(2)
何事があっても驚くまいと心気を整え胤栄の後について行った与六であったが、流石に眼前にそびえる難攻不落の城、稲葉山城を見上げた時、ぴたりと歩みを止め、大きく息をひとつ吐いた。
蝮の道三のことは、もちろん知っていた。そして近いうちに尾張との戦が始まるかもしれないと、城下ではもっぱらの噂であることも。
尾張という国に対して与六自身なんの未練もなかったが、ひとりの男を忘れることはできなかった。織田信長である。男との辛い旅を耐えてこれたのは、いつか信長と共にこの世を変えてみたいと思っていたからだった。
二人が稲葉山の門扉に近づくと、門番が槍を構えた。
「拙僧は興福寺から参った胤栄と申す僧である。村松与左衛門春利様に胤栄が来たと伝えて頂きたい」
門番は頷き大玄関横にある門扉から城へと入って行った。しばらく待つと腰に立派な大小の刀を差した、恰幅の良い男が姿を現した。
「おお、胤栄。健やかそうでなによりじゃ」
春利の言葉を受け、胤栄は深々と頭を下げた。
「それで今日は何用じゃ?」
「姫君に頼まれていた件でございます」
春利が胤栄の背に隠れるように立っていた与六に気づき、眉をぴくりと動かした。
「お主の後ろに立つ小僧は誰だ?」
胤栄がぴしゃりと額を叩き答える。
「この者は拙僧が城下で見つけた小僧であります。名は……。お前名はなんと言うのだ?」
「与六」
「そうでござった。与六という者であります。姫君に会わせたく連れてまいりました」
人を喰った様な胤栄の言葉に、春利は微かな不安を覚えた。
「姫君がお主にどのような事を頼んだか知っておるが、本当に会わせて大丈夫か?」
春利が不安に思うのも当たり前であった。百姓の子に見える小僧が、大刀を背に担ぎ自分の眼を真っ直ぐ見つめる姿は、数度の修羅場を経験した春利にとっても異様な光景であった。
「殿の信頼厚い胤栄のことは疑ってはおらぬが、わしの一存では決めかねる。殿に伺いをたてるゆえ、しばしここで待たれよ」
「わかり申した」
春利は足早に、道三が居る千畳台へと向かった。
胤栄は春利の背を見送ると門番に声をかけた。
「すまぬが、お主の槍を貸してくれぬだろうか?」
門番は困ったように眼の玉をキョロキョロと動かし首を捻った後、渋々、胤栄に槍を渡した。
左手で槍を受け取り、右手に持っていた鉄杖を門番に渡すと、両手で受け取った門番の腰がかすかに沈んだ。鉄杖の重さに驚き眼を見開く門番に笑みを返し、胤栄がくるりと頭上で槍を回した。
「与六、春利殿が戻って来るのをただ待つのも芸がない。わしと稽古でもせんか?」
眼の前で軽々と八尺の槍を振り回す、胤栄の身体から発する獣のような気が、烈風となって与六を包み込む。
与六は相手の気に呑まれぬように、腹の底に力をこめた。
その様子を見て胤栄がニコリと頬を崩す。
「命のやり取りをするわけではない。稽古だ。良いな?」
与六は頷くと同時に背から愛刀羅刹を抜き、剣先が地面に着くような独特の構えをとった。
幅広の剣に陽の光が反射した。あたかもそれが合図だたかのように、胤栄の槍が風を斬るように突き出された。
与六はその場から動くことなく、羅刹を動かし穂先を弾く。 胤栄の一撃はずしりと重く、両手から受けた衝撃は、肩が痺れるほどだった。
胤栄が槍を手の中でしごきながら半歩間合いを詰めると、与六がその間合いを嫌い、半歩後ずさる。その時、地をはうように槍が動いた。
下げた足を軸にして与六は身体を回転させ、その勢いのまま、突き出された槍をかちあげた。だが胤栄は動じることなく、かちあげられた槍を頭上から振り下ろす。
与六は背後に身を投げ、ごろごろと転がりそれをかわした。
なんとか立ち上がった与六の隙を、胤栄は見逃さず、一気に間合いを詰めると体勢が崩れ無防備になった腹に、石突きを打ち込んだ。
そこで立合いは終わるはずだった。だが、胤栄は後方に飛び構えた。なぜか胤栄の手には人の肉を打った時の感触がなかったのだ。
信じられぬ思いでそれまで自分が立っていた場所を見ると、地面に深々と剣先が刺さっていた。
胤栄は苦笑いを浮かべると、あきれたにように首を振った。眼の前で剣を振るのは、元服前の小僧である。その小僧の武の才能に嫉妬する自分が、いささか可笑しくもあったのだ。
上段に構えた与六の剣先が、獲物を狙う蛇の頭のようにゆらゆらと左右に揺れる。
その構えを見た胤栄は眼を細め、懐かしむような声をもらす。
「やはり、上泉信綱は生きておったか……」
与六にケガをさせないように力を抑えていたが、もはやそのことは頭から消し去った。久方ぶりに会う剛の者に、胤栄の獣の血が騒ぎ始めた。
与六は身を低くし、身構えている胤栄の懐に影を置き去るような速さで飛び込んだ。それを防ぐように突き出された穂先が、与六の首元をきわどくかすめた。
与六は臆することなく自分の身長ほどある大刀を、恐るべき速さで振りぬく。胤栄は力任せに剣を弾き返し、真横から与六の腹を薙ぐように槍を動かした。その一撃は、剣を立てて防いだ与六の身体が浮くほどの強さだった。
与六は歯を食いしばり態勢を整えた。
胤栄の槍術はまさに変幻自在だった。手の中で巧みに柄の長さを変え、与六が近寄れば短く持ち、素早く突く。離れれば長く持ち、遠心力を使い薙ぎ払う。その動作を瞬時に使い分けている。
体格で劣る与六はしだいに防戦一方になってきた。胤栄が渾身の力を込め右から槍を薙ぎ払う。剣腹で受けた与六が鞠のように地面に転がった。
(腕の一本ぐらいは折れたかもしれんが、この小僧には良い経験になったであろう)
胤栄は地面に倒れたまま起き上がらない与六に向かって歩を進めた。
与六がゆっくりと立ち上り、薄く長い呼吸を繰り返す。
その姿を見た胤栄の背に冷たい汗が流れ、肌に粟が立た。
眼前に立つ与六の口からは、念仏を唱えるように、同じ言葉が繰り返されている。
「食する……、ことは……、相手の……、命を奪う事だ。その覚悟が……、ないのなら……、飢えて死ね」
与六の身体の中で、何かが弾けた。
一瞬で間合いを詰めた与六が、羅刹を振り抜く。
胤栄の頬から鮮血が舞う。痛みで我に返った胤栄が地に穂先を滑らし、そこから一気に与六の腹から首までを切り裂くように槍を持ち上げた。
与六には、はっきりと穂先が見えていた。指一本分の距離でかわし、穂先の付け根を上段から真っ二つに両断し、斬り落とされた穂先が地面に着くよりも早く、胤栄の喉元に剣先を突きつけた。
「胤栄に勝つとは、あっぱれじゃ小僧!」
背からかけられた天を割るような大声に与六が振り向くと、胤栄にも負けぬほど大きな男が春利を従え立っていた。
これが与六と梟雄、蝮の道三の出会いであった。