ファイル8 『前鬼・後鬼』の怪 【②】
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「安那のバカッ、おバカッ、大バカもの~ッ!」
明け方も近い夜のあやかし部屋にタマモの怒号が響く。
前鬼によって桜香が連れ去られてしまったすぐ後、タマモと住吉は倒れている安那を見つけた。桜香の姿が無いことに気付いたものの、安那は邪気にあてられ衰弱している。
そこでタマモは安那に妖力による治療を施し、住吉は妖気の痕跡を追ってみたものその痕跡を見失ってしまう。やみくもに探しても意味がないと判断したふたりは安那をあやかし部屋へと連れ帰った――。
そしてつい先ほど、目を覚ました安那が事情を説明。それを聞き終えたタマモが安那に声を荒げたのである。
「よりによってひとりで前鬼に立ち向かうなんてなに考えてんの! あんたにとっては最悪の相性でしょうが!」
「も、申し訳ございません……」
机の上に立つタマモは怒りが収まらず、安那は自席で頭を下げたままだ。
「だいたいね、前鬼が桜香ちゃんのことを知っているなんておかしいでしょ! なにかウラがあるに決まってるじゃない! そんなところへ桜香ちゃんを連れて行くなんて――」
「タマモ、いつまでも過ぎたことを責めても仕方あるまい。だいたい、安那があの場に前鬼がいるなんてわかるわけないだろ」
見かねた山森が、さらに責め立てるタマモの首根っこをつまみ上げた。
「そうだぞタマモ。言ってることが滅茶苦茶だ。それにさ、私たちも行くから現地で会おう……みたいな話を振ったのはタマモなわけ」
両肘を机に置き頬杖をつく住吉もあきれ顔だ。
「う゛……」
離せと暴れていたタマモだが、痛いところを突かれたのか、山森につまみ上げられたままてるてる坊主のようにおとなしくなる。
「タマモ姉さまは悪くありません。異質な気配を感じていたにもかかわらず、桜香さんを現場に連れて行ったのは私なのですから……」
消沈する安那に、皆はシンと静まった。
そこに代田がパンと手を叩く。
「皆さん、一度情報を整理しましょう」
「情報の整理?」
代田は吊るされたままのタマモに頷く。
「天童くんから、やはり崎守くんの携帯端末の位置情報は追えないと連絡がありました。我々のように抑えていないむき出しの妖気は電子機器に異常をきたすことが多いですからね。」
物の怪が現れる時、電灯が点滅したりカメラの映像が乱れたりなど、電化製品に異常が出ることがある。これは妖気によって引き起こされる現象なのだが、その妖気が強力になればなるほど電化製品は壊れやすくなる。
代田は話を続ける。
「崎守くんの居場所を今すぐにつかむことは困難ですが、彼女は前鬼にさらわれました。それはなぜなのでしょうか?」
「なぜって……桜香ちゃんを知っていたってことはさ、『あの方』の命令じゃないわけ? 目をつけられていたかもしれないんでしょ」
住吉の回答に代田は首を振る。
「あの方を現世にという動きはありますが、それはまだなされていませんし最近は〝あの者〟も目立った動きを見せていません。それに、前鬼といえば役行者と共に魑魅魍魎と戦った使役鬼。そんな彼があの方に協力するとは思えません」
「役行者……。たしか、孔雀明王の呪を体得したとかいう呪術師だったな。たしかに、その使役鬼であった前鬼と妻の後鬼は当時の俺たちのような存在だったわけだしな。対峙したことはなくとも、あの方の凶大さは知っているはずだ」
山森もタマモを下ろして代田に同意した。
前鬼と後鬼――。修験道の開祖と呼ばれてる役行者、または役小角とも呼ばれている呪術師に付き従っていた二匹の鬼である。
前鬼は赤鬼、後鬼は青鬼。この二匹の鬼は、修行をしながら各地の魑魅魍魎とも戦っていた役行者と共にその力を振るっていたという。
「それにしても前鬼が動いていたとはな。俺とジンが相手をしていたのは、前鬼が生みだした小鬼だったのかもしれん」
