(2)
馬首を回した信長の背に、日吉丸はつぶやくように声をぶつけた。
「与六という、童を覚えておりますか?」
信長は馬足をぴたりと、止めた。
「ああ。あの生意気な童がいかがした」
「もし信長様にお会いすることが出来たなら、伝えて欲しいと言伝を頼まれております」
「なんじゃ?」
「近いうちに信長様の前に大きな蛇が現われるかもしれない。その時は決して戦をするな。そう文に書かれておりました」
信長は馬上から飛び降り、日吉丸を蹴りつけた。
「蛇など一刀両断してくれるわ!」
鞠のように転がった日吉丸が、クックッっと、口の中で噛み殺すような笑い声を上げた。
「なんじゃ、気持ちの悪い、笑い方をしおって」
「申し訳ございません。あまりにも与六が書いた文の内容が当たるもので」
「なんと書いてあった?」
「闘うなと言えばあの方の気性からして、簡単に首を縦にはふるまい。さもすれば、蛇など斬り捨てると言って、お前を蹴りつけるかもしれん。その時は俺を恨め」
「真にそう書かれておったのか?」
「はい」
「ふむ。それで続きがあるのだろう」
「はい」
日吉丸が、信長をじらすように間をあける。
「早く言わんか!」
「ゆっくりと待つんだ。蛇はいずれ、自分の毒が身体中にまわり死ぬ。文の最後はこうしめられておりました」
「で、あるか……」
信長は、与六との出会いを思い出し、懐かしむように眼を細め、晴天の空を見上げた。
あの短い語りの中で、信長は確信していた。与六は初めて自分と同じ速さで、この世を生きている人間だと。
与六の話を信長以外の誰かが訊けば、年端もいかぬ子供の絵空事と笑って終わっていただろう。だが、信長もまた先をよむ天才である。与六が信長に、なにを伝えようとしてるのか、手に取るようにわかった。
父、信秀は、美濃稲葉山の城主、斉藤山城入道道三との戦の準備をしていた。
斉藤道三を、蝮の道三と呼ぶ者もいる。
蝮の子は、母の腹を食い破り産まれるという。
油売りから、美濃一国を手中に治めた梟雄、道三にぴたりと似合う名であった。
そんな道三と父が闘えばどうなるのか……。嫡男としての信長はもちろん、父の勝利を疑わなかった。だが、兵法者としての信長は違う。
(父は、大敗するであろう……)
与六の言葉はまさに信長の考えと一致していた 今は外とには出ず、内を固める事に力をさくべきだった。
織田信秀は、尾張国を下半分支配する織田達勝の三奉行の一人でしかなかった。
だが、幅広い人脈と、多くの財で当主の織田達勝をしのぐ力を持ち、織田家の頭領となった。しかし実際には、信秀が築き上げた地位は今なお、安心できるほど盤石としたものではない。
もし道三との戦で負けることがあれば、信秀を頭領に仰いでいた織田家の足並みは、砂上の城の如くもろく崩れるだろう。
信長は何度も信秀にこの現状を話そうと思ったが、二の足を踏み続けた。父もこの戦国の世で生きる男である。もし負ければそれまでのこと、そう思う事で自分の愁いを断ち切った。
「日吉丸、わしはあやつにずっと逢いたいと思っておったが、足取りがつかめんかった。良い機会じゃ、あやつに会わせ」
「はて? どこの空の下におるのやら、おらにも見当がつきかねます」
「猿芝居はよせっ! 一度は許すが、この信長に二度目は無いと心得よ」
「この日吉丸、一度主君と決めたからには、嘘はつきません」
「では、どうやって文を受け取った?」
信長が刀に手をかけ、日吉丸に、にじり寄る。
「それだけは、村の掟で話すことはできません。どうか、どうか、お許しください」
「ほぅ。中村にはそんな掟があるのか?」
日吉丸の背に冷たい汗が流れた。
「おらのこと、知っていたのですか?」
「たわけっ! 尾張の国で、わしが知らんことなど、塵ひとつないわ。おぬしの父、弥右衛門が、わしの父、信秀の足軽だったことなど百も承知じゃ」
「流石、信長様。この日吉丸感服いたしました」
「もうよい。直接弥右衛門に問いただす。勝三郎行くぞ!」
信長は馬の背に飛び乗ると、風のように走り出した。二人のやり取りを呆けるように訊いていた、勝三郎が打たれたように駆け出した。
日吉丸は遠のく信長の背に、顎先よりも長い舌を出す。まるでそれは、天下を斬れるか、ためしているようであった。