都市伝説解明 ~くねくね~
人物/宇岡初季/新井英彰
場所/永神学校~山梵町水田地帯
昼放課、校長室に初季と黎司は呼ばれた。
二人は一階の校長室前で、互いに顔を見合わせる。
他の生徒が物珍しげに此方を見ていることに気が付かず、緊張感が二人の理性を崩し掛けている。
「いいか、能力については一切自白するな」
「あぁ、わかってる」
黎司と初季はその会話だけをした後、校長室の扉を二回ノックする。
「入って」と声がして、初季が扉を開けた。
威厳のある部屋には、巨大な黒いソファーが二つ向かい合うように置かれており、その間にはガラス張りのテーブルが設置されている。
ソファーには、校長である前原と、星野刑事が座っていた。
前原校長は、白髪の髪を蓄えた校内最年長の人物で、来年で定年退職するらしい。
初季と黎司を訝しげに見つめたまま、「座りなさい」とソファーに促す。
訝しげな目をする校長とは正反対に、星野刑事は愉快な顔でよく来てくれたと迎え入れた。
星野刑事は、黒人の様に焼けた黒い肌で、大物の雰囲気を醸し出している。
年齢は四十代後半くらいに見え、この日は背広のスーツを着ていた。
「君達が宇岡初季くんと、木呂場黎司君だね。黎司君は私を見たことがあるはずだ。お父さんとは童形のよしみで何度か飲んだことがある。」
ソファーにぎこちなく二人が座ると、校長は用心深く二人を見つめる。
星野刑事は、笑顔を繕いながら交互に初季と黎司の顔色を伺う。
「なぁにそんなに緊張することは無い。さて、聞きたいことが山ほどある。一週間前の暴力団の不法侵入についてだが、黎司君。君は真っ先に学校を飛び出し、暴力団グループに対して応戦したと訊く。」
「はい、俺が出て行ったのは訳があります。事件の前日、実は偶然麻薬の密売現場に出くわしたのです。俺は生憎売人と見張りに見つかってしまい、逃げ切れるとは思わなかったので乱闘を起こしました。俺は喧嘩には自信がある方なので、四対一の不利な乱闘を行いました。俺が何とか見張りの三人を倒して、売人は逃走すると言った結果でした。その尻拭いに暴力団を学校によこしたのでしょう。奴らの狙いは俺だけでしたから。学校側に迷惑を掛ける訳にはいかなかったので。」
「実に勇敢だ!」
星野刑事は感激したように唇を湾曲させ両腕を広げる。
「君は自分に責任を感じて、三十人近くいた暴力団と戦った訳だ。普通なら君が半殺しの状況になりようやく警察が駆けつけて君を救い出すという形になるのだが。君はなんと暴力団グループを一掃し、拳銃を持つリーダー格と対峙して見事勝利を収めた。どうやって!」
突然星野刑事は恐ろしい形相でテーブルを拳で叩いた。
ガラス張りのテーブルに亀裂が入る。
校長はひぃと声を漏らして飛び上がった。
「言ったでしょう。喧嘩には自信があるって…」
「在り得ない!たかだか高校生一人が暴力を職業とする集団に勝てるわけがない。しかも現場には幾つもの車が、横転して火を噴き上げていた。あれはなんだ!君がやったんじゃあないのか!」
星野刑事は目を血走らせて歯を剥き出していた。
「俺の潜在能力が発揮されたんですよ。」
黎司の言葉に初季はヒヤッとなった。
能力のことを言うのかと初季は黎司を横目で見る。
「潜在能力・・・?火事場の馬鹿力か?」
星野刑事は馬鹿にする口調で笑う。
「実に君らしい答えた。馬鹿力ね。ではその馬鹿力が偶然乱闘で発揮されたとしよう。その後、君は警察の包囲網を見つからずに逃げ果せた。どうやったんだ!暴力団グループは一人残らず捕らえたんだぞ!」
「それは初季のお蔭です。初季の家は学校の近くにありました。三十人近くの人数を暴行したこともあり、俺は捕まると思ってました。その時に初季が俺を連れて家まで案内してくれました。」
星野刑事は初季を睨み付けると、すぐさま黎司に向き直った。
「あれだけの警官がいて、制服姿の少年二人を一度も目撃することは無かった。運が良かったにしても出来すぎている!おまえ達は何か隠している。言え!いずれわかることだ。海外から取り寄せた兵器を隠して持っているんじゃないのか?常人の10倍のパワーを出せる“パワーハンドマシーン”。熱探知で人の位置を探れる“赤外線レーダー”!」
