(2)
二人は尾張の山中を出て、美濃に向かっていた。
男は二十キロ程の荷物を背負っているのに、与六がしばしば小走りでついて行かねばならぬ程、歩くのが速かった。
この男は何者なのだ。一年半が過ぎた今でも、男は与六に名前すら語ることはなかった。
ただの薬売りではないだろう。男の身のこなしは、厳しい鍛錬をつんだ者だけがもつ、強さと、美しさが備わっていた。
与六は前を歩く男の背をじっと見つめた。いつかこの男は、自分にすべてを語るのだろうか。すべてを知った時、自分は何を思うのだろう。楽しみでもあり、怖くもあった。そんな想いをかき消すように、与六は新緑が芽吹く木々に視線を向けた。
美濃に入ってから男は、与六に武術を教えるようになった。
まずは体術だった。
男と正対する。男は構えもせず、静かに立っている。
与六が胸めがけて拳を打ち込むと、男がその手をつかみ、背負うように投げた。
背を地面に叩きつけられた与六が、短い声を上げる。
男はただその場に立って、苦痛で歪む与六の顔を見下ろしている。
立ち上がり呼吸を整え、男の腰めがけて与六が走る。腰に手が届いたと思った瞬間、男の姿は消え、背中を蹴られた与六が地面に顔を擦るように倒れた。
頭の芯が痛むほどの怒りが、与六の心を満たしていく。立ち上がった与六は、獣のような叫び声をあげ、男の脚に組みつき、渾身の力で押した。だが男は地面に根が生えたように微動だにしない。
「立合いでは、自分を失った者が負ける」
そう言って男は、与六の髪を片手で鷲掴みにし、無理やり顔をあげ視線を合わせた。与六の頬は涙で濡れており、悔しさで唇を噛みしめ過ぎた口元からは、血が流れていた。
「川に行って顔を洗ってこい」
男が髪から手を離したその隙を、与六は見逃さなかった。片脚を持ち上げ倒し、素早く馬乗りになり、躊躇なく男の眼に指を突き刺す。
男は寸前で首を曲げかわし、与六の首に手刀を打った。与六は男の胸に抱かれるように気を失った。
「鬼の子が……」
投げ捨てるようにはなった言葉とは裏腹に、男の口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
男との立合いは日を増すごとに厳しくなっていった。殴られ、蹴られ、投げられ、絞められ、血反吐を吐く毎日の中、与六は男に、「殺してくれ」と何度も懇願した。そんな与六に男は眉ひとつ動かすことなく「この苦しみから逃れたければ、俺を殺せ」と言い続けた。
冬を迎える準備を始めた山の中で、与六は正対する男を見つめた。
それまで呼吸を乱すことのなかった男の肩が、小さく上下した。打ち込む、と考える前に、与六の身体は動いていた。眉間を狙った与六の拳を、男はかすかに身体をねじり避けると同時に、襟をつかみ宙に投げ飛ばした。
猫のように背を曲げ地面に軽やかに足をつき構えた与六に対し、男が一瞬で間合いを詰め拳を放つ。その拳は腹に見事に入ったかに思えたが、与六は指一本ほどのわずかな間隔で身体を引くことによって、拳の勢いをすべて殺した。
打った拳の力をとっさに殺すことは、稽古だけで身につけられるというものではなかった。それは天賦の才がもたらす技だった。
(この童、阿修羅の技をもって生まれた者なり)
男はその言葉を思い出し、切なさと、喜びが複雑に混ざり合った微笑を浮かべた。
「明日から剣術の稽古に入る」
そう言った男の声に、与六は不思議な温かさを感じた。