々と桜香に頭を下げた。
◇
桜香が後鬼と会話をしている頃、ジンは何もしていないわけではなかった。
「はッ!」
飛び上がったジンは前鬼へと刃を振ろうとするが、前鬼は孔雀の羽を放ってジンを迎え撃つ。
羽吹雪ともいえる数多の羽。呪術と妖力によって形作られたそれを、ジンは刀身の右腕でひと薙ぎする。しかし、斬られた羽は渦を巻いてジンを包み込んだ。
「くッ、やってくれるッ!」
渦中のジンは身を縮めて防御姿勢をとると、次の瞬間には気合いの息吹で羽吹雪を吹き飛ばしていた。
神気解放というような神々しい気に羽吹雪は霧散する。
だがその一瞬の溜めによって生まれた僅かな時間で、前鬼はジンとの間合いを詰めていた。
紫炎剛腕の拳を繰り出す前鬼。それでもジンは紙一重で躱し、前鬼の首へ刃を振るう。
後ろへ引こうとも、それは避けられるタイミングではない――はずだった。
「なんだと!?」
ジンの驚愕の声と共に前鬼の姿が陽炎のように消える。
そして刃が空振りすると同時に再び姿を現わし、今度こそジンを殴り飛ばしていた。
かろうじて左腕でガードしたものの、ジンは体勢を大きく崩されたまま着地するしかなかった。そして、その隙を見逃してくれる前鬼ではない。
前鬼は斧を出現させて態勢整わないジンへと振りかぶる。
ジンはなんとかその斧を刃で受け止めたものの、その威圧を押さえきれず肩に斧が喰い込んだ。
「ぐッ!」
顔をしかめるジン。
斧を押し返そうとするのだが、体勢悪く力が入らないのか、斧は徐々に右肩へと入り込んでくる。
このままでは肩から切断されるところだが、そうなる前に水の柱が前鬼を押し流した。
「今のはなんだ?」
ジンが水柱の元をたどると、そこには桜香の姿がある。
「川霧さん、大丈夫ですか!?」
桜香はそう言ったつもりだったのだが、自分の口から出た言葉は違っていた。
<天之尾羽張、しっかりしなさい>
その声は後鬼のものである。
桜香の身体を借りた後鬼はジンのもとまで行き、肩に手をあてて治療を施す。
「崎守――いや、後鬼か」
傷口が塞がったジンが立ち上がると、後鬼はうっすらと微笑む。
<いかにも。私は後鬼、今はこの崎守という娘の身体を借りています>
「身体を借りているだと?」
ジンの目が僅かに見開かれる。
人間が妖怪に身体を貸す。そのリスクを知っているのだ。
<その様子だと、時間は僅かしかないと知っているようですね――>
後鬼が真顔になった。
<今の貴方は前鬼よりも弱い。私の加勢が必要なはずです。状況をみれば、これが現世に『あの方』が出てくるのを阻止することに繋がるでしょうし、もし間に合うのであれば前鬼を救うことにもなるでしょう>
「ふん。いらん世話だが……」
桜香の左手が震えていることに気付いていたジンは舌を打つ。
「仕方がない。協力してくれ」
そう言ったジンは前鬼へと向く。
しかし、この言い方に後鬼は驚きの表情を見せた。
<協力――してくれ……ですか? 神族である貴方が、鬼である私に?>
「何か言ったか?」
<いえ、加勢の申し出を受けていただき感謝します>
後鬼も前鬼へと向き、二人は同時に駆けだした。
◇
桜香は歯を食いしばり、なんとも言い難い息苦しさに耐えていた。
後鬼に身体を貸してからというもの、道満に拘束されていた時以上の苦しさが全身を蝕んでいる。
「後鬼さん、この苦しさってなんなんですか?」
桜香は言葉を切りながら訊ねる。
しかしそれは口に出るわけではなく、後鬼だけに聞こえる心の声のようなものであった。
<崎守よ。説明する時間がありませんでしたが、今あなたの魂は私に喰われかけているのです>
起き上がった前鬼へと向かう後鬼が桜香へと答える。
「く、喰われかけている!?」
<今の私には身体がありませんので、これは通常の憑依とは異なります。私にその気はなくとも、帰るべき肉体がないことを知っている私の魂は、本能が存在を求めて崎守の身体を欲しているのです。そのため崎守の魂は私に喰われかかっている。例えるなら、今の崎守は襲ってくる猛獣の顎を押さえて耐えている状態。気をしっかりとお持ちなさい>
自分の魂が喰われてしまえば崎守桜香という存在は消え、この身体は後鬼のものになるというのは想像に難くない。
それでも、桜香はこの耐え難い苦しみを軽減させる方法が知りたかった。
「気をしっかりと持って、どうすればいいんですか?」
<耐えてください>
「……それだけ?」
<それだけです>
期待していた答えが得られなかった桜香に冷や汗が流れる。
「なるべく早く……いえ、頑張ってくださいね」
身体を貸してしまった以上、桜香にはそう言うしかなかった。
<善処します>
苦しみの中でも気遣いを見せる桜香に後鬼は微笑み、前鬼に向かって水柱を放った。
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