総選挙
1940年7月15日
一日の課業が終わり、夕食から消灯までの自由時間に黒間以蔵は新聞を読んでいた。
内地の新聞ではなく満州国の新聞だ。名前はハルビン新報という。満州国内の日本人向けに発行されている新聞で、会社は満鉄の系列である。
取り扱っている記事はハルビン周辺のローカルな話題が殆どで海外記事は多くない。内地に関わる記事も通り一遍の話ばかりで内容がない。大手の新聞社の記事をそのまま丸写ししていることもしばしばある。魅力は購読料の安さぐらいだった。
しかし、内地の新聞は一般に購読料が高いので、経費節減が叫ばれる昨今の事情を勘案すると酒保にこれしか新聞がないのも止む得ないことかもしれない。
「そんなもん読んで楽しいか?」
半裸でサイダーを飲みながら斎田三矢が言った。
この男は極端に暑がりなところがあり、少しでも暑くなると途端に肌の露出率があがる。これが美女なら大歓迎だが、野郎の裸には用がない。
見ていても虚しくなるばかりである。
「あんまり楽しいことは書いてないな」
黒間も自分のサイダーを呷る。
新聞を畳んで窓辺に目をやると虫の声が聞こえた。
氷都と呼ばれるハルビンにも夏はやってくる。夏といっても内地ほど暑くはない。気温も30度を越えることはなかった。25度が上限で、真夏でも夜に寝苦しいということは殆ど無い。
しかし、サイダーはキンキンに冷えている。これは夏だろうと冬だろうと同じだった。これは有り難かった。
黒間にはこの世に幾つか絶対に許容できないものがあるが、ぬるいサイダーというのはその中でも最右翼に位置する。
「内地で選挙があったそうだ」
「そうなのか。で、それがどうしたんだ?」
俺には関係ないと斎田の顔には書いてあった。
或いは関係に気付いていないだけかもしれなかった。どちらかと言えば、後者の方が正解だろう。
前世なら、黒間も同じ顔をしていただろう。選挙など自分には関係のない話なのだ。そもそも戦前の普通選挙制度下においては、選挙権は25歳以上の男子のみ与えられるものだった。
今の黒間には選挙権はない。投票に行くこともできないのだ。
国防という国家の一大事に身命を捧げている人間に何故選挙権が認められないのかは不明だが、とにかく今の黒間には選挙権がなかった。
つまり選挙でどの党がどれだけ議席を得たところで関わりのないことだった。少なくとも前世では。
「今度の選挙で、立憲政友会が大勝利して議席の3分の2を確保したそうだ」
「ふーん。それがどうかしたのか?」
「政友会は、ドイツとの同盟を結びたがっている」
立憲政友会の鳩山一郎内閣が帝国議会を解散したのが、3週間程前のことだった。
ちょうどナチス・ドイツが西部戦線で大勝利して、パリが無防備都市宣言を出した頃だ。2度目の人生でもドイツの電撃戦は黒間の知っている歴史どおりに展開し、フランス軍は呆気無く崩壊してしまった。
そして、「バスに乗り遅れるな」の掛け声と共に日本がドイツとの軍事同盟に進んでいくのも黒間が知っているとおりだった。
いや、この表現は正しくない。
正しくは、軍事同盟の再締結に進むだ。日独は、防共協定という軍事同盟を既に結んでいる。ただし、それは独ソ不可侵条約で事実上、ドイツから一方的に破棄された。しかも、日本がノモンハンでソ連と武力衝突している最中に、だ。
このような裏切りを行う国家と再び軍事同盟を結ぶことに何の意味があるのかは不明である。国家に真の友人はいないけれど、国際的な信用というのは相応の意味があった。
黒間は何かの間違いでドイツが電撃戦に失敗して、戦争が泥沼になることを期待していた。
というよりも、ドイツがあんな勝ち方をすると予想している人間など殆どいなかった。次の戦争も第一次世界大戦と同じく長期戦になるだろうと誰もが予想していたのだ。
フランスは西欧の大国だった。イギリスに次ぐ広大な植民地を持ち、第一次世界大戦を闘いぬき最後の勝利を掴んだ実績もある。
確かにドイツ軍は強力かもしれない。東欧の大国ポーランドを1ヶ月足らずで屈服させた。しかし、それはソ連軍との挟撃があったからで、フランスはポーランドとは違う。それが常識というものだった。
しかし、その常識が覆ってしまった。
