春のめざめ
1940年4月15日 ハルビン郊外
ハルビンの春は遅く、短い。
街が氷の都と呼ばれる時期が過ぎても、あまり暖かくならなかった。
雪は溶けなくなり、若葉が芽吹いても、空は寒々しいままだ。
しかし、5月に入ると急に暑くなり、いきなり夏が始まる。ハルビンには夏と冬しかないのだ。
もっとも、高度3,000mを巡航していれば、外界が夏だろうと冬だろうとあまり関係がなかった。富士山を見下ろす高みに登ってしまえば、後はただひたすらに寒いだけだ。
エンジンの熱と革製の飛行服に守られて、黒間以蔵は訓練空域に向かって飛行中だった。
列機は3機。自分を入れて合計4機。標準的な1個戦闘機小隊だった。
さらに、吹流しを引いた練習機が1機いた。
本日の訓練内容は射撃である。
練習機が牽引する吹流しにむかって射撃を加え、襲撃動作を繰り返す。やっと戦闘機らしい訓練ができるまでに新米達は熟達してきた。最近は特殊飛行(宙返り等)なども教えている。
ただし、未だに本格的な戦闘に耐えるとは思えなかった。
あと3月か、4月もすれば、それなりに形になってくるのではないかと思う。
「門田。フラフラするな!」
黒間はふらつく列機に鋭く言った。
門田明伍長の飛行時間は50時間程度だ。本当なら第一線の戦闘機には触れることもできない程度の技量しかない。しかし、そんなパイロットでも使えるようにしなければならなかった。
彼の機は巡航編隊から今にも脱落しそうだった。
緊密な4機編隊を維持するのは、それなりに技量を要する。適切な間合いを保つために、細かなスロットルの調節が必要だった。
しかし、新人にはそれが難しい。
スロットを開ければ編隊がつまり、閉じれば開きすぎてしまう。適切な間合いを保つためには先を読んだ調節が必要だが、それが簡単にできれば苦労しない。
また、風の影響も無視できない。高度が上がれば、空気密度が下がって機体が浮つく。一緒に飛ぶ編隊各機の作り出す航跡流にも注意を払う必要がある。
そして同時に、これが実戦ならば索敵も行わなければならない。
編隊飛行というのは參加するパイロット全員の総合的な技量を問われるものだった。
「危ない!バカヤロー!」
スロットルを開けすぎた門田の機が危険な距離まで接近してくる。
黒間はラダーペダルを蹴って、機を滑らせ接触を回避する。
危うく衝突するところだった。
頭に血がのぼりかけるが、あまり怒鳴っても逆効果だった。飛行中に萎縮されても困る。それこそ事故の元である。
「す、すいません!」
インターカムを伝う門田の声は震えていた。
黒間は頭痛を覚える。震え上がりたいのはこっちだった。
この3ヶ月間、訓練中の事故で既に3人が死んでいる。墜落した戦闘機が5機だった。墜落した5機内、脱出に成功したのは2人しかいない。
飛行大隊の戦力のおよそ一割程度が訓練だけで失われている。
特に操縦が難しい機ではない九七式戦改を使った訓練でこの有様だった。
技量が低すぎるのか、それとも訓練のやり方が悪いのか。大隊の多く将校は前者の信者だったが、その信仰を表明したところで、何の変化もないのが現実だった。
であるのならば、やり方を変えていくしかない。
「黒間から、各機へ。編隊を第2法に組みかえる」
第2法というのは、最近になって現場独自の経験と考察によって編み出された飛行編隊だった。
従来の密集して緊密な編隊ではなく、4機の間隔を広くとっているのが特徴だった。各機の自由度が高くなり、操縦技量が低いパイロットでも編隊を維持しやすい。
編隊の維持が容易なので、その分だけで索敵に集中しやすい。
欠点はその逆で、各機の自由度が高いので個々の技量向上と一層の相互連携に対する訓練の深化がなければ、バラバラの単機戦闘になりやすいことである。
ノモンハンでの空戦は既に多くの体系的な分析が費やされ、ソビエト空軍の使用する戦法についても纏まった文書が現場に配布されていた。
それによると、ソビエト空軍は主戦法は単機空戦ではなく、編隊空戦に移行しつつあり、これに対抗するにはわが方も編隊空戦法の確立しなければならないと結論されていた。
