原点
与六は赤子の時に天王坊の境内に捨てられた孤児であった。
この時代そんな事はめずらしい事ではなく、山の中に捨てられ獣の餌にならなかっただけ与六はましな方だった。
親に捨てられたということに対して、悲しみも怒りもなかった。ただ自分はそういう人間なのだと理解しただけだった。
昔から寺の小坊主たちとは反りが合わず、生意気だとよく殴られた。 最初は我慢していたが、あまりにしつこくからんでくるので、自分を一番殴った小坊主が寝ている隙に、木魚で鼻を殴った。
鼻を打たれた小坊主が手足をバタつかせ板張りの床をのたうち回ると、グシャリと曲がった鼻から流れ続ける鮮血が勢いよく辺りに飛び散った。
寝ていた他の者たちが何事かと一斉に起きだし、その異様な光景を見て固まった。
小坊主たちの愕然とした表情に満足したのか与六はかすかな笑みを浮かべると、何も言わず部屋を出て行った。
それから与六を殴る人間はいなくなったが、同時に話す相手も失った。
自分は生まれた時からひとりだったのだ。そう思うことで孤独という痛みを消した。
そんな与六の人生に、光をくれたのは、吉法師、後の織田信長だった。
天へ向けて巻き立てた茶せん髷、片肌ぬぎの着物には見たこともない獣が刺繍され、帯に瓢箪やら火打石やらの袋などをぶらさげた、肩で風切る吉法師を見た時、言葉ではいい尽くせぬほど与六の心は高鳴った。
寺の小坊主たちは、うつけが恥ずかしげもなく、またあのような奇妙ないでたちで来よったと、陰口を叩いていたが、あの姿を見てそんな事しか感じられぬ小坊主たちを、与六はいつも心の中で笑っていた。
そんな与六であったが、五歳の時に天王坊を追い出される事となる。
追い出される理由は色々あったが、決定的だったのは木魚で鼻を殴った小坊主が、名のある武家の息子であったのが一番の理由であった。
寺を出た与六を待っていたのは厳しい現実だった。孤児である与六には、頼れる人も、場所もない。
一歩足を踏み出すたびに、このまま飢えて野垂れ死ぬのではないかという恐怖心が沸き起こり、それは五歳の幼子にとって死を予感させるには十分であった。
道中何度も寺に戻って謝ろうとも考えた。だがそんなとき、頭の中に吉法師の姿を思い浮かべ歯を食いしばり弱い心を打ち消した。
そんな与六の頑張りを天が見ていたのか、ある人物と出会い、尾張の端に位置する村で住む事を許された。
その村の長である弥右衛門は、与六が六歳になった時、薬を売ることを生業としている男と一緒に旅に出した。
その男は、切れ長の目に、小ぶりな鼻で、口元は世をすねたようにいつもきつく結ばれており、身体は細身であったが、獣のようなしなやかさをもっている不思議な男であった。
男との旅が五日目に入ると、美醜と言っていい与六の顔は、見る影を無くした。
猫の瞳のように愛嬌のあった眼が疲労でくぼみ、ふっくらとした頬は削げ落ち、女子のように可愛らしかった唇は、カサカサに乾き、ところどころ、ひび割れていた。
小さな与六にとって旅は苦痛でしかなかった。なぜ自分がこんな旅を続けなければならないのか男に尋ねると、男は与六を睨みつけ投げるように「知らん」と言った後、二度とそんなことを訊くなと怒鳴った。
男と旅をするようになって半年が過ぎた頃、与六は男が寝ている隙に逃げ出した。銭も食料もなく、帰る場所も失ったが、男の元から離れられればそれでよかった。
半刻走り続け、山の中に逃げ込み、乱れた息を整えながらこれからどうやって生きていこうかと考えていたとき、背後で草が揺れるのを感じ振り向くと、男が立っていた。