「そんな馬鹿な」
黎司はせせら笑いする。
初季の顔は笑っていなかった。寧ろこの状況下で笑える黎司の度胸に屈服した。
星野刑事は頬を引き攣らせる鼻から息を吐いた。
「・・・流石は三流警察の息子だ。お頭までクルクルパーのようだな。」
「親父の悪口は許さねぇぞ」
今まで冷静だった黎司が突然憤り立ち上がる。
「ほう、親父さんを誇りに思っているようだな。だが、あの男は警察の底辺の底辺だ。一時期は署長まで上り詰めた永神警察の英雄が、今ではなんだ。ただのおまわりさんだ。」
「親父は好きで左遷したんじゃない!あの事件のせいだ!」
あの事件とはなんなのか初季には分からなかった。
だが、黎司の表情をくみ取るに、何かしらの因縁を感じ取れた。
「あぁ、例の|電波(奇怪な事件)か。あんな意味のない非現実的な事件を追っているから、落ちるとこまで落ちてしまったのだったな。」
黎司は星野刑事に向かって拳を振り上げた。
「やめろ、黎司!」
初季の校長室に響き渡る声に黎司は拳を制止させて星野刑事を睨み付けていた。
校長は黒電話の受話器に手を伸ばしていた。
「ふん、おまえ達に警告しておく。今度妙な真似をしてみろ。俺が黙っちゃおかねぇからな」
星野刑事は低い声でそう言うと校長室を出て行った。
静寂の中、校長はビクビクと震え、ダイヤルを回し始めていた。
「行こう、黎司」
二人は震え上がる校長に背を向けて校長室を後にした。
業後となり、ほとんどの生徒が教室を出て行った。
クラスは数人となり、初季が帰ろうとした時、西山が行く手を塞いだ。
「おい宇岡。明日田舎を探検しに行くんだけど一緒に行かないか?」
「悪いけど・・・」
「まぁそういうなって!」
西山は大きな手で初季の肩をばんばん叩いた。
「その田舎は幽霊とかが沢山出て結構やべぇ場所なんだよ!オカルト研究部だろ?興味案じゃねぇの?」
西山は半分悪し様に言う。
オカルト研究部だからという理由に初季は腹が立ったが、幽霊というキーワードに少し興味がわいた。
「どんな幽霊が出るんだ?」
「聞きてぇか?」
西山はにんまりと笑って話し始める。
「俺の友達に山村信久って奴がいて、そいつの田舎は山梵町にあるんだ。んで昨日、最近水田地帯に変な生き物がいるから土曜日に一緒に見に行かないかって誘われたんだよ。気になるだろ?」
土曜日は明日だ。
丁度その日は暇だったので、たまにはいいだろうと考えた。
「まぁ、暇つぶしにはなるかも。んで、行くメンバーは?」
何人で行くかは重要だ。
なるべく知ってるやつらが多いほうがいい。
だが、西山が言うには、その山村信久ともう一人、このクラスの学級委員である新井英明が行くらしい。
新井英明は、ハンサムで誠実。リーダーシップもあり、文武両道といった誰しもが羨む存在だが、余りにも堅物すぎて男子からの評判はあまりよくない。
「新井の奴、幽霊なんて存在しない。月曜日にクラスで騒がれるのも気に障るから僕も行って幽霊が存在しないことを証明する。なんて理由でついてくるんだ。まぁ、人数が多ければ多いほど面白くていいんだけどな。」
新井もどうやら、自分と同じ心霊否定派らしい。
「取り敢えずこの四人で行くぜ。集合時間は朝9時。集合場所は永神駅。電車で山梵町まで。片道500円。飯代は自腹だ。じゃぁ、遅刻すんなよー」
西山は肥満の太った腹を振動させながら教室を出て行った。
翌朝、永神駅は平日よりも人波は浅く、西山達の姿をすぐ発見出来た。
「おーい」
西山は初季に向かって大きく手を振る。
西山の隣には鼠顔の少年と、新井英明がいた。
鼠顔の少年は半袖のシャツにジーンズ。白のキャップを被っている。
彼が山村信久だろう。
そして、十字架のネックレス。黒のフード付のジャンバーに青のTシャツ。所々破けたジーンズに高そうなブーツ。この好男子には打ってつけの服装だ。
「宇岡初季、君が来るとは予想外だったな。」
新井英明は、凛とした強かな声で言った。
このハンサムの前だとどうにも気後れしてしまう。
