(5)
四人の男たちは部屋の真ん中にある囲炉裏を囲むように座った。胤栄の正面が弥右衛門、右に藤平、左に乱。
正面に座る弥右衛門をじっと見つめ、拳の一撃で殺せると確信した胤栄であったが、そのあと、この屋敷から逃げ出せるとは思えなかった。
藤平が胤栄の殺気を削ぐように囲炉裏に火鉢を刺すと、炭がパチっと弾けた。
それが何かの合図だったかのように、弥右衛門が口を開いた。
「胤栄殿の眼には、この村はどう映りました?」
「あるようでない、ないようである、まさに蜃気楼のように……」
「蜃気楼……、まさしくその通り。この村は、我が主君である平手政秀が、織田信長様の身を守るために造られた、闇の里でございます」
藤平が身を固くし、咎めるような視線を弥右衛門に向けた。
「大丈夫だ。平手様から信綱殿の知り合いが与六を訪ねて来たら、この村の事を話しても良いと許しは受けておる」
弥右衛門の声は、屋敷中に聞こえるような大きなものだった。
藤平が安堵したように小さな息をひとつ吐くと、屋根裏で数匹の鼠が一斉に走るようなかすかな音がした。その音と同時に、胤栄の肌を刺すような殺気が消えた。
胤栄は何食わぬ顔で話を続けた。
「我が師である信綱を、弥右衛門殿は知っておられたか?」
「はい、私には日吉丸という息子がおりましてな、その息子の命を武者修行中の信綱殿に助けて頂いた事が縁で親しくなりました」
「それではここが与六の故郷?」
かすかに首をひねった弥右衛門の視線が乱に向けられると、乱は眼を伏せた。
「故郷ではございませんが、ここが信綱殿と旅に出る前に与六が住んでいた尾張領、中村でございます」
「偶然たどり着いた場所が与六がいた村とは、拙僧の普段のおこないの良さでございますかな?」
胤栄のとぼけたものの言いように、思わず乱が噴き出す。
「なんじゃ! 拙僧は真面目にそう思ったのだ」
乱が噴き出したのは、胤栄の捨て身の覚悟を感じたからであった。
選び抜かれた三十人ほどの腕の立つ者が、屋敷を囲んでいる気配は、胤栄ならば
すぐにわかったであろう。そのなかで自然体でいられることは、簡単にできることではなかった。
「フッ、フッ。胤栄さん、本当にあんたは胆の太い男だよ。あんたほどの男だったら、いま自分が薄氷の上を歩いていることに、気づかないはずはない」
「人はな、死ぬときには死ぬし、死なんときには死なん。そんなものだ」
二人のやり取りを見ていた弥右衛門は、ニコリと頬を緩ませた。
「それで胤栄殿は、なぜ与六に会いたいのです?」
「師である信綱の言葉を伝えるため」
「よろしければ信綱殿がどのような事を申していたか、聞かせては頂けぬか?」
「はい。我が師である信綱は、与六を強き事がすべてのつまらん男に育ててしまったと悔やんでおりました」
「ほぅ、あの信綱殿が頭を悩ませるほど、与六の腕は立ちますか?」
「いまこの日の本で、与六とまともに立合える者は、そう多くはないでしょう」
自分の事を褒められたように、照れくさそうな笑みを浮かべた乱を、藤平が睨みつけた。
「あの幼かった与六が、それほど強くなるには、厳しい修練を積んだのでしょうな。そして武の技量と引き換えに、何かを失った」
弥右衛門は信綱が与六に何を伝えたいか、瞬時に理解したようであった。
「俺にはわかんねえな。弱いことを悩むなら理解できるが、強くなることを悩むなんて」
「子を持たぬお前には、信綱殿の心は理解できんだろうな」
藤平はそう言いながら、囲炉裏の中に薪を投げ入れた。一瞬小さくなった火が、踊るように炎をあげた。
胤栄はその炎を静かに見つめ、心の中で藤平の言葉を噛みしめた。
最初は胤栄自身、乱と同じ考えだった。強きことがすべてで何が悪いのかと。
この戦国の乱世で、強きことは美点であり、決して汚点ではないと。
胤栄から見て、師である上泉信綱という男は、武の権化のような人間である。その信綱が強さを否定するということは、自らの人生を否定することであった。
誇り高き武人が、自らの人生を否定してまで与六に伝えたい言葉はただひとつ……。
人として幸せになって欲しいという、拍子抜けするほど当たり前な願いであった。
その言葉を聞いたとき、胤栄は思った。血の繋がりはなくとも、与六と信綱は父と子なのだと……。与六の事を語るときの信綱は、まさに父の顔をしていた。
「親父に人の心なんてわかるのかよ……」
喉元に刃を突きつけるような乱の言葉に、顔色ひとつ変えない藤平の指先が、かすかに振るえたのを見た胤栄は、陽気な声で話を変えた。
「それでいま与六はどこに?」
「信長様の屋敷におります。ですが大きな問題を抱えておりましてな」
「問題とは?」
「信秀が、与六の首を差し出せと言っておるのでございます」
織田の頭領である信秀を呼び捨てにした弥右衛門に、違和感をもった胤栄であったが、いまはそんなことより与六のことであった。
「なぜそんなことに?」