「逃げた先にあるのは、一瞬の快楽と、一生続く後悔だ」
男はさげすむような眼で与六を見つめそう言うと、背を向け歩き出した。
与六は恥ずかしさと怒りで我を忘れ、男の背に飛びかかった。
男が振り向くと同時に、与六の腹に石で殴られたような強烈な痛みが走った。
打ち上げられた魚のように口をパクパクと開き、地面にのた打ち回る与六を見ても、男はどんな感情も顔に出さなかった。
町で薬を売り銭を得ても、男は決して宿に泊まろうとはせず、身を隠すように近くの山で寝食を繰り返す毎日を続けた。
その暮らしの中で与六は男に、獣の捕り方を教わった。兎を捕るとき、男は石を使った。男の手から放たれた石は、兎の小さな頭部をぐしゃりと砕いた。距離にして三十尺(約十メートル)男は一度もはずすことはなかった。
男との旅が一年過ぎたころから、食料を捕る事は与六の仕事になった。初めて食料を捕ることを任されてからの三日間、与六は懸命に野山を駆け回ったが、簡単に思えた獣を捕ることが、どうしても出来なかった。
四日目の朝、与六は男に向かってへつらうような笑みをこぼし懇願した。
「もう腹が減って動けません。あなたなら簡単に獲物がとれるでしょ。お願いします、何か食わせてください」
木に背をつけ座っていた男が立ち上がるのを見て、与六はこれで飢えずに済むと胸をなでおろした。
与六の前に立った男の右腕がかすかに動いた瞬間、頬に熱を感じ、その熱が痛みに変わり始めた頃 与六は自分が殴られたことを理解した。それほど男の動きは速かった。
与六が顔をあげると、男は眼を細め自分を見ていた。
「食することは相手の命を奪う事だ。その覚悟がないのなら、飢えて死ね」
そう言って男は、先程と同じように木に背を預け座り、眼を閉じた。
与六は男の顔をじっと見つめた。男の頬は削げ、顎が尖っていた。自分と同じく、男が何も食べていないことがわかった。
男は獲物を捕ることが出来るのに、そうをすることをしなかった。この男は命をかけてまで、自分に何かを教えようとしている。そう思うと、へつらうような笑みをこぼし懇願した自分の醜さが恥ずかしくなり、与六は踵を返し駆け出した。
その日の午後、与六は草むらに身を隠し、獲物が近づくのを待ち続けた。
日が傾きかけた頃、雪のように白い毛の兎が与六の眼の端にとまった。与六は腰に下げた袋から石を出し、気を静めるように、ふっ、と短い息を吐いた。
兎は耳をぴくりと動かしたあと、与六が隠れる草むらの方に顔を向けた。
今から自分はあの兎の命を奪う。そう考えると手に持つ石が急に重くなり、岩にでもなったかのような錯覚を起す。その時、男の声が頭の中でこだました。
(食することは相手の命を奪う事だ。その覚悟がないのなら、飢えて死ね)
与六は唇を噛みしめ石を放った。石は兎の頭部に当たったが、男のように一撃で仕留めることはできず、兎はふらふらと逃げ出した。
草むらから飛び出し、兎に走り寄ると、与六は止めを刺した。雪のように白かった兎の毛が、赤く染まっていく。与六は眼に涙を浮かべ、しばらくその場に立ちすくんでいた。
男のところに戻ると、男は何も言わず、集めた薪に火をつけ、皮をはぎ兎を焼いた。
鼻の奥をくすぐるような肉からこぼれる脂の匂いに
与六はごくりと唾を飲んだ。
男が焼けた肉を差し出すと、与六は飢えた獣のようにかぶりついた。
口の中に広がる肉の味は、今まで食べたどんなものより美味かった。
「忘れるな。お前はこれから、その兎のぶんまで生きねばならん」
男の言葉が胸の中に染み込んでくる。
与六の眼から、大粒の涙が零れ落ちた。