そんな山森の言葉に住吉が顔を上げた。
「ふたりが出てた別件って、相手は小鬼だったわけ?」
「ああ。ネズミに妖呪を埋め込んで半妖怪化させたやつらだ。ここ数百年、そんなことができる呪術師にはお目にかかった事はなかったからどんな奴が生みだしたのかと思っていたんだが……。役行者縁の前鬼が関わっていたのなら納得もいく」
「なんだって前鬼はそんな面倒なことしたわけ」
「おそらく俺たちを分断させるためだろうな。崎守のお嬢ちゃんをさらうのが目的なら俺たちとの衝突は避けられない。今は誰にこちらのことを聞いたのかを知る由はないが、前鬼にしてみれば相手は少ない方がいいだろうしな」
「じゃあ、前鬼はいったい何のために桜香ちゃんをさらったんだろう?」
タマモの疑問に住吉も腕を組む。
「それに、業師だった後鬼ならともかく、力押しの前鬼が人間の魂を奪ったのだって納得いかないわけ。後鬼を甦らせようとしているのだとしても、前鬼じゃ儀式中の微妙な妖力調整なんて出来ないだろうに……」
考えるタマモと住吉。そんなふたりには目もくれず、席を立ったジンが安那に近づいていく。
「今は崎守が連れ去られた理由なんてどうでもいい。重要なのは、連れ去ったのなら目的は殺すことではないということだ。少なくとも今すぐにはな――葛葉」
「は、はい」
目の前で声をかけられ、安那はジンを見上げた。
「たしか前鬼には結界を張る能力はないし住吉のように高速移動能力もなかったはず……まだそう遠くへは行っていないだろう。抜け目のないお前のことだ。タマモや住吉が間に合わなかった時のことを考えていたはずだ。崎守の居場所がつかめるような小細工はしてあるな」
「もちろんです。桜香さんを傷つけるのはためらわれましたが、前鬼の目を奪うフリをしてその腕に私の髪を刺しました。桜香さんがどこにいようと、その髪に念を送り妖気を発動させれば居場所を探ることは出来ます。ですが――」
安那の顔が少しだけ曇る。
「妖気の発動は前鬼も気付くはず。その僅かな時間で桜香さんの所在を察知しなければなりません。ですから――その……」
申し訳なさそうにタマモに視線を移す。
同じく視線を動かしたジン。
「――だそうだ。タマモ、葛葉の妖気は嗅ぎ分けられるな」
「誰に言ってるの~。同じ妖狐だからね、たとえ一瞬だったとしても安那の妖気をつかんでみせるよ。このタマモさんの嗅覚を甘くみるなよ~」
タマモは親指で、自慢げに自らの鼻を弾いてみせた。
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東都の地下。そこは何本もの地下鉄路線が縦横無尽に広がっている。そこには過去に使用されていたものの、現在は廃線となっている路線や駅もある。
そんな廃駅のひとつ、桜香は朽ちた木のベンチの横で壁にもたれて膝を抱えていた。
「私をどうするつもりなんですか」
桜香が口を開く。これで三度目の同じ質問だが、前鬼は座禅を組んだまま瞑想しておりその問いに答える事はない。
前鬼に連れ去られた桜香が目を覚ました時、すでに前鬼は瞑想状態であった。
この場が地下鉄のだということは、駅のホームであるということと線路を見てすぐに解った。澱んだ湿気とカビ臭さが鼻についたが、拘束されていることはなく前鬼は眠っているように見えることからそっと逃げ出そうとしたのだが……
<やめておけ、逃げられはせん……>
思わず身が震える低い声に桜香は足を止めた。
恐る恐る振り返ると、前鬼は同じ姿勢のままで微動だにしていない。呼び止められたのが嘘のようである。
このまま線路に降り、暗闇に向かって走り去ることは出来るかもしれない。しかし、一歩でも前へ足を踏み出せば次の瞬間には前鬼に捕まってしまうだろう。なぜかはわからないが桜香はそう確信してしまった。だから桜香は元の位置に戻って膝を抱えた。
それからいろいろと話しかけてみるのだが、前鬼は無言を貫いている。一度だけ腕に痛みを感じた桜香が刺さっていた髪の毛を抜いた時、微かに口もとを弛ませただけである。