「僕も同じさ。まさか学年成績一位の君が、田舎の幽霊を見に行こうなんて企画に参加するとはだれも予想しなかったはずだ。」
新井は好意的な笑みを浮かべる。
「それもそうだな。そろそろ電車が来る時間だ。切符を買って遅れないようにしよう。」
新井は案の定、リーダーとしての役目を果たし、他の三人を引っ張り出した。
切符売り場で切符を購入し、改札を通って駅のホームへ続く階段を上る。
「ふぅ、俺の身体に階段は向かねぇ。エスカレーターつけろよな・・・」
ほんの数段の階段に、西山がヒーヒー言いながら上っているのを見て、初季は滑稽に思えた。
「電車だ、電車!」
特急が通過する瞬間を山村は興奮しながら手に持ったカメラのシャッターを切る。
人目で、山村が|鉄オタ(鉄道オタク)であることを察した。
駅のホームで数分待つと、漸く四人が舞っていた鉄道車両がホームに到着した。
出る人優先だというのに、山村と西山はズカズカと車両に乗り込む。
「全く、マナーがなってない」
今時の|イケメン(いけてる面子)にこんなことを言う奴は恐らく日本を探しても彼だけだろうと初季は思った。
新井と初季が車両に乗り込み、ドアが閉まり電車が動き出す。
平日に比べ、嘘のように少なくなった車両で、初季はリュックを肩から下ろして席に座った。
新井も続けて荷物を下ろして初季の隣に座る。
西山と山村はマニアックな深夜系のアニメの話で盛り上がっていた。
その光景を横目で見ながら新井が口を開く。
「以前学校で乱闘騒ぎがあっただろう?」
「あぁ、暴力団が三十人くらい集った奴だね。」
「あの現場に君がいた。」
新井の言葉に、初季の鼓動は早まった。
「僕は教室から見ていたんだ。元々窓際の席だったからね。一人の少年が馬鹿みたいな力で暴力団を薙ぎ倒して言った。そして、最後の一人が拳銃を発砲したとき、君はバゲツを持って駆けて行った。そして、馬鹿力の少年の頭の上でバケツをひっくり返した。あの少年と君は知り合いなのか?」
鋭い目で新井は見てきた。
「親友だ。彼は麻薬の密売現場を見てしまった。だから暴力団と乱闘をする羽目になった。僕は彼を助けようとしたんだ。」
「そうか」
新井はその後瞳を閉じて何も言わなくなった。
山梵町の駅のホームで下りる。
見渡す限りの山脈が、この田舎町を取り囲み、古い木造の家がポツポツあるだけで、後は全て水田地帯だ。さすがに田舎の空気は美味しく、都会とは違う独特の雰囲気を醸し出している。
初季はこんな田舎町があるだなんて知らなかった。
永神市は本来、幾つもの市が合併した全国で最も巨大な市である為、まだ訪れたことのない町があるのは当然だ。
地球温暖化の影響かどうかは分からないが、5月だというのに道楽町は蒸し暑かった。
しかし、同じ永神市だというのに、道楽町に比べ、山梵町は異様に涼しい場所だった。
「幽霊は水田地帯に現れるらしいんだ。一先ず俺の実家の小屋に来いよ」
田村は双眼鏡をサッと取出し、水田に怪しいものがいないか探し始めた。
四人は田舎のあまり整備されていない道路を歩きながら、田村の実家の小屋を目指す。
辺りは本当に田んぼしかなく、中々田村の実家っぽい佇まいは見つからなかった。
「おっ、あそこあそこ!」
田村は前方を指さす。
昭和初期に造られた様な古い家屋があった。
軽トラックが数台駐車され、老婆が一人花に水をやっていた。
「婆ちゃん!」
田村は手を振る。
「おやまぁ・・・」
背中の曲がった老婆は、よろよろと此方に接近してくる。
80歳は軽く超えている。
この家屋の住人はこの老婆だけなのかと、思ったが駐車されている軽トラックを見るにそうでもなかった。
家屋の引き戸が開き、40歳くらいの中年男性が現れた。
タオルを首にかけ、Yシャツを着て、麦わら帽子を被っている。
手には鎌が入ったバケツをぶら下げている。
「おう、よくきなすった。上がってくれ」
中年男性は田村の父親の兄らしく、偶々実家に帰省していたらしい。
四人は老婆と男性にそれぞれ挨拶をすると、家に入れてもらえた。
「おじゃまします」
と、口々に言うと、居間に通された。
草っぽい座敷の臭いと共に、仏壇の線香の匂いが初季の鼻をくすぐる。
