猫と捨て身
会場がエックスの試合を観て興奮覚めやらぬ中、野良猫の陣営から話し声が聞こえて来た。
「本当に良いのですねユイ君。君がこの役目を負う事は無いのですよ」
「それでも誰かがやらねばならないのでしょう、僕自身のケジメでもあります。僕が行きますよ」
何やら重苦しい雰囲気の中、リングに近づいてきたのはユイだ。
あの裏切りの後、学校にも現れず一度だけ見たのは妹を助けて貰った時以来だ。
あいつにも聞きたい事は幾らでもある。裏切った理由よりも、あのヘルメットの正体がカズなのかどうなのか。
それが聞けたら裏切りも納得が行く……と、言うよりそれ以外の説明では納得出来ない。
「ユイ君ですか。彼の腕前も相当なものですもんね、出来るだけ避けて通りたい相手ですがどう来るか……」
今の玉の状況は六対五対四、うちらが五で野良猫が六。キリンが四で一つ下だ。
平均的に取るならうちらからだろうな……
リングに登る前で佇み、ユイが口を開いた。
「僕の相手はシンゴ先輩を指名します」
指名を聞き観客が湧き始める。
「おーっと、これは大胆不敵。なんと先日裏切り行為を行い路地裏猫を敗北に導いた時のチームメイトを指名だ。これは自身の現われか、それとも野良猫を率いるフルフェイスの男の格好と同じく黒く染まってしまったのか!」
熱くなるミッキーと会場とは裏腹にシンゴの緊張の糸が張り詰める。
無理も無い、ユイは強い。ただ武器を持っているから強いなんてチンケな理由じゃない。幼い頃から鍛錬に鍛錬を重ねた本物の武道家の強さだ。
去年タケシが勝ったのもマグレとは言わないがもう一度やって同じ結果になるとは限らないだろう。
「シンゴさん、行けますか?」
「行けるも何もご指名を受けちゃったんだから仕方あるまいよ。聞きたいこともあるしな」
腕をストレッチしながらリングに向かうシンゴ、口調は穏やかだがやる気は十分のようだ。その気迫が背中から伝わってくる。
「まともに口利けるのはあの日以来だな、お前とサトシが俺達の前から居なくなったあの試合……まぁいいか、それは別に大した事じゃない。問題は今何を思ってここに居るかだ」
一度何かを言いたそうに口を開こうとしたがユイは口を閉ざし木刀を地面に突き刺した。
「何の真似だ?今から闘うってのに木刀を置いてどうする?」
「何の真似も何もありませんよ、見ての通りです。あなた程度の人に剣術を使うまでも無いと言う事です」
ユイの放った言葉は今までの何よりも衝撃を受けた。あの礼儀正しいユイが人を見下す様な言葉を。しかも油断や慢心とは程遠いサムライヤローが剣を捨てて闘うなんて。
余程の自信があったとしても成り立たない状況だ、徒手空拳と武器術の差を論じるつもりは無いが剣術にとって剣は体の一部。柔道家のシンゴが組まずに闘うようなもんだ。どんなに自信があったとしても有りえない。
「これはどうしたことか、ユイ選手剣を捨ててリングに登った!先程の言葉といい、この闘い方といい我々の知っているユイ選手と同一人物とは思えません」
何だ、何を狙っているんだ。少なくともワタルやトシキまで引き込んでわざと負ける理由なんか無いはずだ、だとしたら……
「何かを狙っているんでしょうね、あのヘルメットの差し金で」
ヒロシが唇を噛み締める。そうだ、ユイの後ろにはアイツがいる。きっと正攻法じゃない何かを隠し持ってやがるんだ。
「ユイ、お前が何を企んでいようと俺は全力で相手をする。手加減などしない、それが礼儀と心得ているからだ」
「……くっ」
シンゴが真っ直ぐに見つめるとユイは気まずそうに目を伏せた。
