ファイル5 『付喪神』の怪 【⑤】
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閑静な住宅地から少し離れた公園。すべり台やブランコ、砂場やゲートボールが出来そうな広場まである。
けれども、日が暮れれば利用者などいないのであろう。それなりの広さがあるにもかかわらず、照明はひとつしか設置されていない。
時折、切れかかっている電球がまたたくなか、男はゆっくりと咲絵に近づく。
「咲絵? 咲絵だろ? お前、大丈夫なのか?」
暗闇に浮かぶうっすらとしたシルエットだけで、彼は咲絵だと言い当てた。
「ひさしぶりね――」
穏やかな咲絵の声。生で彼の声を聞くのは本当に久しぶりで、彼女の脳裏に、幸せだったあの頃がフラッシュバックする――。
彼のさわやかな笑顔と心地良い声。少し乱暴に抱きしめられた時の力強さ。肌を合わせた時の温もり。そして、この公園で将来を誓い合ったキス……。
しかし、それは今となっては遠い過去。彼は自分の欲のため、あっさりと、一方的に……咲絵を捨てた。
一方的に別れを告げられた後、何度も、何度も連絡した。しかし、着信拒否された電話が彼につながる事はなかった。だからこそ――
「あなたから連絡をくれるとは思わなかったわ」
咲絵は微笑んだ。殺されるとは思わないだろうが、自分から彼に姿を見せてしまえば間違いなく警戒されるだろう。
チャンスは一度だけ。刀に宿る妖怪に精神を喰いつくされてしまう前に、自分の意思で復讐したい……。万一にも仕留め損なうわけにはいかなかったのだ。
ゆっくりと近づいてきた男が、咲絵の前で歩みを止めた。
月のない真夜中でも、その顔がはっきりと見える距離。
「咲絵。昼間に連絡した時にも言ったけど、キミのお父さんが……その……殺害されたんだ――」
そう切り出したのは黒峰遊太。刑事課所属の、岩多の後輩でもある黒峰だった。
「それで、警察が咲絵の家に行ったと思うんだけど……」
「電話でも言ったけど、私は出掛けていたからその人たちには会っていないの」
口ごもる黒峰は、咲絵の言葉に安堵の表情をうかべる。
「そうか。俺が被害者の家族との関係者だってバレたら、捜査から外されてしまうかもしれない」
「もう家族じゃないけどね」
「まあ、十年も前に両親が離婚しているんだから……たしかに、そうとも言えるけど――」
バツが悪そうに頭を掻いた黒峰は、気を取り直すような咳払いをした。
「それより、本当なのか? お父さんを殺害した犯人に心当たりがあるって……」
「心当たりじゃないわ。犯人を知っているって言ったのよ。あなたが刑事としての最後の事件がこれなんて、なんだか皮肉ね」
「そうでもないさ。咲絵の悔しさを晴らすことができるし、俺は刑事として有終の美を飾ることができる――」
黒峰は醜く口を歪ませる。
「咲絵、教えてくれ。約束通りひとりで来たし、誰とも連絡を取っていない。いったい、犯人は誰なんだ」
大袈裟に手を広げる黒峰に、咲絵はクスリと笑った。
「誰にも連絡するなって言ったのはあなたでしょ。いいわ、教えてあげる。父だけでなく、母や通りすがりの二人を殺したのはね……私よ」
「は? お母さんや通りすがりの二人って……。咲絵、なんの話を――」
うろたえる黒峰の頬に鋭い痛み。
「な、なにをするんだ咲絵!」
後ずさりながら頬を押さえる黒峰は、咲絵が振り上げた傘がバナナの皮を剥くようにめくれ、そのなかから一振りの刀が出てくるのを見た。
「あなたを殺して私も死ぬ。……少し違うわね。妖刀に自我を奪われる私は獣になるの。恐怖と絶望を糧にして、悲鳴という美声に酔いしれる一匹の獣にね――」
穏やかに微笑む咲絵。
「さあ。あなたの最後の歌声を聞かせてちょうだい」
美しい反りを持ち、照明で妖しくきらめく刀。咲絵がそれを振り下ろすと、今度は黒峰の太ももに冷たい激痛。
「あがぅッ! だ、誰か……誰か助けてくれッ!」
錯乱する黒峰が踵を返す。
右足を引きずりながら、必死で逃げる背中にも激痛が走った。それでも黒峰は止まることなく、公園の出口へと向かって行く。
その息は荒い。
なぜ自分がこんなことをされるのかという疑問など頭になく、次々と襲ってくる背中への激痛から逃れることしか考えられない。
「な、なんだよこれ!? なんで外に出られないんだよッ!」
出口にたどり着いた黒峰は、なにかにぶつかったことでさらに混乱する。
外は見えているのに公園を出ることが出来ない。どんなに進もうとしても、見えない壁が黒峰の行く手を阻んでいる。
「無駄よ。あなたが入ってきた時、この公園を結界で囲ったんだって。私たちの声は外に漏れないし、外から私たちの姿を見ることも出来ないらしいわ」
後ろからの声に黒峰が振り向けば、追いついた咲絵が三歩離れたところで立っている。