こんな匂いも、田舎ならではの物だろう。
お茶を出しながら、田村の伯父が口を開く。
「おまえさん達、幽霊を見に来たんだって?」
「はい。なんでもこの辺じゃ奇妙な幽霊が出るって噂が・・・」
西山の言葉に田村の叔父は声を上げて笑う。
「ないない。帰省して一週間たつが、一度もそんなもの見てないよ。まぁ、大人には見えないお化けなら別だけどね。」
田村の叔父はゆっくりしてってくれと言った後、家を出て行った。
「あぁ見えて、結構伯父さん恐がりなんだよ。」
田村が言った。
「で、その幽霊は何時出るんだ?幽霊の特徴は?」
新井がじろりと田村を見やる。
確かに初季もそれを聞きたかった。
「この町に住んでる従弟から訊いたんだけど、真昼間に田んぼで案山子のお化けを見たらしいんだ。
なんでもその案山子、白くてくねくね動いてたらしいんだ。」
「案山子?動いてたのは風の所為で、その従弟は錯覚を見たんじゃないのか?」
「同感だな」
初季の言葉を後押しするように新井が言った。
田村は口を窄めて黙ってしまった。
「まぁまぁ、言ってみりゃわかることだろ?」
西山がへらへら笑いながらそう言う。
「真昼間に出るんだよな。正午まであと三〇分。双眼鏡持ってさっさと行こうぜ。」
お茶と和菓子を堪能した後、四人は田村の実家に一時的に離れて水田地帯へ向かった。
徒歩で水田地帯を歩きながら、四人は万遍なく田んぼを見回した。
双眼鏡を片手に歩く田村を先頭にして、白いくねくねしたものを捜索する。
初季は到底そんな物が存在するとは思えなかった。
第一、真昼間だ。夜ならわかる。
幽霊が昼間に出る例は、どんな怪談話でも希少だ。
夏が近い五月だというのに、山颪の風のお蔭でちっとも暑くない。
この心地よい道を歩いているだけで、初季は十分に思えてきた。
途中、目が疲れたと言って田村が双眼鏡を初季に渡した。
初季は双眼鏡はあまり役に立たないと思い、首からずっと下げていることにした。
水田地帯を進めるだけ進み、四人は諦めかけていた。
どの方角にも、例のくねくねしたものは見つからない。
「引き返そうぜ。」
一番張り切っていた西山が足をガクガクさせながら言った。
「まぁ、君の従弟は強ち案山子を幽霊と見間違えたんだろう。」
新井が退屈そうに言った。
だが、その時、風がピタリと止んだ。
「なんだ?」
山颪の風は、一向に吹きやしない。
さっきまでビュービュー吹いていたというのにだ。
そして、夏の気候に近い、生暖かい風が水田地帯にゆっくりと吹いた。
「気候が変だ。風向きも変わっている・・・。」
新井が警戒する様な口調で掌を風のする方へ向けた。
すると、新井ははっと息を漏らした。
何かを発見したらしい。
「おい、あれなんだよ!」
西山が新井と同じ方角を見ながら言う。
「あれって?」
田村が目を凝らして西山と新井の目線を追うが中々見つけられないらしい。
初季もその視線の先に目を向けた。
人ぐらいの大きさの白いものが、くねくねくねくねと動いている。
初季は自分の目を疑った。
生温い気候が、初季の全身から汗を吹き出させる。
田村も漸くそれを見つけたらしく、声を上げた。
「見つけたぞ!よっしゃ、正体を暴いてやる!」
初めてみる幽霊らしき存在に、田村は興奮しながら水田の畦道を渡る。
あの物体の存在を確認しようと、初季は双眼鏡に手を掛ける。
「やめろ」
新井が初季の手を押さえた。
「なんだか分からないけど、見てはいけないような気がする。」
初季は諦めたが、自分には他の人にない力があることを思い出す。
目を瞑り、田村の視界にチャンネルを合わせる。
息を荒げながら畦道を走り、刻一刻と白い物体に近づく田村の視界が現れた。
田んぼの案山子が所々に見え、最終的にその物体との距離が近づいた時、田村は畏怖する。
そこには田村がいた。
いや、正確に言えば、田村の顔面がその白い物体の頭部から突き出てるという感じだ。
くねくねくねくねと動く白い人型の物体の頭部だけが田村の顔面。
「お、俺・・・!」
田村は萎縮するように情けない声をだし、後ずさりする。
くねくねくねくねと動くそれは、田村の顔のまま笑い始めた。
