(4)
生い茂る竹林が、陽の熱を遮っている。頬を斬るように叩く風は、冬の訪れがまじかに迫る事を告げるように冷たい。
一歩足を踏み出すたびに、踝までズッポリと埋まるぬかるみの中を、胤栄は乱の背を追うように半刻(一時間)ほど歩いた。
「こんなところを歩かせて悪いな。ちゃんとした道もあるのだが、弥右衛門様の許しがないと、よそ者を歩かせることは出来ないんだ」
振り返りそう言った乱の顔は、どこか悲しげであった。
胤栄が村を歩き感じたことは、音がないことだった。家はぽつり、ぽつりと建っていた。畑には作物もあるし、水田にはしっかりと稲も育っていたが、この村には、人が生きている音がなかった。それなのに、針の先のように尖った視線が、胤栄の肌を刺す。
この村はなんなのだと、喉元まであがった疑問の声を、胤栄は何度も腹の底まで押し戻した。もし乱にそう問えば、何も答えず、うつむく事はわかっていた。これ以上、重い荷物を心に背負わすことは、酷に思えた。
「いや、お主がいなければ、ここまでたどり着くこともできなかったであろう」
「わかってたのか?」
「ああ、ここに来るまで五つ、罠が仕掛けてあった。でもそれが全てではないのであろうが……」
一瞬、何か言いかけた乱に向かって、胤栄は小さく首を振った。
「人は生まれる場所は選べぬが、生き方は選べる。そう思わんか乱?」
「鳥は空を飛ぶし、魚は水の中を泳ぐ。それは生まれた時から決まっていることだろ? 俺も同じさ……」
「辛くはないのか?」
「胤栄さん、辛いと感じれることは、本当は幸せなことだと思わないかい?」
「なぜそう思うんだ?」
「なぜってそれは、心が死んでないって証拠だから……」
胤栄はぴしゃりと乱の頭を叩いた。
「坊主に説教するなど、百年早いぞ!」
「痛ってぇな、糞坊主! やっぱりあの時殺しとけばよかった」
「なに!?」
おどける様に肩をすぼめた乱は、クスクスと笑い続けた。
竹林を抜けると次第にぬかるんだ道が固くなり、三間ほどの川が流れる場所に出た。二人はそこで足を洗い、石に腰かけ、陽の光を反射しキラキラと輝く川面の様子をじっと見つめた。
乱が小石を拾い、川面に向かって投げた。その小石は水面を三度跳ね、向こう岸にたどり着くことなく川底へと沈んだ。胤栄はその小石に、自分の人生を重ねた。
幼き頃から身体が大きく、歯向かう者は力でねじ伏せた。胤栄が十五歳になった頃には、周りの大人たちでさえ、誰もかなわなかった。村の悪童たちを子分にして、人を殺す以外のすべての悪事に手を染めた。そんな胤栄を見かねて両親は仏門に入れたが、生まれ持った性根は、神仏でも変える事は出来なかった。
そんな胤栄を変えたのが師である、上泉信綱であった。
ある時いつものように寺の仕事を放りだし、十人程の子分を引き連れ街道を歩いていると、眼の先に大きな荷物を背負った商人風の男を見つけ、胤栄はニタリと頬を緩めた。
「オイ、あいつの身ぐるみはいでしまえ!」
子分たちが一斉に走り出し、男に飛びかかる。男がかすかに身体を揺すると、子分たちが地面に倒れた。
男は何事もなかったように歩き出し、眼を見開き立ちすくむ胤栄の横を通り過ぎた。
「オイ、待てコラっ!」
腹の底から絞り出したはずの怒号は、小鳥がさえずる程度の小さな声であった。
胤栄は十五年の人生で初めて、恐怖を感じていた。
信綱は立ち止まり振り向くと、ぼそりと声をもらした。
「たしなみの武辺は、生まれながらの武辺に勝れり……( 鍛えて得た能力は、生まれ持った能力よりもすぐれている)」
言葉の意味はわからなかったが、男が自分を馬鹿にしたと感じた胤栄が飛びかかると、このときすでに六尺(1m80cm)近くあった胤栄の身体を、信綱は軽々と投げ捨て何事もなかったかのようにスタスタと歩き出した。
跳ね起き獣のような敏捷さで、胤栄がまた飛びかかる。信綱はめんどくさそうに鼻を鳴らすと、胤栄の手首をつかみ投げ捨てた。