「与六が信秀の弟、信康の首を飛ばしたからでございます」
「ああ……。そうであったか」
馬上で指揮していたところから、名のある武将だとは思っていたが、信秀の弟だったとは。胤栄の背に冷たい汗が流れた。
「それで与六は無事なのですか?」
ここに来て初めて見せた胤栄の真剣な表情に、他の三人は同時に高笑いをあげた。
それを見て眉根を寄せた胤栄に、弥右衛門が頭を下げた。
「問題とは、与六の身が危ないということだけではないのです」
「どういうことです?」
「数日前、信秀の使いが信長様に与六の首を差し出せと詰め寄りましてな。普通であれば、父であり頭領でもある信秀の言葉に逆らえるはずもございませぬが、信長様は使いの者を蹴りつけ、与六の首が欲しければ、わしと一戦交える覚悟があるか、親父に聞いてまいれと、烈火のごとく怒鳴りつけたのでございます」
思わずごくりと胤栄は唾を呑んだ。
「それで?」
「いま、平手様が二人の仲を修復しようと走り回っております」
「そうでござるか……」
太陽が雲に隠れ、部屋に差し込んでいた白色の光が弱まると、暗き影を連れてきた。その影に寄り添うような乱の低い声が、部屋を包み込む。
「平手様も早く信秀を見限って、信長様を頭領にすればいいのによ。俺に言ってくれれば、信秀の首ぐらい、すぐに飛ばしてやるのに……」
藤平がかすかに顎を引き、弥右衛門が冷酷な笑みを口元に張り付けた。
四人の頭の中では様々な思いが渦巻いていたが、それからしばらく誰も口を開こうとはしなかった。
その頃、信長の居城である那古野城は、天地がひっくり返ったような大騒ぎであった。それは、信長が父である信秀の使者を斬り殺し、謀反を起こす準備をしているという、噂が流れたためであった。
実際は使者を蹴りつけただけであったが、噂が独り歩きし、斬り殺したと大きな話になっていた。
信長はそんな噂など気にする様子もなく、畳の上にゴロリと横たわり、開け放たれた障子の向こうで剣を振り続ける与六を見ていた。
十日前に死の淵を歩いた者とは思えぬ、見事な剣さばきである。
「おい、いつまで剣を振り続けるつもりじゃ? 早うこっちに来てわしの話の相手をいたせ」
与六がムスりとした表情で、信長を睨んだ。
「まだ一刻(二時間)も振っておらん」
信長は与六のその表情が好きだった。自分に対してへつらうような笑みを向ける者はいても、睨む者などいなかった。身分などを気にしない与六の態度が信長の心を癒していく。
だがその一方で、かすかな憂いも感じていた。
「そんなに剣を振り続けることが、面白いか?」
「面白い、面白くないということではない」
「では、なぜそんなに必死に振り続ける?」
「強くなるため!」
「強くなってどうする?」
与六の手がピタリと、止まった。
「どうした、早く答えんか! 強くなってどうするのじゃ?」
与六の身体から獣のような殺気がこぼれだす。
信長はゆっくりと立ち上がり、庭へ降りると、与六の前に立った。
「小さき世界に閉じこもり、広い世界から眼をそらす。つまらん男になったの与六!」
与六の手が動いたと感じた瞬間、信長の首元に剣先が止まっていた。
「それ以上は言うな……。いくらあんたでも許さない!」
信長は自ら剣先に首を当てた。首から流れた血が、剣をつたい手に落ちると、与六は身体を震わせた。
「お前は戦で仲間を守るためとはいえ、人を斬ったことを悔やんでおるのであろう。そして死んだ人間のすべてを背負って生きようとしておる。そんなことは出来ん。出来ると思うことは傲慢じゃ」
「確かにすべてを背負うことはできないかもしれない。でも、託された小さな思いを叶えてやれる人間でありたい」
信長がかすかに笑った。
「与六、お前の眼にはこの日ノ本どう映っておる?」
「わからない」
「たわけがっ! そんな簡単なこともわからんようになったか与六。眼をつぶり、耳を研ぎ澄ませ」
与六は剣を鞘に納め、固く眼をつぶった。
「何が聞こえる?」
「泣き声……」
「どんな泣き声じゃ?」
「この戦国の乱世に、踏みにじられた人たちの泣き声……」
「そうじゃ、その泣き声はこの乱世を早く終わらせてくれという、民の悲鳴だ」
与六の頬に大粒の涙が零れ落ちた。
「国があって人が生きるのではなく、人が生きて国ができるのだ。お前ならわかるだろ与六?」
「国は器でなければならない……」
「そうじゃ。器が人を縛ってはならん。もし国が人を縛れば、尾張で産まれた赤子は知らぬうちに美濃を憎むことになる」
「うん」
「では、もう一度訊くぞ。強くなってどうする?」
「俺は託された夢を実現させるために、強くなる」
「その夢とはなんだ?」
「この戦国の世を終わらせ、戦のない世界をつくる」
信長の頬も涙で濡れた。
「わしもそんな世をつくりたい」
初めて心から信頼できる友を得た二人の少年は、ここから一気に戦国の世に走り出す。戦のない平和な時代をつくるために……。