最初は怯えていた田村だったが、白い物体のその笑いと同調するように、田村は笑い始めた。
そして、遂に田村自身が、前にいる白い物体と同じように狂ったようにくねくねと踊り始めたのだ。
耐えられなくなり、初季は目を開く。
汗をびっしょりとかいていた。
自分の目からでは、分かりにくいが、田んぼの中央で、田村と白い物体が一緒に踊り続けている。
そして、ゆっくりと白い物体はまるで蒸気のように蒸発し、残されたのは田んぼの中で泥だらけになって踊り狂う田村だけとなった。
「田村!」
白い物体はふっと消えていなくなり、三人は畦道を通って田んぼの中から田村を救い出した。
西山の腕に抱かえられているときも、田村は踊りをやめなかった。
「重傷だ。精神がイカれてしまっている」
新井が憐憫にそう言った。
実家に着いたのは一時間後だった。
田村の伯父はすぐさま田村の両親に連絡を取り、田村の祖母は号泣していた。
「なんということだ」
伯父が戻ってくるなり、そう言った。
田村は布団に寝かされているときもくねくねと踊りながら笑っている。
「社会復帰は難しいだろうな。後のことは任せてくれ。君達はすぐに帰るよう。」
「でも!」
「帰るんだ!電車に今すぐ向かってくれ!」
留まろうとする西山に、伯父は厳しい口調で言った。
「分かりました」
新井はそう言ってキビキビと動き始める。
三人は荷物をまとめ、玄関口に向かう。
「田村ぁ・・・」
西山が涙目で座敷に寝かされた田村を見る。
田村は未だに笑いながら踊り狂っていた。
「行こう」
新井が先導を切って玄関を出る。
初季は田村に憐みの目を向けて田村の実家を後にした。
まだ午後二時だ。
水田地帯は相変わらず蒸し暑いままだ。
普通、幽霊が出ればその場の暖気は胡散霧消し、ゾッとするような冷気が立ち込めるのが普通のはずだ。
だが、奴が出現したときは違った。
涼しかった気候が一瞬で蒸し暑くなったのだ。
「駅に着くまで気を抜くな・・・。」
新井は、首飾りの十字架を握りしめて道路を歩く。
だが、その時、信じられないことに道路のアスファルトがミシミシと音を立てて地割れを起こす。
「危ない!」
初季は西山の服を掴んで後退する。
前方のアスファルトが底なしの地底に蟻地獄のように吸い込まれていく。
「どうやら、僕達を大人しく帰してくれる気はさらさら無いらしい。」
新井は周りの様子を伺う。
「多少遠回りになるが、畦道をコの字に通って道路に戻ろう。」
三人は田んぼの畦道を進む。
途中、足を滑らし足を持って行かれそうになったが、新井の支えもあって何とか半分まで来ていた。
夏のような蒸し暑さが、三人の体力と集中力を奪う。
「お、俺・・・もう駄目だ・・・!」
西山がへばって膝を着ける。
「田村と同じように踊り狂うのがいいか、限界疲労で家に帰るのがいいか、今ここで決めてくれ!」
新井が厳しい口調で言うと、西山は言い聞かせるように足を持ち上げる。
畦道のゴール前まで来た。
だが、安堵の束の間、初季の視界には見覚えのある物体が姿を現す。
一番乗りで新井が道路に飛び出し、二番目に西山が新井の腕に飛びつく。
初季も道路に足を踏み入れようとした時、またもアスファルトがケロイド状に溶け出し、地底に吸収される。
初季は、素早く脚を引っ込めて、足場の悪い畦道の上に残った。
ジャンプでは、新井と西山のいる方へ届かない。
初季は田んぼの中央に目を向ける。
くねくねと動くそれは、ゆっくりと初季の元へ近づいて来ていた。
「宇岡!飛び乗れ!」
新井が、崩れたアスファルトのギリギリで手を伸ばす。
初季はそれを一瞥した後、白い物体に向き直った。
「僕がこいつを引き付ける!その間に新井と西山は逃げてくれ!」
初季は白い物体を睨み付けながら震えた声で言った。
「おい!かっこつけてる場合じゃねぇぞ!」
西山が怒鳴り叫ぶも、初季は視線を外さなかった。
「わかった。絶対に駅に戻ってこい!」
新井はそう言って、西山の腕をグイグイ引っ張りながら道路を進んでいく。
後方で西山が自分を呼ぶ声がする。
白い物体は、くねくねと踊りながら初季に近づく。