日本の世論が狂ったようにドイツやヒトラーを持ち上げるようになるのはこの頃からだ。
もちろん、ノモンハン事件の最中に独ソ不可侵条約を結ぶような裏切りをドイツが働いたことなど綺麗に忘れ去られている。
或いは、忘れたフリをしているのか。
どちらにせよ、日本の世論というものがドイツの勝利にすっかり幻惑されているのは確かだった。
ドイツの勝利が確定する前に勝ち馬に乗れという調子のいい意見が世論の大勢になったとき、ドイツとの同盟か否かを掲げて選挙を行えば、どうなるかはっきりしている。
政友会は結党以来の空前絶後の勝利を収めた。
しかし、黒間は知っている。これは自殺行為以外の何者でもないことを。
「そういえばこいつ、あの宇宙人の祖父だっけな」
黒間は前世で政権交代を掲げた選挙で空前絶後の勝利を収めた後で、戦後史上最悪と罵倒され退陣した内閣総理大臣の顔を思い浮かべた。名前はなんと言っただろうか?記憶するのも気分が悪い。しかし、顔はよく覚えている。一目見ただけで無能と分かる顔をしていた。
新聞に載る現内閣総理大臣の顔とはあまり似ていない。
しかし、やっていることはよく似ていた。
選挙の勝ち方も似ている。そして、おそらくその結末も瓜二つなのではないかと予想した。
「宇宙人って何の話だ?」
「新しい総理のことだ。何を考えているのか分からん」
ふむん、と斎田は新聞の写真をまじまじと見た。
「そうか?」
「そうだよ。ドイツとの同盟なんて冗談じゃない。ヒトラーの戦争に巻き添えを食らうだけだ」
「でも、選挙で決まったならしょうがないだろ」
黒間は言葉に詰まった。
全くそのとおりだったからだ。政友会が選挙で308議席も獲得したのは、民意の後押しがあればこそだった。
皮肉な話である。日中戦争もなく、軍部の暴走もない(2・26事件も5・15事件も黒間が調べたかぎりはおきていない)というのに、日本は民意の後押しで戦争への坂道を転げ落ちていく。
戦時中の悪名高い翼賛選挙でもない、憲政の常道に基づく選挙の結果がこれだった。これなら軍国主義の方がまだマシというものだった。
少なくとも、軍部が悪かったと後から言い訳できる。
「イギリスとドイツ、どっちが勝つと思う?」
黒間はこの程始まったドイツ空軍の英国本土爆撃を伝える記事を斎田に見せた。
後に、バトル・オブ・ブリテンと知られることになる英国本土航空戦だ。この戦いにドイツは敗退し、ヒトラーは英国本土攻略を諦める。
それが黒間の知っている歴史だった。
「そんなこと分からんよ」
意外なことに斎田は、ドイツとは答えなかった。
この質問をすると大抵の人間はドイツと答える。慎重なタイプが少しだけ分からないと答え、へそ曲がりだけがイギリスと答える。
前世でもそうだった。
「クロはどっちが勝つと思う?」
「イギリスだと思う」
黒間が知っているのは概要程度だったが、イギリス空軍が初期的なレーダーを有効活用してドイツ空軍を散々に痛めつけたことは知っていた。
所謂、地上迎撃管制システムの萌芽だ。レーダーによる早期警戒と位置測定、無線通信機を組み合わせて、地上の指揮所から戦闘機部隊を誘導し、効果的な迎撃戦闘を行う。
RAF(イギリス空軍)が導入していたチェイン・ホーム・レーダーは後年に登場したレーダーに比べれば距離、方位分解能は全く話にならにほど劣っていたが、それ等から得られる情報を一元化し、空中戦を”管制”しようという発想は画期的だった。
そして情報の一元化には、情報の蓄積と解析が必要不可欠であり、高速で推移する航空戦では、その処理速度が戦闘の結果に直結する。それと同時に処理された情報をそれが必要な場所へ高速に移動させる或いは、相互に行き来させる高速大容量の通信網がシステムの要だった。
つまり、高速情報処理のためにコンピュータとそれを繋ぐネットワークの発展し、冷戦の最中に後に世界を革命することになるインターネットワークが生まれるのだが、それはまた別の話だった。
「お前、競馬でいつも大穴とか狙うタイプだろ」
「そんなんじゃねぇよ」
「じゃあ、どうしてイギリスが勝つと思った?」
黒間は答えていいものか少し迷った。
