(3)
胤栄のあとに続き走り出した与六の心は揺れていた。今から闘う相手が織田勢だということが、与六の足を重くさせた。
いつか信長と共に、この戦国の世を駆け巡る自分の姿を、何度夢見たことであろう。それなのに敵として闘うことになろうとは……。
前を走る胤栄がピタリと足を止め、キョロキョロとあたりを見渡し、人の姿がないことを確認すると与六に視線を向けた。
「今なら周りに誰もおらぬ。闘う事が嫌であれば、逃げ出しても良いのだぞ」
立ち合いの時ですら笑みをこぼしていた胤栄が初めて見せた真剣な表情に、与六は思わず身を固くし、口を真一文字にきつく結んだ。
そんな与六の姿を見て胤栄が優しく微笑む。
「逃げるという事を、お前は恥ずべきことだと思っておるかもしれんが、逃げることで生きられるのであれば、逃げることは正しい道のひとつなのだ」
「俺は誰からも逃げたりしない!」
「そうであろうな……。お前ほど武の神に愛されている者であれば、逃げずに生きていけるかもしれん。だがこれからお前は三百の兵の命を預かるのだ。それがどれほど重いものかわかっておるのか? 若輩であろうが、初陣であろうが、道三殿がお前に兵を預けた時点で、その者たちは、嫌でもお前に命を預ける事となる。お前の指揮ひとつで一瞬にして、兵は命を失うのだぞ。それは自分が死ぬ以上に辛きことぞ」
与六は拳を強く握り、固く眼をつぶった。瞼の裏にまだ見ぬ兵の顔が浮かび上がり、叫びだしたい程の恐怖が深い闇となって与六の身体を包み込む。
逃げ出すことは恥ではないという胤栄の言葉が、闇の中で唯一の救いのように光の道を創っていた。与六はその光に向かって一歩足を踏み出した。
心がフワリと軽くなる。もう一歩……。
背に羽が生えたように身体が軽くなった。
(そうだ、俺がここから立ち去れば、多くの兵の命が助かるかもしれない。逃げることも正しいことなのだ)
与六が我を忘れ走り出そうとした瞬間、光の道の先で兎がピョンと大きく跳ねた。
足を止め、兎を見た与六は、思わず息を呑む。
その兎は、雪のように白い毛を血で赤く染め、何故か悲しそうに、ただじっと与六の眼を見つめていた。
与六は固くつぶっていた眼をカッっと開き、胤栄に向かって吠えるような声をあげた。
「もし兵が死ねば、俺はその人間の命の分まで生きるだけだ」
ぴしゃりと額を叩き、頬をゆるませた胤栄が大きく二度うなずいた。
「よし、その覚悟があれば戦場で気が動転することもないであろう。では、行くぞ!」
「オゥ」
胤栄の後に続き走り出した与六は、心の中で兎に誓った。
(お前から奪った命、決して無駄にはしない)
織田勢は稲葉山城近隣の村々を焼き払い、町口にまで迫っていた。
ここまで順調に進軍してきた織田勢は士気も高く、眼前にそびえる難攻不落の城と名高い稲葉山城を、一気に呑みこむ勢いであった。
だがその勢いの中、信長だけは何度も物見を出し、些細な事でも報告させた。その報告の中で道三が籠城したと聞き、信長は思わず舌打ちした。
「巣に潜む蝮ほど危険なものはないのう。むやみに巣に手をつっこめばその手を噛まれ身体中に毒が回り死に至る。これでは親父も頭が痛かろう」
どこか他人事のように話す信長に、前を歩く少年隊のひとりが問いかけた。
「若ならどう攻めるんじゃ?」
周りにいたほかの者も、信長の答えに興味をそそられ自然と歩みを止めた。
ここに平手政秀などが居たら、質問した者の態度に、眼を釣り上げて恫喝したであろう。だが信長は自ら集めた兵には寛容であり、微かに笑みをこぼし答えた。
「たわけッ! わしなら今すぐ尾張に帰って、湯漬けでも喰らうわ」
信長の返答を聞いた若者たちが一斉に腹を抱えて笑い出し、方々で「流石、俺らの大将じゃ」と歓声が上がった。
これは稲葉山城を見て萎縮しかけた兵の心を和ますための、信長流の優しさであった。傍若無人に見えて信長ほど人の心の動きに敏感な者はまれであり、それ故に、怒りや悲しみも人一倍感じやすいのであった。
信長の予想通り、最後尾に位置する信秀は、頭を抱えていた。
「道三の激しい気性では籠城などありえん」と昨夜重臣たちとの戦協議にて決めた信秀であったが、無理やり平手政秀に連れられて来た信長が、憐れむように自分を見つめる視線が気になり、籠城させぬ布石として近隣の村を焼き払った。
だが道三はそんな信秀の心を読んだように、無慈悲にも村に住む者たちの命を捨て籠城した。
簡単に民の命を捨てることなど出来ない。それは優しさなどではなく計算の上に成り立つことである。
民の命を守らなければ、国は成り立たない。いつの時代も自分の生活を脅かす頭領など許されるはずはないのだ。
それを知りながら民を捨てた道三の懐の深さを、いまさらながら信秀は思い知ったのである。
城を攻め落とすには三倍の兵力を必要とするとはよく聞く話だが、稲葉山城に対しては三倍では足りなかった。それに信秀自身が、籠城戦を得意とはしていなかった。
決して信秀が戦下手というわけではなく、武将には得意とする戦法が少なからずあった。
腰を据え、じっくりと相手の戦況を窺うことを必勝とする者。
一気に野戦に持ち込み、相手を喰らい尽くすことを必勝とする者。
信秀はまさに後者の代表であった。
頭領としての信秀は、ここで自分の意思を示さねばならない。
攻めるか、引くか……。
「一旦兵を引き、戦備を整え道三を打ち取る」
信秀の下知が高らかに発せられると、周りの重臣たちは胸を撫でおろした。このまま攻めても、いたずらに兵の命を捨てるようなものだと考えたからである。
だが、前線で闘う兵の考えは真逆であった。眼の前にある城を落とさなければ、自分たちの家族を養う銭がもらえないのである。
どちらの考えも間違ってはいない。だが信秀が発した言葉は、兵の心に宿る闘いの炎を消してしまった。
前線に居た信長に、信秀の言葉が伝えられると、早秋の空を睨みつけ「で、あるか」そう一言つぶやいた。それは、兵の心の動きを感じ取ることが出来た信長に対し、父、信秀が兵の心を読み違えたことに対する、寂しさがふくまれた言葉であった。
このとき信長は、父の時代が終わり、近い将来、自分の時代が来ることを確信したのであった。




