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天下人の音  作者: 和心
13/25

(2)

 息を切らし現れた村松春利の説得によって渋々鶯山城に移ることを承諾した帰蝶と別れ、与六は初めての戦場いくさばに向かっていた。


 大地が揺れ、顔にまとわりつくねっとりとした風に、かすかな血の匂いが混じっている。


 与六は汗が止まらぬ手のひらを着物の胸元で拭い、背に担ぐ愛刀羅刹の柄を握り、高ぶる心を静めた。



 尾張国中から集めた二万を超える軍勢の中に、信長率いる、少年隊三百がいた。


 手に長槍を持ち隊伍を組んで進む姿は、周りのどの部隊より整然とし、信長の指揮能力の高さを表していた。


 戦とは何か……。信長は馬上でそんなことを考えていた。


 なんの罪もない人間の土地を奪い、抗う者の命を喰らう。何が善でなにが悪か、そんな単純な想いなど入る余地がない地獄……。戦場では、我儘わがままな者が生き残り、優しい者が死んでいく。そんな理不尽がまかり通る場所に自分は足を踏み入れたのだ。


 信長の前には、手に槍を持った三百人の悪童たちが意気揚々と隊伍を組んで歩いている。その一人ひとり、信長が幼少の頃から村を回り集め、密かに訓練を積んできた者たちであった。


 この中から必ず命を落とす人間が出ると思うと、胸がざわりと震えた。そんな思いをかき消すように信長は無理やり口元に笑みを張り付けた。



 その頃道三は、床几しょうぎに座り、一計を案じていた。


 集められた重臣たちは、そんな道三の声を待ちながら、ある一点を不思議そうに見ていた。重臣たちの視線の先には、大刀を背に担ぎ、口元をきつく結んだ小僧が胡坐をかき座っているのである。


 胸中なんでこんな小僧がここに居るのかと、みな不思議に思っていたが、道三がなにも言わぬので、誰も確かめることが出来ずにいた。


 道三はゆっくりと眼を開け、胡坐あぐらをかき座る与六の顔を、しげしげと見つめた。


 顔はまだ幼く、身体つきは野生の獣のようにしなやかだが、少年の体躯であった。だが、眼の奥には尋常ならざる気力の炎が燃え盛っている。そして道三の眼を奪ったのは与六の手であった。手の甲は女子おなごのように美しかったが、膝に置かれた両手の指の隙間から覗くてのひらは、岩のようにごつごつとしていた。それは気が遠のくほどの修練を積んだ証拠であった。道三自身、若いころは槍の修練に明け暮れた時期があったので、その過酷さが痛いほどわかった。


「小僧、お前ならこのいくさどう進める?」


 思わず重臣たちの口から「えっ」と言葉にならぬ声がもれた。それは道三が戦場で誰かの意見を求める事がまれであると同時に、重臣たちを差し置いて、名も知らぬ小僧に一番に声をかけた驚きからであった。


「知らん」


 鎮座していた村松春利が、腰を浮かし恫喝した。


「小僧、お館様に向かって知らんとは何事じゃ。口を慎め!」


 身分など鼻のはしにもかけぬ与六である。春利の恫喝など草が風にそよぐ程度のことであった。


 場を和ますように胤栄がぴしゃりと額を叩き、高笑いを上げた。


「ハッ、ハッ。いやはや、肝の太いこと。流石、拙僧を打ち倒した男である」


 与六は憮然とした態度で声を発した。


「知らんから、知らんと言ったまで。それに俺はあんたらの仲間になるとは一言もいってない」


 春利は怒りで顔を朱に染め立ち上がり、腰に差す刀の口を切った。


 その瞬間与六の身体は動いていた。一間(1m80cm)の距離を一気に飛び、刀の柄にかけた春利の手を抑えた。


 周りの者たちは、なにが起きたかわからぬようで、ただ眼を丸くしている。


「道三殿の手前一度は許すが、二度目は無いと思え」


 歌人のように透き通った幼き声と相反する、手から感じる殺意に、春利は身体が震えた。それは戦でも感じたことがない恐怖であった。


 胤栄が与六の肩に手を置いた。与六がゆっくりと手を離すと、春利はその場に崩れるように膝を折った。


 斬り殺される覚悟を眼に宿し、何も言わぬ道三に顔を向けた与六は、思わずごくりと唾を呑んだ。


 油売りから下剋上を繰り返し、戦国大名となった男の眼の奥に、暗き炎が立ち上っていた。


「小僧、お前に三百の兵を預ける」


「なに?」


「ハッ、ハッ、ハッ。小僧、三百の兵を打ち取るより、三百の兵を守ることは何倍も難しいことぞ。お前にそれができるか?」


「望むところだ! あっ……」


 与六は道三にはめられたことに気づいたが、遅かった。


「男に二言はなしぞ!」と釘を刺されてしまった。


 道三は床几から立ち上がり重臣たちに向かって地を割るような大声で鼓舞した。


「織田信秀など恐れるに足らず。この道三にかかれば赤子も同然。 皆の者出陣じゃ!」


「オゥ!」


 重臣たちが方々にちり、与六も胤栄に連れられその場を離れた。残ったのは道三と村松春利だけだった。


「お館様、なぜ与六に三百もの兵を預けたのです。いくら武に秀でていても、初陣ですぞ。兵を捨てるようなものではありませぬか?」


「今の織田勢など、どうにでもなる。わしが知りたいのは信秀の嫡男、信長の器量よ。もし世間が言う、うつけであればそれで良いが、偽りの姿であれば、これからの戦略に支障をきたすかもしれぬのでな」


「与六で信長の器量をはかることができますか?」


道三はニヤリと怪しげな笑みをこぼす。


「龍が飛翔する姿が見られるかもしれんぞ。それも二匹の龍じゃ」


 そう言って道三は、早秋の空を見上げ、なぜか嬉しそうに頬をゆるませた。

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