あまり詳しいことを話して変な噂がたったら困る。憲兵に睨まれるような真似は避けたかった。
「そうだな・・・イギリスは自分の庭で戦うわけだろ?撃墜されてもパイロットが生きていれば直ぐに復帰できる。だが、ドイツのパイロットは脱出しても捕虜になるだけだ」
「その前にドイツが押し切るんじゃないか?」
「イギリスはフランスとは違う。簡単に諦めたりしない。ジョンブルの伝統がある。それにイギリス海軍も無傷で残っている。ドイツがドーバー海峡を渡れるとは思えない」
それもそうだな、と斎田は頷いた。
世界三大海軍のイギリス海軍が健在である限り、ドイツがドーバー海峡を渡るのは不可能だ。制海権が取れなくては、ドーバー海峡は渡れない。
トラファルガーの海戦やネルソン提督の例を持ち出すまでもなかった。子供でも分かることだ。戦車は海を渡れない。
ヨーロッパ最強の大陸軍を率いたナポレオンは海峡を半日でも霧が閉ざしてくれば世界を変えて見せると言ったらしいが、霧にまぎれて海峡を渡ったところで帰り道を失って全滅するだけだろう。皇帝になる前にナポレオンはエジプトに渡海遠征しているが、イギリス海軍に帰り道を塞がれ散々な失敗に終わっている。
歴史上唯一、イギリスを征服することができたのは、ユリウス・カエサル率いるローマ軍だけだ。カエサルは強力なローマ海軍で海峡の制海権を確保し、それを成功させた。
今のドイツ海軍にイギリス海軍を正面から打ち破る戦力がどこにもないことは誰もが知っていた。巡洋艦に追い立てられたポケット戦艦、アドミラル・グラーフ・シュペー号がウルグアイで自沈したことは日本でもマスコミで広く紹介されている。
そうしたことから、イギリスが航空戦に負けてもドイツが本土に上陸することはないという考え方もできる。上陸作戦の最中に、艦隊が突入してきたら目も当てられないことになるからだ。
「だったら、飛行機で戦艦を沈めてやればいい」
真っ赤な顔をして話に絡んできたのは島次郎だった。
海軍からの転籍組で、階級は二等航空兵曹(二空曹)だ。つまり、軍曹である。しかし、島の方が少し昇進が早い。そして、下士官室の同部屋だった。
かなり酔っているらしく目が座っている。やっかいな奴に絡まれたものだった。
「陸攻を飛ばして、戦艦ネルソン号の土手っ腹に魚雷をぶち込んでやるんだ」
陸攻とは帝国海軍が整備している陸上攻撃機のことである。
航空魚雷を搭載し、敵艦を雷撃するために作られている。これは黒間も何度か見たことがあった。前世の大戦でも見たことがあったし、ノモンハンに出動した九六式陸攻も見ている。
陸攻は日本海軍独特の兵器である。ワシントン・ロンドン海軍軍縮条約で平時の兵力量を制限された帝国海軍は、無制限の戦力である航空機で優勢な英米海軍に対抗しようとした。それが結果として時代を先取りする形になり、マレー沖海戦の大勝に繋がった。
ただし、前世の大戦末期には防弾皆無の無理な設計が祟り、出撃するたびに壊滅的な損害を被った。
あまりにも簡単に火を吹くのでワンショット・ライターなどという不名誉な2つ名を頂戴している。誤射ではあったが、火力が貧弱なことで定評がある隼戦闘機の一連射で火を噴くような脆い爆撃機だった。
実際、陸攻が生還するのは兵器の性能や技量ではなく運の要素が強く、陸攻で出撃し、3回雷撃して生き残った者はいないとされている。
「島軍曹は戦艦を飛行機が撃沈できると思う?」
「逆にできないと思う理由を知りたいね」
島の物言いは挑発的だった。
「浮沈艦なんて無いんだ。陸攻が四方八方から雷撃すれば、戦艦だって沈められるはずだ」
「そうだな」
黒間は深く頷いた。
前世でも陸攻は戦艦を撃沈している。マレー沖海戦だ。
もっとも、それをここで話すわけにもいかなかった。まだ、それは起きていないことだったし、できれば起きて欲しくないことだった。
「ま、ルフトヴァッフェのお手並み拝見ってところだな」
黒間は新聞に載ったゲーリング国家元帥のポートレイトを見てそう呟いた。写真はプロパガンダ映画のカットなのか、ゲーリングは元帥杖を片手に、厳しい表情の横顔を浮かべている。
それを見ていて黒間はあることに気がついた。
ゲーリングってこんなにスマートだっただろうか?