しかし、具体的にそれがどんなものであるのか未だに明確ではなかった。
ドイツ空軍を真似て4機編隊を導入したものの、使用法については試行錯誤の段階だった。
飛行編隊第2法も、その過程で生まれた戦術の一つで、4機編隊に高低差をつけて横一列に並べ、各機の間隔を50~60mほど空けて配置するのがその基本形態だった。
速度が出ている場合は編隊の間隔を広げて対応する。
後に、傘型編隊と呼ばれることになる日本空軍の基本飛行編隊の萌芽だった。
この時点では、未だ制式なものではなく、あくまで現場の創意工夫による自然発生的なものに留まっていたが、戦闘機の高速化により密集編隊の維持が困難になるにつれて、急速に広まっていた。
編隊第2法への組み替えると烈機の飛行が目に見えて安定したので、黒間はやっと一息つくことができた。
黒間は眉間に寄った皺を揉む。最近、頭髪に白髪が混じっていることに気付いて戦慄した。
部下を率いて飛ぶというのは重荷にほかならない。自分の命の心配だけしていればよかったころが懐かしい。あの頃は気楽だった。
「射撃訓練、始めるぞ。クロ、お手本を見せてやれ」
「了解」
訓練空域(それほど厳密な定めがあるわけではなく、実弾の空薬莢を空からばらまいても地上に迷惑がかからない場所)にたどり着き、練習機に乗り込んだ篠原中尉から無線が来た。
今日は中隊長自らが射撃標的を曳航する練習機に乗り込んで射撃訓練の評価を行う。
その為、新米が必要以上に緊張していた。それでは実力の半分も出せないだろう。
小隊長の黒間にとってははた迷惑な話だった。
そもそも、中隊長の參加は土壇場で決まったものだ。実態としては中隊事務室の書類格闘から中隊長が敵前逃亡を図っただけのことだ。
きっと、週番下士官は顔面蒼白だろう。
「これより攻撃を開始する。まずは、後方上空攻撃だ」
戦闘機の攻撃機動としてはもっともベーシックなものだ。
黒間は機首上げして、高度を稼ぐ。スロットルを少し絞る。主翼に風をあてて、揚力を多めに稼ぐイメージ。
編隊から離れ、標的の吹流しから500m程度の後方、上空に機をつけた。
上昇で対気速度が落ちていた。
しかし、エンジンのパワーには余力があり、何より高度があった。
降下のタイミングを読んで、機首を下げ。スロットルを空ける。標的に向かって突進する。降下格は40度程度。ラダーで横風の影響を修正する。
射撃直前にラダーペダルから足を離し、舵を中立に戻す。ピタリと白い吹流しが光学照準器の中央に来る。そこから少し前に向かって、操縦桿の銃把を引く。
機首機関砲と主翼のガンポッドが火を噴く。
射撃は一瞬。
九七式戦改は直ぐ様に標的を通り過ぎた。吹流しの下方に抜ける。黒間は首廻らし、上空を見た。白い吹流しに無数の穴が空いているのが見える。
そのまま上空を睨んだまま降下で増速した機速を使って、ズーム上昇。
黒間は青空の中に並ぶ編隊との間合いを計り、ピタリと元の位置へ機を戻す。軽く機首上げ、速度を殺す。スロットルを元に戻した。
変わったのは航空時計の分針と幾ばくかの残燃料。それに射撃に使った弾薬の重量だけだった。
「流石だな」
篠原の講評に、黒間は機をバンクさせて答えた。
それから2番機、門田。3番機、斎田。4番機、多見が代わる代わる後方上空から突進した。
分隊長機の斎田は別として、門田と多見の射撃は早すぎる上に、遠すぎた。
「ヘタクソ!もう一度、最初からやり直せ!」
容赦なく篠原の罵声が飛ぶ。
「黒間!てめぇは新人に何を教えてやがった!」
もちろん、雷は黒間の上に降り注ぐ。
全くいい迷惑だった。
「門田、多見。もう一度やり直しだ。俺が間合いを図るから、俺の合図で射撃しろ。分かったか?」
二人からの応答を待って、黒間は編隊を離れた。
「門田。お前からだ。標的の後方上空に占位しろ」
門田機が、上昇して練習機の後方上空に機をつける。
黒間は出来るだけ2機を俯瞰できるように、少し距離を取った。
「門田。標的との距離はどれくらいだ?」
「500mはあると思います」
黒間は顔を顰めた。
「今の位置で300mってところだ。もっと距離をとれ」
