航空軍
1939年10月3日 ハルビン
ノモンハンの夏は終わり、冬がやってきた。
黒間は滑走路に積もった一面の雪を見てため息をした。
吐息が白く烟る。
黒間は格納庫の寒暖計を見て、諦めの苦笑いを浮かべた。零下12度だった。
それでも、まだマシな方だ。
厳寒の満州は12月には零下20度まで気温が下がり、何もかもが凍結する。市内を流れるスンガリ川さえも例外ではなく、凍結した川でスケートに興じるのが地元の子供たちの遊びだった。
ちなみにスンガリ川は大型船舶も航行可能な国際河川で、アムール川の支流の一つだ。日本の河川とは桁違いの大陸河川だが、凍るときは凍る。
ハルビン郊外に位置する飛行第11戦隊の格納庫からでも、雪景色になったハルビン市街は見えた。
空は鉛色だった。
ハルビンは清朝が対外貿易の拠点として定め、その後ロシア人が建設した石とレンガの街だった。日本のどの街とも似ていないヨーロッパ風の街だ。
それが雪化粧を纏うとちょっとした絵になる風景になる。
すっかり葉を落とし、裸になった木々の向うに見えるロシア正教の教会は、異国情緒に満ちていた。
前世でもハルビンには来たことはあったが、仕事が忙しく観光などしている暇はなかった。仕事がないときでも、興味よりも治安に不安があったので市街に繰り出すことはあまりなかった。
損をしたな。黒間はそう思った。
国費で海外に来ているのだから、あまり遊び呆けるわけにはいかないが、もう少し多くのものを見聞きしてもよかったのではないかと思う。
「おい、クロ公。ぼーっとしてないで、手伝え」
整備兵の相原大尉が言った。
格納庫には飛行を終えたばかりの九七式戦改があり、着膨れした整備士達がオイルを抜く作業を行なっていた。
何故、オイルを抜くのかと言えば、エンジンが温かい内にオイルを抜かないとオイルパイプの中で凍結し、エンジンが破損する恐れがあるからだ。
オイルを入れるのは飛行前だけで、入れるオイルも十分に予熱したものを入れる。エンジンそのものもオイル缶を加工して作った七輪の様な小型ストーブをぶら下げておいて、事前に温めておかなければならない。
冬の飛行作業というのは、恐ろしく手間暇がかかるものなのだ。
「何か珍しいものでもあったのか?」
相原は片眉を上げて尋ねた。
この男は、左右非対称の顔をつくることが多い。
「冬の街が綺麗だなって、絵になると思いませんか?」
「お前は絵かきにでもなるつもりか?」
相原が呆れたように言うと整備士達から失笑がこぼれた。
「別にそんなんじゃ・・・外国に来たんだからもうちょっと異国の街を見ておけばよかったなと思って」
「そうか。なら、作業が終わったら外出許可でももらって、好きなだけ見てくればいいさ」
相原は空のオイル缶を差し出した。
それを受けとって、黒間は浅く頷いた。
「もうすぐ、目が回るほど忙しくなるからな」
「え・・?」
相原は聞いていないのか?という顔をして言った。
「近い内に補充のパイロットが来るそうだ。やっと、な。随分と減っちまったからな」
「そうですか」
黒間は格納庫を見回した。
真新しい九七式戦改が並んでいる。しかし、その殆どが飛行作業に使われていない。
乗るべきパイロットがいないからだ。
飛行第11戦隊は、空中勤務者は57名だったが、ノモンハンから生きて帰ったのはその半分だった。戦死しなくても、負傷して空中勤務から外されたパイロットも多い。
部隊としては壊滅状態だった。
飛行機だけは次から次へと送り込まれてきたが、パイロットの補充がなかった。
ひょっとしたら、部隊を解散してどこかに合流するのかもしれないという噂が流れたほどだった。
「クロ、クロはいないか?」
振り返ると同じ中隊の根津三雄伍長が手を振っていた。
三角巾で右手を吊っている。
7.92mmの一発が彼の右腕に風穴を空けたのだ。幸いにも、腕は切断せずに済んだし、骨折も治癒しつつあったが、一時は絶望的だった。
「どうしたんだ?」
「篠原准尉殿が呼んでる。何かしたのか?」
黒間は首を傾げた。これといって思い当たる節はない。
「黒間伍長、出頭しました」
「入れ」
ドアを軽くノックすると中から応答があった。声の調子で、譴責のために呼ばれたわけではないことを即座に確認すると黒間は、思い切ってドアを開ける。
中隊事務室では書類の山の中で、篠原准尉が青い顔をしていた。
ノモンハンで戦闘疲労したときも、こんな深刻な顔はしていなかったと思う。
准士官室には斎田三矢もいた。いつもの小隊の面々が揃っている。
「お呼びとのことですが」
「ああ、別に固くならなくてもいいぞ。楽にしろ。譴責とか、そんなんじゃない」
では、何か?
