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天下人の音  作者: 和心
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天命

 尾張領、信長の隠れ家


 板の間にひかれたござの上で、死んだように眠る与六の様子をじっと見つめていた信長の元に、池田勝三郎が現れ片膝をついた。


「若、薬師くすしを連れてまいりました!」


 織田家に仕えるその薬師は、信長に平服すると、口上を述べ始めた。


「若様、このたびの戦、誠に口惜しゅう……」

 

「たわけっ! 早うこやつを診ろ」


 薬師の口上を首元に刃をあてるような鋭い声で恫喝し、鷹のような鋭い眼差しで睨みつけると、薬師は肩を震わせ膝を進め、与六の額に手をあて苦い表情を浮かべた。


「なんじゃ、どうした!」


「熱がこうございます」


「そんなことわしでもわかるわ! 早う治せと言っておるのじゃ!」


 薬師が大きく頷き震える手で与六の着物を脱がせると、そこにいる者みな同時に息を飲んだ。


 肌があらわになった与六の身体は、刀傷と痣で埋め尽くされていた。だがその傷は戦で出来たものではない。男との修練のなか負ったものであった。


「この身体であの戦場に立っておったのか……」


 生半可なことでは動じぬ信長でさえも、眼をそむけたくなるほどの痛々しい光景であった。


 薬師が地に頭をめり込ますように、額を畳に擦り付けた。


「申し訳ございませぬ。私には手の施しようがありません」


「なに!」


「息をしていること事態、信じられぬ状態でございます」


「どうやっても助からぬというのか?」


「残念ながら」


 信長は浮いた腰をどすりとおろし、天井を睨んだ。


「で、あるか……」


 信長は薬師と勝三郎を部屋からさげると、木桶に張った水に布を浸し、与六の身体を隅々まで拭いた。


 信長はなぜこれほどまでに眼の前の少年に固執するのか、自分自身わからなかった。昔、二言、三言、話しただけの、縁もゆかりもなく、もちろん血の繋がりもない少年。だが与六が死ぬと考えただけで、怒りと悲しみで今にも叫びだしそうになる。


「コラっ与六! 早う目覚め。わしに身体を拭かせておいて死ぬなど許さぬぞ」


 地を割るような信長の怒声。だが与六はぴくりとも動かない。


 それから何度も信長は「死ぬことは許さぬ」と言い続けた。




 二刻経っても与六は目覚めなかった。


 障子から差し込む月の光が、薄暗い部屋で横たわる、与六の青白い顔を浮かび上がらせる。かすかに聞こえる呼吸音だけが、与六が生きている証しであった。


 信長が部屋の燭台に灯を入れようと立ち上がった時、渡り廊下を力強く踏みしめる足音が聞こえ、襖の前でぴたりと止まった。


「だれじゃ?」


「平手の爺でございます。入ってもよろしいか?」


「爺か。入れ」


 政秀は襖を開け中に入ると、深々と頭を下げた。


「若、ご無事で何より」


「ああ」


「大殿も命からがらでしたが、先ほど無事に古渡の城に戻られました」


「そうか……。兵の方は?」


「確かな人数はわかりませぬが、二千ほど亡くなったようです。ですがその大半は民兵で、織田家の者で亡くなったのは、五百ほどと聞いております。その中には若の叔父上、信康様もふくまれております」