黒間はゲーリングが麻薬中毒患者で、かなりの肥満であることは何かの雑誌で読んで覚えていた。
しかし、新聞写真のゲーリングは、かなりスマートで、どちらかと言えば痩せぎすな感じだった。
「どうしたんだ?」
「いや、なんでもない。気のせいだ」
写真なら幾らでも修正できる。
それにゲーリングが肥満であろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいことだった。
「俺はドイツが勝つと思うぜ」
もう一人、酔漢が話に絡んできた。
佐権力軍曹だ。島次郎と同じ海軍から転籍組だった。元の階級は、二等航空兵曹(二空曹)だ。昇進はやはり佐権の方が黒間よりも早い。やはり、下士官室の同部屋だった。
「飲み過ぎじゃない?」
「ダイジョブ。自分を信じて!」
大丈夫という酔っぱらいが大丈夫だったことは古今例がない。
かなり酷く酔っていた。目が泳いでいる。
島と佐権は海軍からの転籍組で、二人でよくつるんで飲んでいた。二人ともかなりの酒好きだった。島は強肝臓の持ち主だったが、佐権は下戸だった。下手の横好きで、大抵は酔いつぶれて寝ている。
飲んでいるのに佐権が起きているなんて、かなり珍しいことだった。
「ドイツにはウラル重爆がある」
「ウラル重爆?」
無言で左権が頷くと、ちょっと待ってろと席を立った。
「便所かな?」
「さぁ?」
しばらくすると佐権が戻ってきて、一冊の雑誌を広げた。
「こいつだ。ウラル重爆撃機。ユンカース89、4発重爆撃機だ。これらからはこういう飛行機の時代だよ」
モノクロ写真に封じ込められたジェラルミン製の怪鳥は鉄十字のマークをつけた大型爆撃機だった。
巨大な主翼と太く括れた胴体が印象的な大型機だ。胴回りは九七式重爆よりも二回りは大きい。下から映した機体のフォルムは、どことなくシロナガスクジラのように見えなくもなかった。鰹節のように突き出た機首が印象的である。
どこか垢抜けないイメージだった。前世大戦末期に本土上空で遭遇したB-29に比べるとレトロチックといった体だが、それが却って得も言えぬ迫力を醸しているのかもしれない。
そうした機体が滑走路か駐機所と思しきところに何十機と並んでいる。写真に写っていないだけで、おそらくもっと沢山の機があるのではないかと思われた。
掲載写真はどこかの軍事基地内部を映した写真ばかりだった。写っている兵隊は、おそらく全てドイツ兵だ。飛行機の整備作業や、喫煙中の寛いだ表情のワンショット。離陸するメッサーシュミット戦闘機や無線機の前に陣取る通信兵の写真まであった。
黒間は雑誌を読み進めてあることに気付いた。写真のアングルが、どうも隠し撮りの体なのだ。
裏を返して表紙を確認するとタイトルは、第二通信とある。
「これ、憲兵が回収してる発禁の雑誌なんじゃ・・・」
「細かいことはいいんだよ」
よくないと思ったが、黒間は黙っておくことにした。
「戦艦も空母も、戦車も何もかも時代遅れだ。これからは4発重爆が、敵国を直接爆撃することで、地上戦も海戦もなく勝敗が決する時代だ」
「戦略爆撃か」
「ああ、そうそう。それだよ、それ。日本にもこういう重爆が必要なんだ」
黒間は肯定と否定の言葉を同時に思いついた。
肯定するのは簡単だった。自分には身に覚えがある。前世の大戦末期の本土空襲だ。B-29戦略爆撃機の攻撃で日本は焦土と化した。
今でも瞼の裏に焼き付いているのは、爆撃を受けて炎上する日本の大都市だ。高高度精密爆撃から夜間低空無差別爆撃に切り替えたB-29が投下する集束焼夷弾は木と紙で作られたの本の街をいとも容易く灰にしていった。そこに住んでいる何の罪もない人々と一緒に。
