(6)
中央に陣を構えた胤栄たちに信長軍は襲いかかった。
信長の兵は及び腰の信康の兵たちとはまるで違った。指揮する信長の気迫が乗り移ったように、勇猛果敢に攻め立てる。
胤栄の奮闘によりなんとか陣を崩されずにはいるが、永くは持ちそうになかった。
その光景を見ても与六は動けずにいた。信長の存在が与六の身体を見えない鎖で縛りつける。
(このままでは仲間が殺される。だが俺に信長が斬れるのか……)
我に返った信康は怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤に染めながら、兵に怒声を浴びせた。
「わしに刃を向けたその小僧を斬り殺せ!」
与六めがけて一斉に槍が突き出された。
普段であれば胤栄の槍の速さに到底およばぬ信康の兵が繰り出す槍をかわす事など、呼吸をするように自然と身体が動く与六であったが、今はただ自分に迫る無数の穂先を見つめることしか出来なかった。
鮮血が舞った。
大きく眼を見開いた与六の口元からかすかに声が漏れる。
「……なぜ」
その声に答えたのは、与六を守るために立ちふさがった仲間の兵たちであった。
「与六様は死んではならん。生きて身分など無くても笑って暮らせる世を作ってください」
そう言ったのは与六よりいくつか年上の若き兵であった。
「そうじゃ、わしの孫にはそんな世の中でのびのびと生きて欲しい」
そう言った老兵の腹には深々と槍が刺さっていた。
与六の周りを囲んだ兵たちの胸を、容赦なく敵の槍が貫く。
与六の頭上から、血の雨が降りそそいだ。
兵たちは胸に刺さったその槍を両手でしっかりと握り、一歩、一歩、前進して行く。
「わ……しらの、大将は……、この先の世の希望じゃ。……決して奪わせはせんぞ!」
信康はガタガタと身体を震わせ、狂ったように甲高い声を上げた。
「早くそやつらを殺せ! 殺せ! 殺せ!」
そのとき戦場を凍りつかすような冷たい呼吸音と共に、全身を血で染め上げた修羅が、信康めがけて走り出した。
与六の中に眠っていた修羅の血が解き放たれた事に気づいたのは、この戦場で信長と胤栄二人だけであったろう。
まずは仲間の兵を殺した敵を瞬時に斬り倒すと、与六は雄たけびをあげ眼の前の敵を、三人、四人と斬り伏せていく。
三人の槍兵が与六の前に立ちふさがった。敵を突っ切るようにしてその中に飛び込み、突き出された槍を二本弾き飛ばし、羅刹を横に一閃させ残ったひとりの腹を斬り、駆け出した。
横から突き出された槍の穂先が肩を掠めた。その敵を無視して、与六は唇を噛みしめ駆け続ける。
狙うは信康の首ひとつ。それまで出来るだけ体力を温存しなければならない。
前方で弓の弦が引き絞られる。
与六は十人ほどの敵の中に躍り込み矢から逃れ、二人斬り倒し、その隙間から抜け出した。
信康のところにたどり着くまでには、まだかなりの距離があった。
本当に自分はあの場所にたどり着けるのだろうか。そんな不安が頭をよぎる。
(いや、必ずたどり着いて見せる。そうでなければ自分を守って死んでいった仲間に合わせる顔がない)
折れそうになる心を奮い立たせ、与六は羅刹を振り続けた。
ひとりの少年の武が戦場の空気を一変させていた。
羅刹は敵の血を吸うごとに切れ味を増していく。
信康軍も死に物狂いで与六に斬りかかるが、刃を合わせられる兵はいなかった。
その中で名乗りを上げて与六の前に立ちふさがった恰幅の良い武将がいた。腕に自信があったであろうその男も、刃を合わせる前に首が宙を舞った。
息があがり、肩が激しく上下する。酸素を欲しがる肺は、破れんばかりの痛みで疼く。眼の前が明滅し、敵の顔がわからない。それでも身体は自然と刃をかわす。
男との修練に明け暮れた四年の年月。日数にして千四百六十日。
武にだけ生きたその時間は、決して与六を裏切らなかった。
「バッ、バッ、化け物がっ!」
与六が声のする方に顔を向けると、歯の根が合わぬほど身体を震えさせた信康がいた。
与六は信康の眼をしっかりと見据えた。
「食することは相手の命を奪う事だ。その覚悟がないのなら、飢えて死ね……」
与六は最後の力を振り絞り羅刹を一閃した。
信康の首がどすりと地に落ちた。その顔は驚きで眼球が飛びでんばかりに開かれている。
戦場は嘘のように静まり返った。
そこに地を割るような下知が飛ぶ。
「織田の兵は今すぐ尾張に帰るのじゃ! この戦、わしらの負けじゃ」
信長の下知により織田軍は兵を引いた。美濃の兵も、追うことはしなかった。
信長はゆっくりと与六に向かい馬を進めた。
二人の視線が交差する。
与六はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
信長は馬上から飛び降り、与六を肩に担ぐと自分の馬に乗せ、胤栄に視線を向けた。
「連れて行ってもよいか?」
「ああ」
信長は馬に飛び乗り、風のような速さで走り出した。