「やっぱりお前に小細工は無理だ、剣を取れ。そして全力で掛かって来い。その上でお前に聞きたいことがある……あのヘルメットが何者なのかを聞かせて貰う」
「小細工も何も必要が無いから剣を置いただけの話ですよ。でもそうですね……シンゴ先輩が勝ったら僕の知っている限りでその答えをお話しましょう。どうです?少しはやる気も出てきましたか?」
ユイはそう言うと大股でシンゴとの間合いを詰め、自らシンゴの胸倉と袖を取った。
「……解った、そこまで言うならこのまま相手してやろう」
シンゴがそう静かに告げ、フッと息を付いたかと思うと次の瞬間ユイの体が宙に舞い、轟音と共にマットに叩きつけられた。
マットとはいえ簡易式の薄いマットだ、しかも雪によって水分を含みこの気温で軽く凍り付いている。地面とそう大差はない。
「が……ご……」
思い切り背中を叩きつけられ呼吸もまともに出来ないユイの胸倉を掴み無理矢理立たせる。
「どうだ、考え改める気になったかよ?」
「今何か……したんですか?こんなんじゃ……ぜんぜ……」
ユイが辛うじて声を絞り出すと今度は足を狩り後頭部からマットに叩きつける。
「へ……へっへへ……どうしました?もう終わりですか」
今度は自分で立ち上がり尚も挑発する。
「もう終わりかどうかは自分が良く解ってんだろ。立ち上がったのは流石だが、既に前も後ろもわかんないくらい景色歪んでんだろが」
「ハンデ……ですよ、これくらいしないと勝負に……ならんでしょうが」
「この、馬鹿野郎がッ!」
そこから先は無残なものだった……負けを認めないユイが立ち上がり、その度に投げられ地面に叩きつけられる。全く抵抗すらしないユイはフラフラになりながらも二十分程が過ぎた。
「もう十分だユイ君」
その言葉を発したのはヘルメットの男だ。それを聞くとユイはその場に糸の切れた人形の様にぐしゃりとしゃがみこんだ。
「一体どういうこった、ただやられてるだけにしか見えなかったが……これがあのヘルメットヤローの作戦か?」
シンゴがしゃがみこんだユイに話しかけると辛うじてユイが声を絞り出した。
「それも……あります。……ですがそれ以上に……僕は先輩達に謝りた……かったんです。裏切って……すいませんでした」
やっと声を出しているユイの声は蚊の鳴くような声で殆ど聞き取れない。
「あの時……本当に……腹を切ってお詫びしたい気持ち……でした。だけど、あの人が……力を貸して欲しいと……言ってきたんです。それを……成すまでは……只では死ねません」
「そのあの人ってのがヘルメットの男……お前等がそこまでするって事はやはりアイツの正体はカズなんだな」
しゃがみ込むユイに対して見下ろしながら言葉を投げつけるシンゴ。
「この勝負に勝ったら……知ってる範囲で……お話する約束でしたね。ですが、すいません……僕もサトシも……あのヘルメットの中は知らないんです」
「な……んじゃ正体も解らないあんな胡散臭い奴の言うことを聞いてるってのか?」
最早それ以外の答えは無いと思っていたのにそれ以外の答えが飛び出て思わず声を荒げるシンゴ。
「正体は……知りません。だけど、あの声……雰囲気……ずっと探してた……あの人なんですよ……シンゴ先輩達もそう思って……るんですよね」
表情は解らない、だが声に涙が混じっている。シンゴも声を詰まらせた。
「くそ、んじゃ正体も解らない奴の頼みで俺達を裏切り、しかもその罪滅ぼしの為に今やられたって訳かよ。……一つ言っておくぞ、カズは友達だが、お前をそんな目に合わせて平気なツラしてるような奴だったら相応の覚悟はしてもらうからな。覚悟しとけよ。ヘルメットヤロー」
ピッと指を刺し親指で首を掻っ切るポーズ、それをみて静まり返っていた観客が沸き立った。