何度やっても胤栄は男の着物にさえ触れる事が出来なかった。幼き頃から強さだけを誇りに生きてきた胤栄にとってそれは耐え難い屈辱であった。
頬に一粒涙がつたうと、幼き頃から溜まっていたすべての怒りを吐き出すように、胤栄は嗚咽をあげて泣き出した。
信綱はあきれたように首を振ると、平伏し地面に額をこすりつけ泣いている胤栄の肩に手を置いた。
信綱との出会いから五年後、二十歳の時に弟子となった。信綱と出会わなければ、乱が投げた小石のように、川底に沈み、二度と浮き上がることのない人生であったであろう。 こんな事を思い出したのは、乱が昔の自分と重なったからであった。
「お主は誰に武術を教えてもらったのだ?」
「誰にも教わったことはない、我流さ」
もし乱に自分が槍術を教えたなら、そう考えると胤栄の胸の奥が、ザワリと震えた。信綱が与六にすべての技を教えたように、胤栄も誰かに技を継いでもらいたいという想いはあった。
「胤栄さん、あんたと与六の師匠は、かなり腕が立つのかい?」
「一騎当千という言葉は、あの方のためにあるのだと拙僧は思っておる」
「胤栄さんより強いのかい?」
「蛇と龍ぐらいの力の差があるであろうな」
「へぇー、俺が負けたあんたより、強い人間がいるなんて信じたくねえな」
「互角であったと、拙僧は思っておる」
「手を抜かれたのがわかんねえほど、俺は馬鹿じゃないよ」
「手を抜いたつもりはない」
「いや、あんたが俺の足元に鉄杖を投げたときに気づいたんだ。その鉄杖、普通の人間なら、持ってられないほど重いはずだ。それをあんたは、棒切れのように振り回していた」
「だからといって、お主が負けたことにはなるまい」
「胤栄さん、あんた槍が得意なんだろ。身体の使い方を見ればわかる。槍を持たないあんたと互角だった……。俺は負けたのさ」
勝ったことを誇る人間は多いが、負けたことをしっかりと認めることができる人間は少ない。
乱の潔さが、川面を照らす陽の光よりも、胤栄にはまぶしく思えた。
岩壁を背負う様にして大きな屋敷が建っていた。その家を囲むように、三十件ほどの小屋が見えた。
その屋敷の前で老人が草鞋を編んでいる。それを見た乱が、槍の石突きを地面に叩きつけ、チッと舌打ちした。
「どうした?」
「親父がおる」
「親父どのがおると、何かまずのか?」
「まずくはないが、めんどくさい」
「それはしかたないであろう。親父とはめんどくさい生き物なのだ」
「フッ、フッ、あんたの親父もかい?」
「ああ」
乱は軽く肩をすぼめると、老人の前へと、歩みを進めた。
「親父、弥右衛門様はいるか?」
「なんじゃ馬鹿息子、今日は山で仕事ではなかったのか?」
「本当ならばそうだったんだが、客人を見つけたのでな」
客人とは、侵入者のことなのであろうと胤栄は思った。
「で、その客人が弥右衛門様になんの用事だ」
「そう警戒しなくても大丈夫だ、俺がちゃんと、もてなしてある」
老人の視線が、布で縛られた胤栄の指に注がれた。
「お前のもてなしは甘いからの……。信じてよいものやら」
「チッ、大丈夫だ。それにこの人は与六の知り合いだ」
「なに! それを早く言わんか、馬鹿息子」
老人はニコリと頬を崩し、胤栄に頭を下げた。
「藤平です」
「拙僧は、胤栄と申します」
「胤栄殿、弥右衛門様に伺いをたてるゆえ、しばしお待ちくだされ」
足早に藤平が家の中に入って行った。板張りの廊下を走る藤平の足音はかすかなものだった。
近くで見た藤平は胤栄が思ったほど、老人というわけではなかった。身体に染みついた穢れが、老けて見せたのかもしれない。
それほど待たぬうちに、藤平に連れられ、片足を引きずりながら、痩せた男が戸口に現れた。
「私はこの村を治める弥右衛門という者でございます。与六をお探しのようで。まぁ、家で茶でも呑みながら、話をいたしましょう」
とろけるような笑みをこぼした弥右衛門だったが、視線は胤栄のつま先から、頭上へと鋭く動いていた。
胤栄は、生きてこの屋敷から出られるだろうかという不安を隠し、弥右衛門に導かれるまま、屋敷へと入って行った。