緊張していたり、集中していたりすると思ったよりも遠くのものが近く見えることが多い。
門田が陥っている錯覚もそれによるものだと黒間は推定していた。地上での訓練では、門田の距離感は評価に値するほど正確だった。
門田機が機首上げ、再度上昇する。
「門田、止まれ!」
今度は行き過ぎそうになったので、黒間は慌てて止めにかかった。
距離感というものには、天性の才能があるというのが黒間の持論だった。
ただし、才能の有無は練習を重ねることである程度は補うことができる。真に恐るべきことは、才能あるものが真摯に練習を重ねた場合の結果だ。
黒間は自分の距離感に天性はないと判断していた。
残念なことだが、仕方ない。偶に天性の持ち主が現れ、ひと目見るだけで対象との正確な距離をたちどころに明らかにして周囲の耳目をか攫っていくものだが、凡人でも技術を身につけることで似たようなことができる。
黒間が使うのは風防の窓枠を使うやり方で、風防の窓枠と単発機の大きさの割合を使って、彼我のおおよその距離が分かる。
風防の窓枠は自分の指の第一関節でも代用することもできた。双発以上の爆撃機を相手にする場合にも応用可能なやり方だった。
或いは、経験で何となくおよその距離を掴むことできたが、経験による測定は心理状態の影響を大きく受けるので、戦闘中にはあまりあてにならない。特に爆撃機を相手にするときは、敵の防御機銃によって、どんなベテランパイロットでも緊張を覚える。逆に言えば、爆撃機の防御機銃の実効性とはその程度の意味しかない。
射撃において正確な距離を知ることは極めて重要だった。
弾丸がどの距離まで直進し、いつから垂れるのか、どの距離からどの敵機に対して有効な打撃を与えることができるのか。これは数値化されていて、概ね距離に比例して結果が悪くなる傾向がある。有効射程外からの射撃は全く無意味になる。
一番確実なのは、敵機にぶつかるぐらいの勢いで突進し、銃撃を浴びせることであった。
しかし、いつでも確実な方法を実施できるとは限らない。
だが、これ以上のことを今の新人二人に求めることができるだろうか?
「降下を開始しろ。ゆっくりでいい」
門田機が機首を下げ、吹流しに向かって突進していく。
黒間は門田が見えているものを想像した。
下方に練習機があり、細いワイヤーで曳航される吹流しがある。その下方には雪解けの大地があった。大地は彼方にあり鮮明な地図でも見ているな印象を与える。
光像式照準器の円環の中心に吹流しがあり、オレンジ色の豆電球の灯りに染まっている。
機の加速度と重力でずれそうになり照準を補正しながら、門田は黒間の射撃命令を待っている。
だが、まだまだ遠い。
「撃ってよし!」
黒間が射撃を命じたのは、殆どすれ違い様同然だった。
射撃時間はごく僅かだった。しかし、徹底した近接射撃によって、吹流しは穴だらけになった。
射撃を終えた門田機が標的の下方に抜け、編隊に戻ってくる。
「門田。今の感覚を忘れるな」
篠原は褒めはしなかったが、満更でもない調子だった。
黒間は無線に乗らないように注意深く安堵の溜息をした。
地上に戻って機を整備兵に預けるとパイロットは集合して篠原の講評を受ける。
はずだったが、中隊事務室からやってきた週番下士官が恐ろしい顔をして篠原を連れて行ったので、訓練の講評は黒間が行った。
さらに、訓練の結果と各個の反省を文書で提出することが求められていた。
訓練の結果や反省点を書面に書き起こすのは、自己客観視するためだ
それを確認して添削して返すのも黒間の仕事だった。
よって、戦闘機部隊であってもそれなりに事務仕事は発生する。小隊員を解放した黒間が直ぐに事務机に向かったのはその為だ。
各員の飛行時間や訓練の結果も纏めて文書で提出する必要がある。
戦争をやっていても、やっていなくても軍隊とは巨大な官僚組織だった。紙がなければ何も進まない。
昔、NHKで見た歴史教養番組では、中国における紙の発明が大軍の編成を可能とし、戦争の大規模化と巨大な中華王朝を誕生させたと解説していたことがあった。
さもありなんと黒間は思った。