疑問に思っていると篠原が拳を突き出した。
「手を出せ」
黒間がおずおずと手を差し出すと、手のひらに固い小さな感触があった。
曹長の階級章だった。
「今日からそいつをつけて勤務しろ。昔、俺が使ってた奴をやるよ。撃墜王の階級章だ。貴重品だぜ?」
「いいんですか、自分はまだ」
「いいんだ。お前には、それだけの実力がある。中隊長も、戦隊長も了解済だ。」
黒間は暫しして、斎田と顔を見合わせた。
自然と笑みが溢れる。
「ついでに、斎田。お前も今日から軍曹だ。階級章は自分で何とかするか、誰からからもらえ」
「えぇッ!、自分だけ扱いが悪くありませんか!」
「冗談だ。お前の分もちゃんとある」
机の引き出しから、少し古ぼけた軍曹の階級章が出てきた。
「やりぃ!」
「調子に乗るな!」
口調は厳しかったが、顔は屈託なく笑っていた。
東洋のリヒトホーフェンも、黒間と斎田にとっては、気のいい兄貴分だった。
「ま、他の連中も、生き残った奴は全員特進だ。一応、勝ったことになってるからな。あの大戦は」
大戦とは、ノモンハンの戦争のことだ。
停戦条約が結ばれたから、既に1ヶ月が経っている。第二次世界大戦が始まってからも、およそ1ヶ月だった。
1ヶ月と言えば、気の長い人間であっても、話に一区切りがつく時間だ。
ノモンハンの祝勝パーティーもあったし、部隊での合同葬もとっくの昔に終わっている。
第二次世界大戦は、黒間の記憶どおりに始まり、ポーランドは3週間あまりであっけなく降伏した。
この頃の日本の世論といえば、ドイツの裏切りと東欧の大国だったポーランドがドイツとソ連に分割され、地図上から消されたことに恐怖していた。
ソビエトを西から牽制していたドイツが当のソビエトと手を組んだのだから、ソビエトは今や全軍で満州に侵攻することができるのだ。
日本政府は動員令を発し、内地で編成された新設の師団が続々と満州防衛のために配置されていた。ハルビンにも、軍用列車がひっきりなしに訪れ、多くの部隊が満ソ国境へ向かって行った。
新聞紙上には、ポーランドの次はバルト三国やフィンランド、満州にソ連が攻めこむのではないかという予測が並べられていた。
黒間が覚えているかぎり、ソ連が攻めて来るのは第二次世界大戦も終わりに差し掛かったころだった。
しかし、現実に満州に駐屯している黒間にとって、ソ連の圧力というのは決して無視できないリアルな現実だった。
仮に今ソビエト軍が攻めてきたら、かなり酷いことになると思う。
それが一兵卒としてノモンハンを戦った黒間の正直な本音だ。
しかし、世間はもっぱらソ連が攻めて来ても無敵の国軍に撃退されるであろうと楽観しているので恐ろしかった。ノモンハンで勝った無敵国軍に任せておけば大丈夫ということだった。
新聞では、ノモンハンの戦争は日本が勝ったと報道している。これは前世でも同じだった。違うのは、実際の戦闘が最後まで五分五分で終わったことだ。前世のような酷い負け戦にはならなかった。
負けてはないが、勝ててもいない。それが黒間なりの分析だった。
それでも、前世に比べれば幾らかマシだ。
途中から海軍航空隊が参戦したおかげで、空中戦において敵に数で圧倒されるようなことはなかった。補給も潤沢にあって、飛行機の数が足りなくなるということはなかった。
先に足りなくなったのは、パイロットの数だ。
生き残ったパイロットは貴重品で、新しい階級章をばら撒くことぐらい大したことではないという判断なのだろう。
そこまで考えて、黒間は准尉の襟から階級章が消えていることに気付いた。
「あのー、ひょっとして准尉殿は・・・」
「こいつが目に入らぬか!」
電撃の速さで篠原がかざしたものは、中尉の階級章だった。
どうやら、黒間が気づくまで待っていたらしい。
「ご昇進おめでとうございます」
「まぁな。当然だな、当然の結果だ」
腕を組み、ほくそ笑む篠原は満更でもない調子だった。
しかし、笑みは長くは続かなかった。
笑みを引っ込めて真面目な顔をつくる。それもかなり深刻な面持ちで。
「今度、中隊長を拝命することになった」
「おめでとうございます」
「ありがとよ。でも、正直なところ気が重い」
篠原は机の上の書類の山に視線を落とした。
確かに、気が重い数だった。
准尉というのは帝国陸軍では最下級の将校だった。実際の階級は下士官に属するが、軍袴は尉官のものを使う。多くの場合は、古参の下士官がなるものだが、航空隊の場合はデスクワークとはあまり縁のない階級だった。
しかし、中隊長となれば話は変わる。
「そうすると、中隊長はどうなるんですか?ひょっとして、戦隊長ってことに?」
「いや、中隊長は転出だ。内地に戻る。他の中隊長やら、尉官、准尉は内地に戻って、新設の教育隊に配置換えになるそうだ」