「田村の視界を見ていて分かった。君の正体は自分自身だ。どこぞの国で行われた実験の中にこんなのがある。人が鏡に向かって毎日『おまえは誰だ?』と言い続けると狂ってしまうという。それと同じように、人は自分が目の前に現れた時、一瞬自分が本物なのか疑ってしまう。君は人間の心理に漬け込み、田村を狂わせてしまったんだ。」
初季は目を閉じる。
白い物体の視界が、初季を見つめている。
田村の時と同じように、今の白い物体は、初季の顔をしているに違いない。
この距離で間近に奴の顔を見てしまえば、間違いなく初季は踊り狂うことになる。
これで、人間・動物・化け物・目が見える者は全て盗視できることが分かった。
初季は目を瞑る自分自身の身体を見つめる。
視界に映る初季は、目を閉じたまま、棒立ち状態だ。
しかし、白い物体の視界はゆっくりと初季に向かって接近している。
身の危険を感じた初季は、自分の身体を動かせるかどうか試してみる。
神経を研ぎ澄まし右足を一方後ろに下げる。
白い物体の視界では、連動するように初季の右足が動いた。
くねくね動く白い四肢が、時々視界に入るのも、水田の冷たい泥水が足の感覚を鈍らせるのも、集中力で跳ね除けさせる。
初季はゆっくりと白い物体から遠ざかる。
だが、白い物体も初季に近づく。
水田の中で、足に蛭が吸い付くのを感じながら、初季はゆっくりと後ずさっていく。
泥に足を持っていかれれば、初季の顔が泥水でやられ、目を開かざる負えなくなるからだ。
是が非でも、目を開けてはならないと初季は固く決意しながら、化け物との距離を離していく。
初季は闇雲に後ずさっているわけではなかった。
一つだけ、このくねくねから逃れる方法がある。
賭けにはなるが、くねくねの弱点と思われる点が一つだけあるのだ。
それは、くねくねが出現する場所だ。
くねくねは決まって水辺に現れていた。
水分の無い、アスファルトには一度も現れなかった。
奴は、水分である蒸気の力を借りて、姿を象っているのではないかという一説が、初季の頭に浮上したのだ。
水分が一切ないアスファルトに避難してしまえば、このくねくねは追って来れなくなる。
だから、くねくねは先程も初季が水田地帯に留まるよう、アスファルトを破壊したのだろう。
これで辻褄が合う。
・・・あと五メートル。
化け物の視界が初季とアスファルトの道路を映す。
くねくねは奇声を発しながら、猛スピードで踊り始めた。
初季は最後の力を振り絞って、後ろ歩きでアスファルトに乗り上げる。
くねくねの白い腕は、初季の首元を掠める。その白い足はアスファルトに乗り上げた。
その瞬間視界が途切れる。
初季は自分の視界に戻ると、目を開いた。
人型をした蒸気がアスファルト上で舞っている。
初季は、泥水で汚れた両足でアスファルトに立つと、呼吸を整えながら駅へと向かった。
駅のホームでは、西山と新井が待ち構えていた。
初季が笑顔で手を振ると、二人は初季に質問攻めをする。
白い物体の視界を盗み見ることで、化け物の意表を突くことが出来た。なんて言えるはずないので、なんとか振り切って逃げることが出来たと伝えておいた。
新井が朗報を話したいと言って、先程田村の叔父から、田村が平常に戻ったというのを聞かされた。
初季は心からそれを喜んだ。
何故、田村が治ったのかは分からない。
伯父の話によれば、田村は何も覚えていないという。
「あのくねくねした白い物体の正体は、分からないけど。あいつは仲間を増やそうとしていた。自分の姿を目視した人間を、是が非でも逃すまいと。一つ言えるのは、もう二度とあのくねくねを見るのは御免だという事だけさ。」
電車の中で、初季がそう話した後、三人はなるべく田園地帯は見ずに、ただ電車の広告だけを見ているようにした。
ふと、初季が窓の外を見ると、水田地帯がまだ続いていた。
そこには夥しい量の白い物体が体をくねらせて踊っていた。
その全ての白い物体が、初季の顔面をしている。
ガラス越しだった為、初季が踊り狂う心配はない。
しかし、こうしてまじまじ見ていると、恐ろしくてたまらない。
「宇岡初季は一人で十分だ」と初季は心の中で呟いた。