前鬼が一言も発しないのはわかっているが、桜香はまた同じことを口にする。
「私をどうするつもりなんですか。今こうしている間も警察が――いえ、私の仲間たちが私のことを探してくれています。私にはここがどこなのかわかりませんが、この場所が知られるのも時間の問題ですよ」
何を言っても眉一つ動かさない前鬼に、桜香は小さく息を吐いた。
「前鬼さん――でしたっけ。私を食べてもおいしくないと思いますよ~」
桜香は冗談でそんなことを言ってみるがやはり反応はない。
「悪い妖怪にはみえないのに、なんであんなことをしたんですか。人間を傷つけて魂を奪って――あなたは何がしたいんですか」
咎めるような口調にも前鬼は反応しなかった。
桜香自身も不思議に思っていることではあるのだが、なぜか前鬼を恐ろしいとは感じていない。
大柄な体で額からは二本の角が突き出ており、赤茶色の肌は盛り上がった筋肉を包んでいる。安那を倒した圧倒的な力を目にし、連れ去られた理由も明かさない前鬼を不気味には思っているが、それは恐ろしいという感情とは別物であると桜香は感じている。
おそらく、逃げ出そうとしない限り前鬼が自分を傷つける事はない――根拠のない自信だが、そう感じている桜香は前鬼相手にしても普通に話しかけられていた。
「――この光はなんなの?」
さっきから気になっている事なのだが、改めて周りを見回した桜香がそんなつぶやきを漏らす。
ここが地下なのは間違いない。しかし、電灯がないにもかかわらずこの場は明るいのだ。通常の地下鉄ホームのような明るさはないが、正体不明の青白い光のおかげで前鬼の顔をはっきりと見ることが出来ている。
なにが光っているのか、それは天井や柱、床や線路に撒き散らされた水玉模様からの明かりである。
<……後鬼の霊水だ>
不意に届いた前鬼の声。
桜香が顔を向けると、前鬼はゆっくりと目を開けた。前鬼はその真っ赤な目で桜香を見つめる。
<我が妻、後鬼が持っていたこの瓢箪には霊水が入っている。そのどれだけ使っても涸れることのない霊水にはチカラがあってな、呪いをかけるだけで様々な効力を発揮する。光を生み出したり敵を攻め倒したり、傷を治したりな。残念ながら死んだ者を甦らせることは出来なかったが……>
強張った顔につり上がった目。恐ろしい顔をしているのだが、桜香には悲しんでいるように見えている。それは、前鬼が腰に下げている瓢箪を愛おしそう触れたからかもしれない。
後鬼のことを過去形で話す前鬼――。桜香は前鬼が後鬼の死を悲しんでいるのだと悟った。
<そう嘆くことはなかろう。後鬼と再び会えるまであと一歩なのだからな>
それは前鬼の声ではなかった。
「だ、誰なの……」
桜香が声のした方へ振り向くと、線路の奥、その暗闇から一人の男がゆっくりと歩み寄ってくる。
平安時代の公家が日常着として用いていた狩衣姿。しかし烏帽子はかぶっておらず長い髪はボロボロに乱れている。茶色の狩衣も破れや汚れが目立つ。
前鬼の隣に立った男は桜香に品定めするような目を向けた。
<お前が崎守桜香か……。たしかに、少々変わった気を放っている。憑代としては適任かもしれんな>
人間の姿をしているがこの男は人間ではない。
男から禍々しい気を感じた桜香は自分でも知らないうちに立ち上がっていた。
「あなたは……誰ですか」
自然と両手を前へ出し防御姿勢をとっている。
その様子を見た男が小さく笑った。
<身構えたところでお前にはなにも出来ん。しかし、お前がお前でなくなるまえに私の名くらいは教えてやろう――>
男は袖から手を出す。
<私は蘆屋道満。これから後鬼を甦らせ、前鬼に喜びを与える者だ>
道満の目の奥が怪しく光る。それを見てしまった桜香の体は硬直し、指一本動かすことができなくなった――。
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