ファイル0 プロローグ
□◆□◆
★
月が隠れる雲の下、東都の闇夜に影が走る。
一蹴りでビルの間を飛び交う人影。彼は自分の倍以上もある大きな影を追っていた。
その大きな影は人の形を成してはおらず、四本足で地を蹴る動物のようなシルエットをしている。
加速した人影が大きな影を飛び越えてその前へ出た。
「ここまでだ。おとなしく滅されろ――お前はやり過ぎたんだ」
人影の声は男のものだった。
彼は高層ビルの屋上に追い詰めた大きな影を見据える。
<お前……何者だ? 人間ではないな……>
追い詰められたソレの低い声。
「人間なんかと同じに見るな。あんな奴らがどうなろうと、俺の知ったことじゃない」
雲の切れ目から月が現れ、その月光が男を照らし出す。
黒いスーツに白いシャツ。照らし出されたのは二十代半ばであろうかという若い男だった。
眉間にシワを寄せているのは嫌悪感の表れなのだろう。男は鋭い視線をソレへと送っている。
<なぜだ……。お前も物の怪や妖怪と言われる類のモノだろう。なぜオレの邪魔をする。なぜオレを滅ぼしにくるのだ>
月の光が照らしだしたソレは鼠だった。ただの鼠ではなく、子供の像ほどもあろうかという巨体をもった化け鼠――。怯えているのか、その鼠はジリジリと後退し、男から逃げ出す機会を窺っているように見える。
男が呆れたような息を吐く。
「言ったはずだ。お前はやり過ぎた――人間を喰い過ぎたんだとな。ちゃんと話を聞くクセをつけた方がいい……」
説明するのが面倒くさいと言いたげに、寝癖がついた頭をボリボリと掻いた。
<それだけ? それだけのことなのか!? 古来より、妖怪が人間を喰らうことなど珍しいことではあるまい!>
叫んだ化け鼠が大きく飛び上がった。
男に攻撃しようというのではなく、この場から逃げ出すための行動だ。
「まったく、往生際の悪いヤツだ……」
目を細めた男も飛び上がる。
空中で化け鼠の尻尾を掴んだ男は、遠心力を利用してビルの屋上に化け鼠を叩きつけた。
<ぐはぁぁぁッ!――に、人間くらい喰ってもいいじゃねえか……。お前だって何人も、散々喰らってきたんだろうがよッ!>
化け鼠は怒りの眼でもう一度飛び上がる。
狙うは落ちてくる男。その爪と牙で切り裂こうというらしい。
落ちてくる男は冷静な表情を変えず、一言ぽつりとつぶやく――。
「お前と同じに見るな――」
男の右腕が怪しい光を放った。
その光は肘から下のスーツを塵に変えて収縮し、右腕を刀身へと変化させる。
<ケッ、たかが付喪神じゃねえか。正体が判らなかったから警戒したが、大した妖怪じゃねえな!>
化け鼠は余裕を表したが、次の瞬間にはその巨体を両断されていた。
<ハ!? そ、そんなバカなぁぁぁ!>
屋上に下り立った男は、叫ぶ化け鼠を見上げる。
「付喪神か……ある意味じゃ、それも正解だ」
男の言葉が終わるのと同時に、化け鼠が屋上に落ちてきた。
<た、頼む。助けてくれぇぇぇ……>
虫の息で懇願する化け鼠。しかし男は、その様子を黙って見ているだけ。
<なんでだよ……。人間くらい、いいじゃねえか……>
何度目だろうか。また同じ言葉を吐いた化け鼠は、ゆっくりと風に溶けるように塵となって消えた――。
残った男の右腕が人の腕に戻る。
「人間くらい――か。同感だ。しかし、お前みたいな奴が人間に害をなすことでこの世の負気が高まる。それは『あの方』の力を増大させてしまうことにつながるからな……。それを阻止するために、俺たちはいるんだ――」
名もなき化け鼠の消滅を見送った男が夜空を見上げた。
切れ間から顔を出していた月はまた雲に隠れ、再び地上を闇が包む――。
顔を下ろした男の傍に小さな人影が下り立つ。
それは髪の長い小さな女の子のようだ。
「あーっ! またジンがスーツをダメにした~! もう、何着ダメにするつもりなの! スーツだって安くないんだよ! お給料がいくらあったって足りないんだから!」
可愛い声の人影は、ジンと呼ぶ男にまくしたてた。
「このままでもよくないか?」
ジンは肘から下のスーツとシャツが無くなり、半袖となった右腕を上げる。
「よくないっ! 人間社会では身だしなみが大切だって、ダイさんにも言われたでしょ!」
「けどなタマモ。いちいちスーツを新調するのも面倒だぞ?」
「そんなの、いちいち袖を巻くればいい事でしょ!」
ぴこんっという音が鳴る。
タマモと呼ばれた女の子が、手の持つ大槌でジンを叩いたようだ。
「あ、そうだ。ジン、さっき新情報が入ったよ」
「新情報? 『あの方』の居場所がわかったのか?」
声が低くなったジンに、タマモは手を横に振る。
「そうじゃなくて、ウチにね、新人さんが入ってくるんだってさ」
「新人? それはまた――どんな妖怪が入ってくるのやら」
「ううん。妖怪じゃなくてね、人間が入ってくるらしいよ。しかも女の人なんだってさ! どんな娘なんだろうね~。仲良くしてくれるといいなぁ~」
期待に胸を膨らませるタマモとは対照的に、ジンはグッと拳を握りしめた。
「人間だと? あのオッサン……何を考えているんだ――」
ジンの影が飛び上がり、宝石のように輝く街の灯りへと身を投げる。
「ちょっとジン! わたしを置いてくの!? せっかく新情報持ってきてあげたのにっ! 待ちなさ~いっ!」
タマモの小さな影も、ジンの後を追い街の灯りへと消えていった――。
★
朝の東都の街を、多くの人々が行き交っている。
そして、緊張顔の彼女が入っていった建物は警視庁だった。
警視庁――。この国の首都、東都を守る警察の要である。
基本的な管轄は東都内になるが、全国の警察署に対して大きな影響力を持つ組織でもある。
そんな警視庁内の一室。以前は解決済みの資料が山積みされた倉庫として、ほとんど人が立ち寄らない部屋の前に彼女は立った。
擦りガラスがはめ込まれているドアには『特殊事件広域捜査室』のプレートがかけられている。
「ふぅ。今日から刑事、今日から刑事……。よしっ!」
子供の頃から刑事になることを夢見ていた彼女は、緊張に負けないように気合いを入れた。
ドアノブを握り、勢いよく開く。
「おはようございます! 本日付でこちらに配属されました崎守桜香です。刑事としてはまだまだ新米ですが、よろしくお願い致します!」
背筋を伸ばしたきれいな敬礼。
目を輝かせている彼女――崎守桜香はまだ知らなかった。通称『妖部屋』といわれているこの特殊事件広域捜査室の捜査員に、『人間』は自分ひとりしかいないということを――。
□◆□◆