炎上する街が夜空を赤々と照らし、悲鳴と怒号が耳朶を打った。真昼のように明るい街から、焼け出された人々の群れが暗い方へ暗い方へ逃げていくのが見えた。
翌日、火が収まって街に戻ると風景は一変し、真っ黒な焦土と街だったものの残骸だけが残っている。木造家屋は跡形も無いし、鉄筋コンクリートの建物は煤で真っ黒になり、朝になってもまだコンクリートに昨夜の熱を蓄えている。
そして、沢山の捻くれた誰のものとのしれない焼死体を片付ける仕事が始まるのだ。
最後はヒロシマ、ナガサキだった。
「どうしたんだ?クロ」
「なんでもない」
少し顔に出ていたらしい。
黒間は軽い頭痛を覚える。血圧が上がり、顔が浮腫んだ気がする。
冷静さを求めて、黒間は冷たいサイダーを煽った。
まだ、それは起きていないことだ。回避できる可能性はゼロではない。
「ウラル重爆で、イギリスの生産基地を片っ端から爆撃する。ロンドンはブリテン島南部にあるから、爆撃の射程距離圏内だ。チャーチルがどんなに頑張ったって、工場が殺られて武器が作れなくなったら戦争はオシマイだ。年内に戦争はドイツの勝利で終わる。イギリス海軍が無傷で残っていたって、何の意味もない」
「意味ないって、アンタ、ほんとに元海軍かよ」
斎田が呆れたように言った。
「俺が海軍に入ったのは飛行機が飛ばせるからだ。お船に興味はないね」
「だったら、陸軍でもよかったじゃないか」
「試験に落ちたんだよ」
佐権はバツが悪そうに言った。
「問題は、戦闘機だ。イギリス空軍の戦闘機が全滅しない限り、本土爆撃も本土上陸も絵に描いた餅だ。イギリスにはスピットファイアがある」
黒間は前世でスピットファイアと対戦したことがあった。
1943年の乾季のビルマ戦線だった。場所は確か、ラングーンだったと思う。
偵察機の護衛に出撃した隼Ⅱ型で、相手はスピットファイアだ。ハリケーンやP-40との対戦はあったが、スピットファイアとの対戦はそれが初見だった。
機影は、識別表に乗っていた標本と全く同じだったと思う。我が国の諜報機関は大変優秀であると場違いなことを考えてしまった。
その頃の自分は、戦慣れした一端のパイロットになっており、戦闘の最中にも余計なことを考える余裕があった。
スピットファイアの第一印象は、例えるなら肉厚なナイフのような飛行機だった。石を研いで作ったナイフ型の石器のような。無骨だとか、質実剛健とは言うよりも、滑らかな鈍さが際立つ機影だ。ただし、動きは見かけほど鈍くもないし、想像よりもずっと滑らかだった。
味方は3機、敵機は4機。同高度からの反航行戦だった。
戦果は撃墜2、撃破1。味方の損害はゼロだった。相手が格闘戦に付き合ってくれたからだ。上空から一撃離脱されたらあんなにも簡単にはいかなかっただろう。
スピットファイアが隼相手に格闘戦を仕掛けてくることはその後もしばしばあり、彼らが隼相手に格闘戦を仕掛ける愚を悟るまでの間は比較的楽な戦いができた。
だが、メッサーシュミット相手ならどうだろうか。
「そうだよな。問題はそこだ」
それから黒間達はしばし沈黙した。
戦闘機こそ、彼らの商売であり生活そのものだったからだ。
ドイツやイギリスの同業者がどんな気持ちで戦っているのか、推し量ることができる。そして、その推測はおそらく間違っていない。