部下から上がってきた報告書に一枚一枚、丁寧に講評を加えながら黒間は欠伸を噛み殺す。
こうした仕事の退屈さは古代人も現代人も同じだ。
軍隊生活の大半がこうした退屈な時間の中にあることを娑婆の人間はどれだけ知っているのだろうか。
華々しさだけを強調されがちな戦闘機パイロットでさえ、年間の飛行時間は200時間程度に過ぎず、それ以外の時間は全て地上で過ごしているのだ。
1年は365日、8,760時間ある。空を飛んでいる時間はその内の数%しかない。
その数%があるからこそ、このような退屈にも耐えられるのだ。
「クロ。ちょっといいか?」
「ダメです」
黒間は篠原の呼ぶ声を顔も上げずに却下した。
淡々と報告書に自分の検印を押して、決裁板に閉じていく。
「お前、上官を上官だと思ってないな?」
「中隊長殿。手が止まっています」
竹刀を持った週番下士官が冷たい声で言った。
篠原が絶望的な顔をして書類に向き直る。
どんな理屈をつけても退屈に耐えられない人間もこの世に確かに存在するのだ。例えば、彼のように。
「決裁をお願いします」
黒間は確認が終わった報告書を篠原の事務机に置いた。
決裁受けのトレーには似たような決裁板の束が30cmは積もっていた。これだけ決裁未済文書が溜まることも珍しい。
幾つかの書類は、起案日が先週のものもあった。流石にこれはマズイだろうと思う。どれだけサボればこんなことになるのだろうか。
「俺、書類を見ると蕁麻疹が出て気を失いそうになる病気なんだよ」
「そうですか、お大事に」
そっけなく黒間は答え、週番下士官に軽く会釈をして黒間は中隊事務室を退室した。
事務仕事ですっかり肩が凝ってしまった。
酒保に行って煙草でも吸おうかと思ったが、黒間の足は格納庫に向かっていた。
ハルビン飛行場の格納庫はクレーン等の近代的な設備を持っていて、帝国空軍が保有する全ての飛行機が収容可能な広さがあった。
もっとも、整備が終わった機体は外の掩体壕に移されるので、作業がないときはガランとしている。
場合によっては昼食後の運動にバレーボール等をしていることもあった。冬場は特にそういう使い方をされることが多い。
「クロ、どうしたんだ?何か用か?」
鏡のように磨き上げられた禿頭の相原大尉が目ざとく黒間を見つけて言った。
「見学してもいいですか?」
「別に構わないが、機材に触るなよ」
黒間はもちろんと頷いてクレーンに吊るされた整備中の零式戦闘機を見た。
機体からエンジンが外されて、台車の上に載せられている。
そのエンジンは水冷式だった。
黒間はカウリングを外され、補機類が剥き出しになったエンジンをしげしげと見つめた。
「どうした?」
「いえ、珍しいなと思いまして」
「そうか?」
相原は僅かに首をかしげたが、そうしたいのは黒間の方だった。
黒間は自分が知っている零戦とは似ても似つかない零式戦闘機を見つめた。ちなみに、この戦闘機に「艦上」はつかない。この零戦は陸上用戦闘機だった。
まずエンジンからして空冷でないことから機体が与える印象が違った。
機体の線は非常に繊細でスマートに作られていて、如何にも日本風だ。しかし、黒間の知っている他のどんな戦闘機にも似ていなかった。
かなり強引だが、前世の大戦末期に本土防空戦で見かけた海軍航空隊の局地戦闘機の雷電がダイエットに成功した風に見えるのかもしれない。或いは零戦と雷電を足して2で割った風か。風防の形式は雷電によく似ていた。涙滴型ではなく、機体に一体化したタイプだ。しかし、後方視界は見た目ほど悪くないと言われていた。どのみち、どんな風防をつけようと真後ろは見えない。
この戦闘機が部隊に配備されたのは2週間ほど前のことだ。
今のところ1個小隊分、4機しかない。飛行大隊の大隊本部隊が使っているだけだ。生産数が少ないのか、他に何か理由があるのか、実際のところはよく分からない。
真新しい機体だけあって、最初は注目の的だった。
しかし、2週間もすると物珍しさも薄れてくる。逆に欠点や欠陥の方に目が行く事もある。
この見たこともない零戦も故障が頻発することから、最近は大隊本部でも持て余していると聞いていた。