「教育隊?」
「そうだ。戦隊の生き残りのうち、半分は内地に戻る。補充は、内地の教育隊から、繰り上げ卒業でトウシロがやってくるそうだ。そいつらの飛行時間を平均したら、30時間しかねぇ」
意味分かるな?と篠原は黒間の瞳を覗きこむ。
分かってしまったので、黒間は恐怖におののいた。
ノモンハンでパイロットの半分を失った11戦隊のさらに半分を引き抜いて、その補充に新米未満を充てようというのだ。
「無茶苦茶なことしますね。上も」
もしも、今、もう一度ソ連が攻めてきたら、戦隊はちょっと小当りしたぐらいで壊滅するだろう。
いや、そもそも戦う前から壊滅するのではないかとさえ思った。
まともに離着陸ができるかどうかさえ怪しい。
「そうだな。どうして、そんなことをすると思う?」
篠原は謎掛けするように問うた。
黒間は自分の持てる知識を動員して考えた。ノモンハンの戦いは、陸軍航空隊にとって大きなターニングポイントになった戦いだったはずだ。
この戦いから多くの戦訓を掴んだ陸軍航空隊は、海軍航空隊に先駆けて重戦闘機の開発を行い、様々な組織改革に取り込んだ。
「うーん、平均年齢を下げるためッスか?」
「てめぇには聞いてねぇよ!」
篠原は斎田を蹴っ飛ばした。
自分も迂闊なことを言えば、そうなりそうだった。
「パイロット養成の裾野を広げるためでしょうか。ノモンハンでは、飛行機よりも先にパイロットが足りなくなりました。一時的に、前線部隊の練度が低下することになっても、今から教育隊を増設すれば、2年後には纏まった数の新人が卒業してきます」
篠原は黒間の目を見据えて鼻を鳴らした。
「兵隊の割には、よく頭が回るじゃないか?将校になったらどうだ?」
「自分がですか?」
「そうだ。お前なら、あと2年もすれば少尉候補生になれるかもしれんぞ?俺みたいな特進じゃないから、上手くやればベタ金だって夢じゃないぜ?」
ベタ金というのは、少将以上の階級を意味する。
「冗談キツイですよ」
「真面目な話だ。ノモンハンを思い出せ。ソビエト軍の数を暴力を思いだせ。連中が、本気で満州に攻めてきたらあんなもんじゃすまないぞ。対抗するには、こっちも数を揃えなきゃならん。つまり、人手はいくらあっても足りないし、腕の立つパイロットはどんどん出世するチャンスがあるってことだ」
戦隊長の受け売りだけどな、と篠原は付け加えた。
「黒間、今日から小隊長だ。斎田は分隊長だ。しっかりやれ」
「あの、分隊長って?」
斎田が首を捻った。
陸軍航空隊では、3機で1個小隊であり、小隊が戦力の最小単位だった。分隊は存在しない。
「制度改正だ。これからは4機で1個小隊になる。つまり2機で1個分隊だ」
黒間は前世の大戦半ばから導入された組み戦法を思い出した。
2機一組でロッテ、4機一組でシュヴァルムと言い、ドイツ空軍が考案した4機編隊空戦術だった。日本ではこれを組み戦法、ロッテ戦法と呼んでいた。
支那事変、太平洋戦争初期には3機編隊で戦っていた陸軍航空隊も、途中からドイツ空軍の真似をして4機編隊が基本になった。
4機編隊、2機一組の特性は、連携が容易なことだ。3機編隊のケッテは、3番機に技量未熟なものが配置されることが多く、乱戦になると3番機が孤立して撃墜されることが多かった。
もちろん、3機が確実に連携することができれば2機編隊よりも効果的なのは言うまでもないが、空中戦という瞬間的な判断の連続する場合はこれがかなり難しい。
これから未熟なパイロットが大量に入ってくるならば、3機編隊よりもマンツーマンの対応ができる2機編隊の方が有利だった。僚機に何かあっても、直ぐに援護できるし、僚機が2機よりも1機である方が指揮官機も注意がしやすい。
しかし、こうした戦法が導入されたのは、昭和18年ごろの話だった。今は昭和14年だ。4年以上も、早く新戦術が導入されることになる。
やはり、黒間の知らないところで歴史改変は着々と進んでいるらしかった。
そこまで考えを巡らしたあたりで、黒間はあることに気付いた。
「中隊長。疑問があります」
「なんだ、言ってみろ」
「4機編隊が3つで1個中隊としても、幹部の数がどう考えても足りません」
今までは、3機編隊が4つで1個中隊だった。これからは、4機編隊で3つで1個中隊になる。
少尉か、曹長が3人いれば、最低限の指揮官が揃うが、今の飛行戦隊には全員を2階級特進させても、指揮官クラスの絶対数が足りない。
戦隊全体で、3個中隊があるから最低でも、少尉か曹長が9人は必要だった。
「補充はあるそうだ」
眉間を揉みながら篠原は言った。
「どこから?」
そんなものがないから、教育隊から訓練未了の新米を繰り上げ卒業させたり、生き残ったパイロットを特進させるのではないのか?