期待と不安。我こそはという戦闘機パイロット特有のプライド。墜落、失墜の恐怖。空戦が齎す麻薬にも似た猛烈な射幸感。一度味わってしまったら、地上での生活はぬるま湯のように思えてくる。
ノモンハンのような、全滅するか、させられるか式の徹底した戦闘をくぐり抜けた後でさえ、黒間は敵パイロットへの交感を失っていない。
同じ悪い遊びを楽しむ仲間意識がある。
ノモンハンの戦いは所詮は、局地戦だ。ドイツとイギリスの戦いは国家存亡を賭けた全面戦争である。その渦中に身をおいている同業者が、今どんな気持ちで戦っているのか。
「考えてもしょうがない」
斎田がぼそっと言った。
そのとおりだった。戦場はユーラシア大陸の西果てにある。
「どうせ直ぐに結果はでるさ。ドイツが勝てば、秋口には戦争が終わる。イギリスが粘れば、延長戦だ。どっちにしても俺達の出番はまだまだ先の話だろうよ」
「出番なんて無い方がいいんだがな」
黒間はボヤいた。
日本に出番が回ってくるとすれば、同時にアメリカの出番も回ってくるはずだからだ。
翌日、飛行。
黒間は鳥になるため、飛行服を身にまとう。
季節は夏だったが、高度があがれば地上の熱気は消し飛ぶ。保温のために分厚い飛行服は必須装備だ。しかし、暑いものは暑い。
額に流れ落ちる汗を絹製のスカーフで拭い、黒間はやぶにらみに熱気の漂う滑走路を見やる。
正午過ぎだった。
とてつもなく静かだ。暑さのせいか、それとも他に黒間の知り得ない理由でもあるのか、妙に静かだ。
「何やってんだ。早く来いよ」
久しぶりに二人で飛ぶ斎田がぶっきらぼうに言った。
「日が暮れるぜ」
「その方が涼しくなる」
黒間は買ったばかりのサングラスをかける。
「どうしたんだ?それ」
「日差しで目がやられそうだ。目は大切にしないとな」
大切に使えば一生使える。
格納庫には整備の済んだ零式戦闘機が2機。エンジンの暖気は済んでいる。
零式戦闘機は初期の故障が一段落して、数も20機程度に増えていた。しかし、大隊の全てを満たすほどの数はまだ無い。
生産性に重大な問題があるのか、それとも他に優先的に供給されているのか。或いは単純に予算の問題なのか、何れにせよ零式戦で飛べる日はあまり多くなかった。
ともかく貴重な時間を空費するのは避けたい。
黒間は整備兵の手を借りてさっさと機に乗り込むと結束バンドを接続し、チョークを外してもらい、スロットをを開いて滑走路に向かった。
少しだけ視線が高くなり、視界が基地のフェンスを超えて基地を囲むトウモロコシ畑に届いた。
青々としたトウモロコシが背を高く太陽に向かって伸びている。それが地平線の向うまで果てしなく続いているのだ。
ハルビンの郊外な夏の風景だ。実に大陸的な夏である。
流れていく地上の風景を追いやって離陸。
急くようにエンジンをいからせて、地上から機体を引き剥がす。一度だけ後方を確認して、斎田がついてきているか確認する。
斎田の零式戦が、後下方に見えた。
黒間は機をバンクさせる。無線を使わなくてもそれだけで意味が通じる。
零式戦はハーフロールして、黒間は操縦桿を引く。骨格が遠心力で軋む。筋肉をパンプアップさせ、黒間はそれに耐える。
加速度と遠心力の合成値が航空力学とパイロットの本能による統制を受け、なめらかに機を右旋回させる。
黒間は進路を北にとって、高度を上げていった。
零式戦は九七式戦改よりも、遥かに優れた戦闘機だった。
とにかく速度が出るのが素晴らしい。機体の剛性の高さから安心して乱暴な操作ができる。九七式戦では空中分解するような急降下でもびくともしない。
ただし、小回りはあまり効かない。水平面での旋回戦は九七式戦とは勝負にならない。
