(4)
与六は愛刀、羅刹を枕にして大の字に寝そべり、高く豪奢な屋敷の天井をぼんやりと眺めていた。それは一刻前、山から城下に向かった時には想像すらできぬ光景であった。
(これだけのきらびやかな屋敷を建てるには、どれだけの銭と人がいるのだろう)
「百の兵を使うには、百の兵の腹を満たす飯があれば良い。だが万の兵を使うとき、それとは別に、心を満たす夢が必要である」
これは与六の師でもある男の言葉であった。男は教えるでもなく、自然と与六の心の中に兵法を流し込んでいた。
ここには与六が知る強さとは違う、妖艶な強さが存在していた。
妖艶な強さに魅かれる自分をかき消すように眼をつむると、目蓋の裏に焼きつく、胤栄との立合いを思い返した。
与六は胤栄に勝ったなどと思ってはいなかった。まさに今日の立合いは、読んで字の如く、試合と死合。試し合いと殺し合いの違いであった。
もし今日の立合いが死合いであったなら、胤栄が最初に与六の腹に打った一撃は、石突きではなく、穂先であったであろう。
本当ならばあのとき死んでいたのだ。
修行は辛く苦しいものだった。殺してくれと懇願したこともあった。だが心の奥底では男が本気で自分を殺すことはないと信じていた。その薄皮一枚ほどの甘さが今日わずかな隙となって露呈した。
(食することは相手の命を奪う事だ。その覚悟がないなら、飢えて死ね)
男が自分に何を伝えたかったのか、今はっきりとわかった。
相手の命を奪うときには、自分の命も奪われる覚悟を持っていなければならない。その覚悟がない者が、立合いなどしてはいけなかったのだ。
未熟な自分がどれほど強くなったかなどと考えていたことが、たまらなく恥ずかしくなり、与六は獣のような叫び声をあげた。
その声を聞きつけたのか、人が近づいて来る気配がした。着物の裾が板張りの廊下を擦る音が障子の前でぴたりと止まった。
「そこに居るのは誰です?」
そう問いかけたのは、風鈴のように耳に心地よい女子の声であった。
与六は頬を伝う涙を拳で乱暴に拭い、羅刹を手にし立ち上がった。
障子が開かれると、鼻腔をくすぐる香の匂いと共に、雪のように白い肌に、紅い小袖を着た女子が立っていた。
凛とした涼しげな眼に、小ぶりな鼻、整った口元に笑みをこぼす、器量の良い女子が小さく首を横に曲げた。
「泣いていたのですか?」
問われた与六は顔を伏せた。
「フッフッフッ。泣いても良いではありませんか。悲しければ泣き、腹が立てば怒り、面白ければ笑う。それでこそ人でありましょう?」
母という者を知らぬ与六は、女子としゃべるのが苦手だった。好き嫌いという前に、どう接知れば良いかわからぬのである。
何も答えぬ与六に、女子が一歩近づいた。
「その刀、帰蝶に見せてはくれませんか?」
与六は顔を伏せたまま、首を横に振った。
「だめでございますか?」
かすにかに与六が声をもらす。
「……危険です」
「まぁ! お優しきこと。ですが心配いりません。帰蝶は薙刀を毎日隠れて振っておりますゆえ」
与六は思案したのち、右手に持った愛刀を渡した。
手にした帰蝶は、漆黒に輝く鞘を愛おしそうにしばし見つめたあと、刀の柄に手をかけ、小首をかしげた。
「あれ? 抜けませぬ!」
帰蝶があれこれと色々な手段を使い抜こうとするが、まるで刀に意思があるように羅刹は抜かれるのを拒み続けた。
頬を桜色に染め、小さな汗を額に浮かべる帰蝶の姿に、思わず与六はプッっと吹き出してしまった。
「やっと笑ってくれましたね」
幼子のように無防備な帰蝶の姿が、与六の心にいままで感じたことのない温もりを与えた。
与六は愛刀を受け取ると、一気に鞘から羅刹を抜き、宙にかかげた。
陽の光を反射する白刃の剣は、友の元に帰ってきた喜びを表すように輝いていた。
「この刀は、あなたの友なのですね」
嬉しそうに頷く与六を、帰蝶は見つめた。
肩にかかるほど長い黒髪を藁で編んだ紐で一本にまとめ、眼は猫のように愛らしく、鼻筋が通った鷲鼻で、口は女子のように綺麗いであった。