「エンジンの故障ですか?」
「そうだ・・・50時間も回らないとはね。愛国心が足りないんじゃないのか?」
苛立たしげに相原が言った。
「三菱のヒスパノ・エンジンがダメなんだ」
「何がダメなんですか?」
「クランクシャフトや軸受の強度不足。オイル・ポンプの容量不足。いいところを探すのが難しいな」
オイルで真っ黒になった部品を相原は手にとってみせた。
「見ろ。軸受が焼き付いて摩滅している。強度が足りないんだ」
その様子が豚か牛を解体して臓物を観察しているように見えて、黒間はグロテスクなものを見た気分になる。
「20mm機関砲もまともに動かない。酷いもんだ」
黒間はエンジンから外された機関砲を見た。
新型の20mm機関砲だ。砲身が2m近くある。長砲身砲だった。高初速で弾丸を撃ちだすことができる。零戦はこれを中空のエンジンクランクシャフト内に砲身を通してプロペラスピナーから発射する。
所謂、モーターカノンだ。
ヒスパノ・スイザ20mm機関砲。制式には99式20ミリ機関砲という。ヒ式機関砲と呼ぶことが多い。
この見たこともない零戦は、ヒ式機関砲を機首に1門装備していた。他に、九八式固定機関銃が機首2丁、主翼2丁。合計4丁装備である。これは九七式戦闘機改と同じだ。20mm機関砲の装備で、火力は飛躍的に向上していた。ただし、モーターカノンがまともに作動しないのが問題だった。
「初期不良は新兵器にはつきものでしょう?」
「そうだといいんだが。三菱の水冷エンジンは、昔から不安定だからなぁ。いっそ、エンジンはもう全部東亜重工につくってもらえばいいんじゃないか?」
「自分は、そんなに悪くないと思いますよ。これ」
黒間は、見たこともない零戦を改めて見なおした。
横からは葉巻のように見える胴体だが、前から見ると思った以上にスラっと細い。主翼も薄く小さく作られていた。前世で飛ばしたことがある二式単戦と良い勝負ができるかもしれない。ラジエーターやオイルクーラーを胴体下面に埋め込むように配置して、少しでも空気抵抗を抑える腐心も伺える。他にも如何にも高速で飛ぶことを目的とした意趣があちこちに散りばめられていた。
おかげで高度6,000mで310ktは出る。
水冷12気筒1,000馬力エンジンを装備した戦闘機としては存分に速いと思う。
「そんなに気に入ったなら、飛ばしてみるか?」
「いいんですか?」
「エンジンがオーバーホールが終わったあとの試験飛行でよければな、戦闘機動はするなよ」
黒間は深く頷いた。
翌々日、エンジンのオーバーホールが終わった零戦が格納庫から引き出された。
天気は悪くなかった。雲量は3か、2といったところ。快晴だ。
朝陽を浴びて、零戦の灰白色の塗装に温かみが宿る。
そうするとペコンだの、パコンだのというあまり聞きたくない金属音がするので、黒間は微妙な顔をした。冷たいステンレスの流し台にカップ焼きソバの茹で汁を捨てた時に出る時の音に近い。
金属応力外皮構造というものはそういうものだと知っていてもあまりいい気分はしなかった。
「気にするな。こいつの外板強度は12Gもあるんだ。急降下で450kt出してもびくともしない」
何故か焦ったようように相原が言うのでおかしかった。
「大丈夫。分かってますよ」
「ならいいんだが、操作説明書は読んだよな?」
黒間は頷き返し、説明書を相原に返した。
説明書はコンパクトな文庫本サイズで、ポップな文体とイラストがプリントされていた。表題は「俺の零戦がこんなに可愛いわけがない」。擬人化され何故か実妹になっている零戦とパイロットの兄が、妹のいかがわしい趣味を基軸に幼馴染の少女や学友達とドタバタコメディを繰り広げるストーリーを通して、零戦の操縦法を学ぶ内容になっている。
意図的に表情を消し去った黒間の顔を見て、相原は言った。
「前にも言ったかもしれないがもう一度言っておくぞ。これは俺が書いわたわけじゃない」
酷く真面目な顔をして、黒間は頷いた。
説明書の代わりに相原から飛行帽を受け取り、黒間はコクピットに滑り込んだ。
ざっと操縦席を見渡す。