ポイントは速度を維持することで、高速を維持していれば九七式戦よりも機敏に動ける。九七式戦の得意とする速度域では戦わないことができる。仮に九七式戦が得意とする水平面の旋回戦に巻き込まれても、スロットルを開けば加速して逃げられる。高度があれば急降下して離脱してもいい。
この戦闘機がもう少し早く実戦配備されていれば、ノモンハンであんな苦労はしなかっただろう。零式戦であれば、I-16やI-15を確実に捕捉、撃墜できただろう。
試しに黒間は空想の中でI-16と戦ってみた。
退屈な国境監視飛行の暇つぶしにはちょうどいい。
黒間の想像の中で、I-16は大抵の場合は劣位で空戦を始める。都合のいい想定というわけではなく、零式戦の過給器の2速設定高度が彼よりも高いというだけの話だ。
黒間は下方を見て、緑で覆われた山々の背景に仮想のI-16編隊を配置してみた。3機編隊。寸胴なハエのように見える機影が3つ。
敵機は零式戦の接近にまだ気付いていない。降下しつつ増速して、400ktまで加速。照準器の真ん中に敵機を捉える。
操縦桿の機銃発射トリガーは2種類にある。20mm機関砲1門と7.92mm機銃が4丁。同時発射も可能だった。
20mm機関砲用のトリガーに指を掛け、照準器の円環から敵機の主翼がはみ出た瞬間に引いた。
20X110弾、130gの炸裂弾が秒速880mでI-16の胴体に突き刺さり、爆ぜる。敵機に大穴が空き、主翼が千切れて飛ぶ。錐揉み状態で敵機が墜落する。
零式戦はそのまま下方に離脱。もう一機も列機が始末した。
残りは1機。不利を悟った残敵が逃走に移る。急降下して離脱。九七式戦相手なら通用するテクニックだが、零式戦には通じない。
地面スレスレまで逃げる敵機を零式戦は難なく追跡し、撃墜しようとしたところで黒間はあることに気がついた。
「10時方向・・・何か見える」
無線封鎖を解除し、黒間は斎田に確認を求めた。
「あれは偵察機か?」
斎田はあんなの見たこともないと付け加えた。
こちらよりも高いところを双発機が飛んでいた。
その双発機は南から北に向かっている。南は満州国で、北はソ連である。これから偵察機に向かう友軍機かもしれなかった。逆に仕事を終えてソ連に戻る敵機である可能性もある。
国籍マークがどこにも見当たらなかった。国籍不明機の取扱いは規則で決められていて、不明機が武装していてこちらの指示に従わない場合は撃墜していいことになっている。
大抵の場合は、航路を外れた旅客機などだが、敵味方の秘密偵察機らしきものに遭遇したこともある。
一瞬、黒間は戦闘機乗りの衝動に駆られた。
不明機を追いかけてみたいと思ったのだ。しかし、発砲は禁じられていたし、上から指示で先制攻撃されない限りはソ連機は無視する決まりになっていた。
些細な衝突が日ソ全面戦争に発展することを日本政府が酷く恐れていたからだ。
独ソ不可侵条約がある限り、ソ連は後背の脅威を受けることなく対日戦に全戦力を投入できる。そうなっては苦戦は免れない。満州国の保持さえ怪しいものだった。
それが、日本がドイツとの同盟交渉に躍起になっている理由の一つでもあった。ヒトラーとスターリンの同盟など、日本にとっては有害無益でしかない。
「今のは見なかったことにしよう」
「そうだな」
黒間の提案に斎田はそっけなく答えた。
不明機は高度を上げながら、国境を越えて向こう側に飛び去っていた。
1940年の夏はまだ始まったばかりだが、国境の空は緊張に冷たく震えていた。