「知っておる。ここに眠る与六が斬ったのだ」


「与六が……」


 ゆらゆらと揺れる燭台の灯りが、怪訝な表情で政秀を見つめる信長を照らす。


「なぜ爺が、与六を知っておる?」


「それは……」


「爺は、親父に留守を守るよう言われ、尾張にいたはずじゃ。戦場で見たとは言わせぬぞ!」


 政秀は何かを決心したかのように大きく一度頷くと、信長の眼を真っ直ぐ見つめた。


「これから話すことは、大殿も知らぬ事でございます。それゆえ、他言無用で願いたい。約束して頂けるか?」


 信長が知る、平手政秀という男は、忠義に厚い人間である。その政秀が主君が知らぬことを影でしていたなど、信じられなかった。


「決して他言はせぬ」


 政秀は固く眼をつむると、とつとつと語り始めた。


「尾張の端に位置するところに、弥右衛門という男が治める村がございます」


「弥右衛門……、親父の足軽だった男じゃな」


 政秀はぴくりと眉を動かした。


「知っておられましたか」


「日吉丸というその男の息子に会ったことがある」


「そうでござったか。大殿の足軽だった頃の弥右衛門は、武の腕は人並みでございましたが、頭が良く、端々に眼が届く男でございました。うまく育てば、足軽頭ぐらいにはなっておったかもしれませぬ。ですがある戦で深手を負い、戦場には立てぬ身体となりました。不憫に思ったわしは、何度か薬などを届けてやり、弥右衛門はそれを覚えていたのでございましょう。あるときわしのところに来ると、地に額をこすりつけ、『平手様のためにこの命つかいとうございます』と涙をこぼし言ったのでございます」


「うむ、それで」


「爺は弥右衛門に、闇の里を造るように命じました」


「闇の里?」


「容姿端麗な女子は、他国への間者に育て、屈強な男には武を教え、身の軽いものは忍とし、頭の良い者には商いで銭を稼がせ、年老いた者は近隣の村に怪しまれぬよう田畑を耕す」


「なぜそのような里を造ったのじゃ?」


「すべて若のためでございます」


「わしのため……」


 頷くと政秀は、膝を進め信長に近寄った。


「爺がこれから申す事は、若の耳が痛くなる話になるが、癇癪起こさず聞いてくだされ」


「うむ」


「若は今の織田家でのご自身の状況を、知っておられるか?」


 信長は口の中で噛み殺すように、クッ、クッ、と笑った。


「みなわしを、うつけと呼んでおるのだろ」


「そうでございます! 若の傍若無人な立ち振る舞いは考えあってのものと、爺は知っておりますが、家中の者はみなうつけと、口汚く罵っております。もう少し家中の者を安心させる立ち振る舞いは出来ませぬか?」


「家中の者を安心させてどうする。信長は何をしでかすかわからぬ男と、みな恐れておるから良いのじゃ。それでなければわしの首は今頃、まりのように道端に転がっておるわ」


「それほど家臣を信用出来ませぬか?」


「もうよい爺、あまり笑わせるから涙が出てきたわ。ほれ、爺の情けない姿を見て、与六も笑っておるぞ」


 燭台の炎に照らされた与六の頬に、かすかな色が戻ってきた。


「若、このままでは廃嫡はいちゃくされますぞ!」


 信長は木桶に浸した布を、破れんばかりにきつく絞った。


「美濃の蝮、越後の長尾、相模の北条、山城の三好、みなそうではないか」


「何がでございます?」


「主人が弱くなれば、どこの家臣でも主人を打ち取り、自分が頭領となっておる。

親父もそうではなかったか」


「それは……」


「爺、尾張だけが国ではないぞ。親父が亡くなれば、斎藤、今川、松平、ここぞとばかりに攻めてこよう。そのときのため、信長はうつけでおらねばならんのだ」


「ですがそれでは、若が織田家の頭領となった時、誰もついてはきませぬぞ!」


「それを予見して爺は、闇の里なるものを造ったのであろう」


「あっ……」


 まさにその通りであった。信長の将来を危惧し、信長を守るために造ったのが闇の里であった。


「その才能の一部でも家臣に見せれば、誰もが次の頭領は若だと認めますのに、なぜあえて茨の道を歩みなさる?」


 信長はカッと眼を見開き、爆風のような気を放つ。


「わしが歩む道は茨などではない……。天下人の道じゃ!」


 政秀は大粒の涙をポタポタと流し、袴を濡らした。


「その言葉、他の家臣に聞かせることができぬのが、爺は口惜しゅうございます……」


「爺と与六、二人が知っておればそれで十分じゃ」


 そう言って信長は微笑し、与六の額に浮かぶ汗を優しく拭った。


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