(6)
平手政秀の必死の説得により、信秀、信長の間にできた親子の亀裂は、一時、修復の兆しを見せたが、信秀が出した条件に納得できぬ信長が、またもや信秀の使者を蹴りつけてしまったことにより、以前にも増して亀裂は大きなものになっていた。
その条件とは、与六を尾張から追放するというものであった。
那古野城、本丸館に姿を現した平手政秀は、鬼気迫る形相であった。
「爺、馬鹿な親父などほっておけばよいと、何度も言っておるではないか!」
「ほっておける訳がございません。百姓の親子喧嘩ではないのです。若と大殿の場合、戦となるのですぞ! 少しは冷静に物事を考えてくだされ」
「頭の固い親父は、与六の価値をわかっておらんのじゃ。なあ、与六?」
部屋の隅でウトウトと半分眠りかけていた与六が、うつろな視線を信長に向けた。
「自分の価値などわからんが、誰かに命じられて、ここを出ていくつもりはない」
「与六! いまお主の気持ちなど関係ない」
顔を朱に染め、怒鳴り散らす政秀を、与六は一瞥した。
「では、俺に訊くな」
「なんじゃその言いぐさわ! わしも若も、お主の事で頭を悩ませておるのだぞ」
「爺、わしは悩んでなどおらんぞ」
クッ、クッと噛み殺すような笑い声をあげた与六を睨みつけ、がくりと政秀は肩を落とした。
この二人と話していると、自分の器の小ささが浮き彫りとなり、悲しくなるときが、政秀にはあった。
「こんなこと考えたくもござらんが、もし仮に大殿と戦をしたとして、勝てる見込みなどありませぬ」
「確かに、難しかろうの」
「そうでございます! まず兵の数からして違いまするからの」
信長が不思議そうに、首を傾げた。
「爺、何か勘違いしてはおらんか? 親父の首を取ることは、それほど難しいことではない。取ったあと、尾張を治めることが難しいのだ」
「えっ?」
「よいか爺。先日の美濃との戦で負けた親父に対して、織田の頭領である価値なしと、清州の大和守や犬山城の信清などが先頭に立ち、戦の準備をしておる」
「真でござるか!」
「嘘ではない……。いまわしら親子が戦をすれば、得するのはそやつらじゃ。それを知っていて、この信長が親子喧嘩を本気ですると思うか?」
「では大殿の使者を蹴りつけたのは、芝居だったのでございますか?」
「わしが本気で怒ったなら、その使者を生かして帰すと思うか?」
「若のご気性からして、斬り殺すでしょうな」
信長が子供のように口を尖らせた。
「そのようなことはござらんと、言うのが爺の役目であろう!」
「あぅ……」
「ま、良い。それより爺に訊きたかったことがあるのじゃ。闇の里なるところに、戦に使えそうな者は何人おる?」
政秀は白くなった顎先の髭を指先でつまみながら、宙を見つめた。
「その時により変わりますが、いま三百はいるかと」
「わしの手元が三百。合わせて六百か……。どう思う与六?」
信長に問われた与六が、不敵な笑みを浮かべた。
「今回は信兄の兵は出さない方がいいな。里の者だけで十分だろ」
何か言おうとした政秀を、信長が止めた。
「爺だけには言っておく。わしと与六は義兄弟の契りをかわした」
政秀は一瞬眼を見開き、開けかけた口を閉ざすと、かすかに頷いた。
「それでこれからどのように?」
「わしと与六は里の者に会いに行こうと思っておる。爺は親父のところに行って話し相手にでもなってやってくれ」
「話し相手でございますか?」
「ああ。今頃、いらぬことで頭を悩ましているであろうからな」
信長の気持ちなど知らぬ古渡城の信秀は、信長の弟、勘十郎信行、付家老、佐久間信盛、柴田勝家の謁見を受けていた。
「それで末森の城はどうなのじゃ?」
信秀の問いに、恭しく頭を下げ、信盛が答えた。
「はい、年内には完成できるよう、大工どもを急き立てております」
「そうか、那古野の城に信長、末森城に信行、三河の安祥城に信広。これでわしは安心してここで新年を迎えられるわ」
「しかし……」
苦渋の表情を浮かべた勝家が、信秀の顔色をうかがうようにして、
「大殿様は、次の頭領は信長様と考えておるのでしょうか?」
「どういう意味じゃ」
「家督のことでわしが口出すなど恐れ多い事と重々承知しておりますが、織田家の行く末のため、あえて言わせていただきます。この頃の大殿様に対する信長様の態度は、目に余りまする」
「他の家臣たちは、なんと言っておる?」
「ここにおられる信行様こそ、次の頭領に相応しいと、みな申しております」
「信行、お主はどう思っておるのじゃ?」
「わ、私は、みながそう言っておるのなら、なってもよいと思っております」
「なってもよいだと!」
慌てて信盛が声を発した。
「大殿様、信行様はお優しい方ゆえ、兄である信長様を思って、上手く言葉が出なかっただけかと」
「もうよい、この話は終わりじゃ!」
投げるようにそう言って、信秀は腕を組み、眼をつぶた。
家臣に守られた信行であれば、尾張を治めることだけは出来るであろう。だが他国を攻めとることなど出来はしない。
食うか食われるかの戦国の世で織田家を任せられる者……。そう考えた時、信秀の頭に浮かぶのは、腹立たしくも、うつけと呼ばれる息子の顔であった。
平手政秀と別れた信長と与六は厩に居た。
信長自慢の名馬が並ぶ厩は、塵一つないほど綺麗に清掃されていた。
厩番の藤井又右衛門が信長の前で、直立した。
「いつ来てもここは心地よい。感謝しておるぞ、又右衛門」
「ありがたきお言葉、恐悦至極でございます」
「今日ここに来たのは、この与六が乗る馬を探しに来たのじゃ」
与六が一歩前に出て、深々と頭を下げた。
「与六と申します。これから何かと世話になると思いますが、よろしくお願いします、又右衛門殿」
「こちらこそよろしくお願いいたします、与六殿」
「又右衛門、お主に任すゆえ、与六に合う馬を一頭連れてまいれ」
与六のつま先から、頭へと視線を走らせた又右衛門が首を振った。
「……おりませぬ」
「おらぬとはどういうことじゃ?」
「申し訳ございません」
「又右衛門殿、俺には馬に乗る資格がないということでしょうか?」
「与六殿は、人馬一体という言葉を聞いたことがありますか?」
「はい」
「馬に乗り戦に出れば、馬はあなたに命を預け、あなたは馬に命を預けることになります。自らの命を軽んじてる人間を、馬は背に乗せません」
信長は二人のやり取りに背を向け、愛馬の顔を撫でている。
一刻も早く里に行かねばならぬこの時に、信長が自分を厩に連れてきた意味を与六は理解した。
「俺はしばらく馬には乗りません。ですがいつか馬に乗るときは、弥右衛門殿が選んで頂けますか?」
「必ずや、日の本いちの馬を、与六殿の前に連れて来ることを約束いたします!」
信長が聞き捨てならんと、振り返る。
「コラっ、又右衛門! 日の本いちの馬はわしに寄越せ」
「そんなことを言ったら、ここにおる馬たちがへそを曲げます」
「ふむ、それもそうじゃな。一頭ぐらい与六にやっても良いか」
まるで馬たちが賛同したような、鳴き声をあげた。