各種計器の配置は九七式戦改とはかなり違った。九七式戦の製造元は中島飛行機だが、零式戦闘機は三菱だった。企業文化の違いだろうか、中島飛行機に比べて三菱の方が作りがしっかりして、高級感があるように思える。
それとも九七式戦と世代の違いがあるのか。計器パネルが全体的に見易い。
コクピット内部は、決して広いわけではないが適度に空間があり、座席にゆったりと座ることができる。座席のつくりは、明らかに九七式戦よりも上で、増槽込みで2,000km飛べる長距離飛行での疲労軽減を意図していることが分かる。
全体的に細い紡錘体のような機体だが、もっとも直径がある部分をコクピットに充てているようだった。しかし、視界が悪くない。水冷エンジンの特有の細く長い機首は地上駐機時には正面の視界を塞いでいるが、正面の左右は空けていてちゃんと前は見える。
風防の枠が多いのが多少気になるが、視界は十分だ。
しかし、正面はやはり見えないので地上では不便だ。これは水冷エンジン機なら仕方がないことだった。機体設計の巧緻は関係ない。
「座席の右側に配電盤がある。ブレーカーをあげろ」
黒間は言われたとおりにした。
配電盤も九七式戦改に比べてスイッチ類が増えていた。装備している電子部品の数が増えているからだ。長距離飛行用の電波方向指示器まで備えている。
「電圧計でバッテリーがちゃんと充電されているか確認したら、ラジエーターフラップを全開にして、セルモーターの作動スイッチを押せ」
零戦のエンジン始動には、起動車もエナーシャも必要なかった。セルモーターを使って、ボタン一つで自動的にエンジンがかかる。
エナーシャにクランク棒を突っ込んで苦労して回す時代は終わったのだ。
乾いた咳払いのような作動音がして、ペラが回り始める。
あっけなくエンジンスタートに成功したことに黒間が軽い感動を覚えた。
何しろ、それまでの戦闘機というものはエンジンの始動一つとってもエナーシャを回すために重いクランク棒を回したり、トラックを改造した起動車を呼んだりと手間暇がかかったものなのだ。
もちろん、そうした手間暇をかけている間に敵が来たら地上撃破される。
ノモンハンではエンジン始動中にI-16の機銃掃射を受けて地上で撃破された機も多い。飛行前だからガソリンを満載していて、銃撃されると景気良く燃える。
「エンジンの調子はいいみたいだ!」
回るプロペラの唸りに負けないように黒間は怒鳴る。
「当たり前だ。俺の整備は完璧だからな!」
負けずに相原が怒鳴り返した。
それからしばらくペラを回し、スロットルを押したり引いたりしてエンジンのテストをした。
相原は取扱説明書やチェックリストを片手に、コクピットに顔を突っ込んで計器を読んでいた。未だに信頼性が定かではないエンジンはベテランの整備兵にも細心の注意を払わせる。
癇癪の酷い手のかかる子供のようなものだ。
しかし、どれほど手がかかると言っても放り出すようなことはできない。使えるようにするのが、相原の仕事だった。
軍用機のエンジンは設計し、製造して、軍の審査をパスして終わるものではなかった。熟成させ、信頼性を確立するのに年単位の時間がかかる。最初から何のトラブルを起こさないエンジンなどただ一つも存在しないのだ。
「よし、飛ばしてみよう」
ひと通りの検査を終えるまでに、たっぷり30分はかかった。
黒間は一秒で早く飛んでみたかったので、いい加減にウンザリしていた。
「クドいかもしれんが言っておくぞ。絶対に宙返りとかするなよ」
「分かってますよ」
黒間はこの零戦の飛行資格をもっていない。
規則違反もいいところだ。しかし、それなりに零戦の飛行特性には検討がついている。飛行に不安はあまり感じない。前世の記憶があることが幸いした。複数の機種を乗り換えて戦ったことから、機種転換のコツのようなものを掴んでいるのだ。
この零戦の飛行感覚は、おそらく前世で飛ばした二式単戦と四式戦の中間か、四式戦に寄った感じではないだろうかと思う。
取扱説明書にあったこの零戦の離着陸の速度は四式戦にかなり近いものだ。
離着陸の速度はその機体のもつ揚力と密接に関係する。