それは黒峰もよく知っている微笑み。まだふたりが付き合っていた頃、肩を抱くたびに見せてくれた幸せそうな表情――。しかし今、咲絵から感じるのは狂気しかない。
幸福感あふれる表情と狂気というギャップに、黒峰の表情が引きつる。
「結界ってなんだよ、意味わかんねえよ……。それより、今のはなかったことにしてやるからさ。こんな事、もうやめにしようぜ」
落ち着かせようと伸ばした黒味の手。咲絵はそれを刀で叩き落した。
「いい表情ね。こんなに気持ちが落ち着くなんて……。嫌な妖怪だと思っていたけれど、今だけは感謝してあげる」
手の甲を斬られた黒峰の叫びに、恍惚の表情をした咲絵は愛おしそうに刀を撫でた。
<感謝なんかいらねえ。それよりも……この男が憎いんだろ? 腕の一本でも切り落としちまおうぜ。俺はなあ、自分は死ぬんだと実感した時の絶望という負気が喰いたいんだ>
下品な笑い声が響く。
それを妖刀からの声だと知らない黒峰は、周りを見回して声の主を探す。
「誰だよ、どこにいるんだよ!?」
得体の知れない第三者。その確認できない存在に、黒峰の恐怖が増大した。
咲絵が一歩踏み出す。
「黒峰遊太さん。まずは、逃げられないように足を一本切り落とすわね」
咲絵が久しぶりに黒峰の名前を口にする。フルネームで呼んだのは確認だったのかもしれない。
自分のすべてで愛した男性を殺す。その覚悟と決心を、ここでもう一度確かめるような……。
黒峰の目は見開かれており、その口は恐怖でガチガチと震えている。
それを見ても何も感じない咲絵の微笑みは崩れず、
「きっと、もう私は人間じゃないのかもしれない」
心でそう笑った。
この妖刀を手にした時――いや、黒峰を殺そうと思った時には、自分は鬼になっていたのだろう。悲しみと苦痛と絶望が、私を人間ではない何かに変えた……。
そんな自虐的な事を考えながら、咲絵は妖刀を振り上げた。
迷いはない。どれだけ黒峰をいたぶろうとも、咲絵の手が止まる事はないに違いない。
それを感じた黒峰が、断末魔に似た悲鳴をあげる。
「いやだああああッ! たすけ、だれか助けてくれえええッ!」
振り返って結界を叩く。見えない壁に阻まれているが、逃げ道はすぐそこにあるのだ。しかし、どんなに力を入れても結界はびくともしない。
<ムダなんだな~。人間ごときに壊せる結界じゃねえんだよ>
再び、得体の知れない下品な声。
その嘲笑いも、一心不乱に結界を叩く黒峰の耳には届かない。
咲絵が振り上げる妖刀を強く握ったその時――公園全体にガラスが割れるような音が響いた。と同時に、黒峰が前のめりに倒れる。
「ど、どうなってるのよ。結界は、人間には壊せないんじゃなかったの!?」
妖刀を振り上げたまま、咲絵の顔から微笑みが消えた。
黒峰は前に倒れた。それは結界が壊されたことを意味していたのだ。
<バカな! 妖怪が出張ってきただと!?>
妖刀の緊張した声に、咲絵も動揺する。
「まったく。やる気の失せる事件になったもんだ」
倒れた黒峰を足で払い、スーツ姿の男性が公園へと入ってきた。
咲絵は二歩後退る。あるいは、咲絵を操る妖刀がそうさせたのかもしれない。
「あなた……誰?」
咲絵が妖刀を正面に構えた。
ボサボサ頭に眠そうな目。一見すると人間だが、彼の右ひじから先が刀身のように変化している。
その異様さに、咲絵は固唾を飲み込んだ。
「俺は川霧刃。警視庁のなんちゃらかんちゃら室とかいう――まあ、平たく言えば刑事だ」
面倒そうに左手で頭を掻く男性。そんな彼に子供が――長い髪の可愛い女の子が棒を振る。
「ジン! ちゃんと『とくちゅちけん広域そうちゃちちゅ』って言いなさい!」
ぴこん。という間の抜けた音。その棒はおもちゃのピコピコハンマーだった。
こんな状況の現場に来たにもかかわらず、この緊張感のなさ。それが咲絵の心に言いようのない不安を落とし始める――。
「タマモちゃんもカミカミになってるよ――」
続いて現れた若い女性。黒峰を引き起こした彼女は、女の子へ困ったような微笑みを見せてから咲絵へ向いた。
「波原咲絵さん、私は崎守桜香といいます。私たちは警視庁の、特殊事件広域捜査室から来た刑事です。いろいろとお聞きしたいことがありますので、まだ体の自由が利くならば、その妖刀を鞘に納めてもらえませんか」
桜香という刑事は唇を噛み、悲しそうな表情をしている。しかし、その目には強い意思があった。咲絵の犯行を止めるという強い意思だ。
「さ、崎守刑事、たすけてください! この女、頭がおかしいんですよッ! いますぐ銃刀法違反で――」
乾いた音が強く響く。
黒峰が桜香にしがみつきながら咲絵を指差すが、その言葉が終わらないうちに桜香に引っ叩かれたのだ。
「黒峰刑事。おかしいのはあなたの方ですッ!」
桜香の表情が厳しくなる。その目には、誰にでもわかるほどの怒りが満ち溢れていた――。
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