目の前に立つ美醜の少年が、自分の身長ほどある大刀を本当に振ることが出来るのだろうか。
「振ってみてもらえますか?」
与六は三歩さがると、羅刹を走らせた。
剣が空を斬る音は、信じられぬほど静かであった。未熟な者ほど嵐のごとく剣の音をたてると帰蝶は聞いたことがあった。
一振りするごとに、剣は速さを増していく。与六の足さばきは優雅な舞を見ているようであったが、踏みしめられた畳が潰れるほどの力が込められていた。
剣先が縦横無尽に宙を舞う。
与六の剣に型はない。男との立合いの中、自然と覚えたものである。
戦に出れば四方八方から斬られ、突かれ、殴られるのだから、型など意味がないと男は言った。
修練の中、与六はある愁いを感じていた。それは刀の脆さであった。
甲冑をつけた相手に対し刃の寿命が短い刀ではすぐに斬れなくなってしまうのではないか。それならば鉄の棒で甲冑の上から殴ったほうが良いのではないかと、男に訊いたことがあった。
「確かにお前の言うとおり、戦で刀を使うことは最後の手段と考えてよいだろう。
槍は斬る、突く、殴ると三拍子そろっておるし、弓や鉄砲は敵から遠のくことで身を安全な場所に置くことができる」
「では何故、刀の稽古をしたのですか?」
「まず考え方を変えてみてはどうだ。今のお前は相手を斬ることを前提で話をしているが、相手に斬られると考えた時、刀という武器がどのような物か知っている事と、知らんとでは、雲泥の差があろう。自分の知らぬ武器と向き合うときほど恐怖を感じることはないのでな。お前は刀を実際に使うまで、刀の刃の脆さなど考えたこともなかったであろう。どんな武器、いや、この世にあるすべての物に長所と短所は必ず存在する。それを知ることからお前は始めねばならん」
「はぁ……」
男は首をかしげる与六の頭に手を置くと、ポンポンっと二度優しく叩いた。
「戦で十人殺せば、血が沸騰し、百人殺せば、我を忘れ、千人殺せば、血が凍り、万人殺せば、英雄と祭りあげられる。お前がもし英雄と呼ばれる事になった時には、あの時の兎の事を思いだせ」
与六は剣を止め、鞘に戻しながら、なぜ今その言葉を思いだしたのか不思議な気持ちであった。
帰蝶が感嘆の声を上げた。
「これほどの剣術見たことがございません。帰蝶は狐につままれた気持ちでございます」
与六は照れ臭そうな笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「お名前を訊いてもよろしいですか?」
「与六と申します」
「与六様はなぜここにおるのです?」
帰蝶の問いに返す言葉が無かった。神仏など毛の先ほど信じぬ与六であったが、もしここに居ることが偶然でなければ、それは尾張と美濃の合戦に導かれたと、考えるしかなかった。
不確かな思いを正すように、渡り廊下を走る小姓の力強い足音と、怒声が、帰蝶と与六が居る部屋に不穏な空気を運んで来た。帰蝶の姿を確認した小姓が片膝をつき、頭を下げた。
「尾張の軍勢が美濃の城下に攻め入りました。お館様は戦の準備に取り掛かっております。帰蝶様は鶯山城に移るようにと下知を申しつかりました」
息を切らせ話す小姓とは対照的に、帰蝶は優しい笑みをこぼす。
「私は大丈夫ですと、お父上様に伝えて下さい」
小姓は帰蝶が恐怖で気が動転していると勘違いし、もう一度同じ言葉を繰り返えそうとした。
「尾張の軍勢が……」
「私には与六様がついているとお伝えくだされば、お父上様にも納得して頂けるはずです」
小姓は身分を忘れ問いかけていた。
「与六様とは、何なのです?」
帰蝶は胸を反らし、自慢するように答えた。
「闘いの神でございます」
のちに信長の妻となる帰蝶。のちに信長と戦国の世を駆け巡る与六。まことに数奇な運命であったが、この戦が与六と信長を固く結びつける事となる。
与六十歳、信長十五歳、二度目の出会いは儚くも敵としてであった。




