(3)
目当ての中村までは、ゆっくり馬を進めても半刻かからぬ距離であった。馬上の信長は、勝三郎にくつわを引かせ身体全体で早春の風を楽しんでいた。そんな信長の気持ちをかき消すように、勝三郎がぴたりと歩みを止めた。
「なにごとじゃ?」
「若、まずいことになりました。まっ、前から……」
かぼそく震えた勝三郎の声に、馬上の信長は眼を細め、前方から馬を疾駆させ迫る男の顔を凝視した。
髪に白いものが混じった小柄な男が、息を切らし鬼気迫る表情で近づいて来る。信長は、チッ、と舌打ちし、珍しく馬上でがくりと肩を落とした。
「探しましたぞ、吉法師様! おや? どうしたのでございます。苦虫を噛み潰したような顔をして」
「爺、わしは吉法師ではない。信長じゃ」
「そうでございましたな。古渡城で立派に元服の儀を済ませたこと、この政秀昨日のことのように覚えております。ですがそのいでたちを見れば、幼名で呼ばずにはおれません」
二番家老、平手政秀が早速小言を洩らした。
平手政秀は信長の父、信秀がお目付け役としてつけた男であり、唯一の信長の理解者でもあったが、信長は顔を合わせれば小言ばかりいうこの男が苦手だった。自分を心配してのことだとわかっていても、やはり有難迷惑と思ってしまう。
「爺、わしは忙しいのじゃ。用があるなら早う言え!」
「大殿がお呼びでございます」
「親父が?」
「親父ではございません。大殿でございます。若殿、少し言葉を謹みなされ」
政秀の小言など聞こえぬように、視線を宙に浮かべたのち、信長は口元に笑みを張り付けた。
「勘十郎も呼ばれておるな?」
政秀が眼を見開き、大きく頷く。
「はい。ですがなぜ勘十郎様(織田信行)も呼ばれているとお分かりになられた?」
「信盛(佐久間右衛門信盛)あたりが、親父に家督の事で泣きついたのであろう」
政秀の顔が青ざめる。
「まさか嫡男の若殿を差し置いて、弟の勘十郎様を織田家の頭領になどと、いくら勘十郎様の付家老の佐久間殿でも言いますまい」
否定はしたものの、内心政秀はあせりを感じていた。織田家中での信長の評判は耳をふさぎたくなるほどの、悪評三昧であった。もし、勘十郎様に家督を譲ると大殿が申したならば、喜んで多くの家臣が受け入れるであろう。
「爺、何を考えておる?」
信長に問われ、政秀はバツが悪そうに咳払いをした。
「早々に大殿に会いに行かれませ」
「わしは行かん」
「今なんと申されました?」
「爺、まだ耳が遠くなる年ではあるまい。わしは行かんと言ったのじゃ」
「なぜでございます? もし若殿が言ったことが正しければ、これより大事なことなどありますまい」
「ハッ、ハッ、ハッ。尾張一国など勘十郎にくれてやれば良いでわないか」
「なにを申されます!」
肩を怒らせ迫る政秀をもてあそぶように、信長はぺろりと唇を舐め、馬上で胸を張り、語り始める。
「勘十郎に尾張をやる代わりに、わしはある物をもらう」
「ある物とはなんでございます?」
「日の本すべて……。わしは、天下をもらう」
政秀は脳天から雷が落ちたような衝撃を受け、口をあんぐりと開けた。
信長は政秀をいたわるような優しい笑みを浮かべた。
「心配するな。この信長、大うつけではあるが、大嘘つきではない。わしは必ず天下を治めてみせる。それまで死ぬなよ爺」
そう言い残し、信長は馬を走らせた。
「勝三郎」
信長と話すときの柔らかい口調とは打って変わった、政秀の地に潜るような低い声に、名を呼ばれた勝三郎はぴしりと背を伸ばし、頭を下げた。
「わしらの役目は若殿を守ることじゃ。いつでも命を捨てる覚悟をしておけ」
「はい」
信長の理解者であり、織田家随一の知恵者である政秀は、愛おしそうに小さくなる背を見送った。信長の言葉を一切疑うことはなかったが、一抹の不安を抱えた政秀は、心の中で語りかける。
(若殿、この政秀すべてを教えたつもりでございましたが、ひとつだけ教えきれなかったことがございます。それは共に歩むべき人を見つける事。日の本すべてを治めた時、共に喜びを分かち合える友がいることを、爺は望んでおります)