妹にヌかれた話
「こんなこと」を経験するなんて、日本ではほんの一握りの人間だけだろう。ぼくはそう思った。
まさか、妹に抜かれることになろうとは――。
ぼくは、立花高専に通う、彼女のいない、ごく普通の高専4年生だ。
初っ端からつまらない自己紹介で申し訳ないとは思っている。だけど、これ以上ぼくを形容することばが見つからない。
高専のことをよく知らない人に説明すると、高専っていうのは、端的に言えば、技術者を養成するための5年制の工業系学校。元々国立だったけど、今は独立行政法人化されて、年々予算を削られている(担任の教員から聞いた話だけど)。
中学を卒業してすぐ、ぼくはこの高専へ入学した。つまり、高専4年生は、年齢的には大学1年生にあたる。まぁ、その限りではないのだけれど。
ぼくは数学が大の苦手だ。そんななのに、なぜ高専に入ったのかと言われれば、単純にものづくりが好きだったのと、国語とか社会科といった科目がまったくダメだったからだ(高専にも国語や世界史の授業はあるけど、古典を読まされたり、人名や年号を超暗記させられることはほぼない)。
数学ができないのに、バリバリの理系学校へ来てしまったのは、今思えば選択として間違っていたのかもしれない。高専3年生で高専を辞めて大学に入るという手もあるにはあったのだけれど、文系科目はさっぱりだし、数学もできないから、どの学部へ行こうと地獄を見るのは明らかだった。なら、就職率の良い高専に身を留めるというのが得策になる。
そんなわけで、数学系の単位をギリギリ取得しつつ、4年生まで掛け上がってきた。まぁ、ここに来て問題が生じることになるのだけれど。
高専での教育について簡単に言っておくと、3年生までは普通科の高校でも習うような授業が多くて、その中に専門科目がめり込んでいる感じだ。でも、学年が上がるにつれて専門科目の比率は上がり、4年生以上ともなると、ほとんどが専門科目だ。
ぼくは機械系なので、専門科目となれば、材料力学、機械力学、熱力学、流体力学、制御工学といったものになる。何が問題かと言えば、専門科目のほとんどは数学を使うのだ。
はっきり言って地獄だ。繰り返される日々はまさに。微分積分とか、テイラー展開とか、ラプラス変換とか、フーリエ変換とか。
数学の話をすれば愚痴しかこぼさなくなってしまうので、やめよう。
さて、前置きが長くなってしまったけれど、
ぼくには、歳がふたつ離れた妹がいる。彼女もまた、ぼくと同じ高専に入学した。学科も同じ。機械工学科。
妹は、「かわいい」と言われる部類の人間だ。ぼくとは似通わず。兄弟姉妹なんてそんなもんだろう。両親の遺伝子をシャッフルして生まれてくる、まさに賭けともいえる選択の結果なのだから。
周囲の友達からは、かわいい妹がいてうらやましい、なんて言われることが多いけれど、ぼく自身は、あまりそう思ったことはない。もう少し歳が離れていれば、かわいいと思うこともあるのだろうけど。
妹は、ぼくと違って数学ができる。なので、恥ずかしながら、テスト期間は妹に数学を教えてもらっている。仲は悪くないので、そういう芸当ができるのだ。
そう、あれは忘れもしない1年前の2月のことだった。
ぼくは、いつものように、妹をぼくの部屋に呼んで教えを乞うていた。学年末試験が迫っている。怒濤の専門科目ラッシュ。前期で何単位か落としているから、後期ですべての単位を取らなければ留年が決定する。そんな切羽詰まった状況で、ぼくは少しばかりいらいらしながら勉強をしていた。
妹は余裕の表情だ。こんなぼくとは違って、もう勉強する必要さえも無いのだろう。勝者の笑み。神は残酷だ、と思う。
ひとしきり解法を教わって、ぼくが解き方をもう一度なぞりはじめると、暇になったのか妹は、ぼくのベッドの上でマンガを読みはじめた。年頃の女子であるはずだが、こんな男臭い兄のベッドにためらいもなく寝転ぶのとは、どういう神経をしているのだろう。
そんなことを考えていたものだから、集中力が途切れてしまった。ぼくがうなだれていると、妹が声をかけてきた。
ねぇ兄ちゃん。……溜まってる?
え? なんだよ、いきなり。
溜まってるでしょ。最後に出したのいつ?
え……2週間前かな。
うそ!? そんなに!? 勉強してる暇じゃないんじゃない?
テスト終わってからでいいんだよ!
無理でしょ……。わたしが手伝ってあげようか?
え。
だって、さすがにヤバいでしょ?
そりゃヤバいけどさ……。バレたらまずいよ。
大丈夫だって! まかせて。その代わり、勉強がんばってよ。
あ、あぁ……。じゃあ、頼もうかな。
――。
……。
――そして日は過ぎた。
ぼくは留年した。
試験の成績が、あまりにもひどすぎた。
「とうとうこうなる日が来ちゃったね、兄ちゃん……」
留年決定を通知る書類を見つめる僕に、妹が言った。
妹は、進級決定だ。次は5年生。
ぼくは、次も4年生……。
どうしてこうなった。ぼくは留年しすぎてしまっていた。
何も言わないぼくを横目に、妹は溜め息をつく。
「せっかく溜まってた課題も消化してあげたのに……筆跡でバレないようにしてまでさ」
「いや、本当に申し訳ない……」
「このままだと、確実にわたしのほうがさきに卒業するじゃん? わたしは県外就職するつもりだし、わたしがいなくなったら兄ちゃん卒業できんの?」
「……がんばるしかねぇ」
ぼくはそう言うしかなかった。
――かくして、ぼくは妹に学年を抜かれたのであった。
加えて、ぼくら兄妹の話は高専じゅうに広まり、ぼくはレジェンドの名を冠することとなる。
留年の魔境――高専での生活は、まだまだ続きそうだ。
了