揚力が大きけば大きいほど低速で飛べる。つまり離着陸速度が低くなる。揚力が小さい場合はその逆になる。
ただし、揚力が大きいと空気抵抗も大きくなるので揚力の確保は速度性能とトレードオフの関係だ。飛行機の設計技術というものは、概ねこの矛盾した2つの必須要素を同時に満たす方法論の開拓によって進歩してきたと言っても過言ではない。
この零戦の離陸速度は、四式戦に近いことから重戦型の戦闘機であろうことが分かる。それなら飛ばせる自信はあった。
ただし、水冷エンジン機なので過信は禁物である。前世で水冷エンジン機を装備した機は三式戦があったが、あれを飛ばした経験はない。
黒間はエンジンを絞りつつ、機を滑走路に向けた。
誘導路を回りつつラダーやエレベーター、エルロンを動かして動作確認する。動翼の操縦系は軽い。これは隼や二式単戦と同じだった。
四式戦は操縦系は重かった。渾身の力を込めないと曲がらない。アレではダメだと黒間は思った。ほんの小さな力でも、大胆に反応しなければいけない。戦闘機の操縦はピアノ演奏のように打てば大き響く繊細さが必要だ。
もっとも、黒間はピアノの演奏などしたことはなかったけれど。
滑走路まで来て、黒間はフラップを下げた。フラップは油圧式。
黒間はフラップが確実に下がったことを目視してから、スロットルを一杯に押し込んだ。ブレーキ解除。機体が弾かれたように走りだす。
三菱ヒスパノ・エンジンが離陸馬力を発揮し、直径3mのプロペラを回す。高ピッチプロペラ独特の鈍い響きが耳朶を打つ。
機体が反トルクで、曲がろうとする。あまり強くはない。軽くラダーで当て舵をすると真っ直ぐに走るようになった。
機体の反トルクは思ったほど強くなかった。おそらく尾翼を僅かに傾けてあるのが効いているのだろう。零戦は反トルク対策に尾翼を3度ほど傾けて取り付けていた。
これを取扱説明書では、零戦を擬人化する際にアホ毛として視覚化していた。
何がどうアホなのかは不明だ。しかし、アホ毛のお陰で格段に操縦しやすい。
黒間が余計なことを考えている間に機尾が浮いた。
黒間はそのまま滑走を続ける。操縦桿を引けば離陸できるが、何もせず機体が自然に浮くまで待つ。滑走路は2,000mもある。重爆が余裕をもって降りられる長さがあった。焦って離陸する必要はない。どれくらいで機体が自然に離陸できるのか確認する意味もあった。
滑走路を4分の1残して、足元から抵抗が消える。
主脚が大地から離れたのだ。機体の自重が主翼に集まるのを黒間は感覚した。ここからは揚力が機体を支える。
滑走路の端を越えるころには、高度が20m程度あった。
操縦桿を軽く引いて、高度を取りつつスロットルを緩める。念のために水温と湯温を確認したが、許容範囲内だった。
極々自然に機は空にあった。ふわりと浮くような、非常に軽やかな飛行だ。
黒間は主脚引き込みレバーを引いて、主脚を格納した。これは固定脚の九七式戦改にはない。主脚を格納するだけで速力があがった。続けてフラップを収納する。機体が僅かに沈むが、速力が上がると高度も回復した。
冷却水やオイルが冷え過ぎないようにラジエターフラップを絞る。
零戦は旋回しつつ高度を取る。眼下の風景が少しずつ小さく遠くなっていく。反比例に視界が開け、遠い雪のこる山岳までが小さく明瞭に捉えられる。
コクピットの視界を確認し、前方視界の良さに黒間は目を細める。低層の雲が黒間の目線と同じ高さまで来て、直ぐに流れ去っていく。
真っさらな純度の高い青空だった。黒間は冷たい乾いた空気を吸い込んで笑みを強くした。
「・・・いいじゃないか」
黒間はOPL型照準器のスイッチを入れた。
ここまで来て機関銃の試射ができないのは如何にも残念だった。
黒間は照準器のクロスヘアの中心に敵機の後ろ姿を夢想する。その機体はI-16であり、I-15であり、SB爆撃機だった。次にP-40やハリケーン、バッファロー、ビューファイターが現れた。スピットファイア、P-47やP-51、F6F、コルセアが現れて消えた。
黒間はそいつらを1機残らず空想の中で叩き落としてやった。