「海軍からだ」
黒間は絶句した。そんなことがあるわけない。
「陸軍航空隊は、海軍航空隊と合併することになるらしい」
それは、つまり・・・
「日本空軍が近日中に、発足する」
申請した外出許可はあっさりと降りた。
黒間は拍子抜けする思いで隊門をくぐったが、後から思えばド素人の新米がやってくる前に最後の休暇を楽しんでこいという篠原の気遣いであることが分かった。
彼らがやってきたら、それこそ昼も夜もなく戦隊は猛訓練に突入する。
いつソ連と再戦することになるかもしれない状況では、一日も早く彼らを使える一人前のパイロットになってもらわなくてはならない。
その為に必要な訓練のメニューを斎田と相談しながら練る毎日だったが、息抜きの必要性を思い出すにはあまり時間はかからなかった。
「おい、ボッサとすんなよ。行こうぜ」
「ああ、そうだな」
斎田も黒間も陸軍お仕着せの防寒衣だった。
飛行場大隊から借りた軽トラック(東亜重工製)のエンジンは一発でかかった。クラッチの操作もスムーズで、アクセルを踏むと軽快に走りだした。しかも、エアコン(暖房のみ)までついている。
どうして戦前の日本にこんな軽トラックが存在するのだろうか。
まぁ、飛行機の牽引や弾薬の運搬には重宝しているので、文句はないのだが。
4WDなので冬の雪道でも安心である。
「お前、車の運転なんかできたのか?」
そう言われると、免許など持っていないことに気付いた。
免許はあるにはあるが、それは前世の話だ。とったのは戦後になってからで、最初は業務用のトラックを運転するために会社の金でとらせてもらった。
最近(前世)は会社の金ではなく自費でとるのが当たり前らしいが。
「まぁ、一応な。飛行場大隊の奴から教えてもらった」
「免許は?」
「その内取るつもりだ」
戦前にも運転免許はあったはずだが、なければ即座に道路交通法違反で逮捕されるのだろうか。
そもそも、前線の道路交通法はどんなものだったのかも知らない。
ただひとつ確かなことは、バレなければどうということではないということだった。
ハルビンの市街地は、基地から30分ほどだった。
何食わぬ顔で日本人の交通巡査に駐車場を尋ね、ハルビン駅前の公営パーキングに軽トラックを停めるとそこから歩きだった。
黒間としては、戦前のハルビンに公営駐車場があることが意外だったが、市街の中心部はそれなりに交通量があり、車が走っていた。
車と同じぐらい馬車も多いが、荷車を引くのは馬車よりもトラクターの方が多かった。
目立つのはフォードソンのトラクターで、空からでも大量のトラクターが満州の広大な農地を耕しているのを何度か見ていた。
黒間が知る限り、トラクターやらコンバインが活躍するようになるのは戦後も随分経ってからで、この頃の農業の主力は馬や牛だったはずだ。
自分が知っていると戦前の世界とは少しずつことなる部分を見つけては、この世が一体どこに向かっているのか首を傾げる。
少なくとも、悪い方向ではないと信じたいのだが。
伊藤博文が暗殺されたことで日本史の名を残した駅から、キタイスカヤ中央大街は直ぐだった。
今でこそ満州国の一都市だが、ハルビンは元々ロシア人が築いた街だった。満州国建国まではソビエトが運行していた東清鉄道の交差点として発展した歴史がある。
駅前のロータリーは全て石畳で敷き詰められていた。今は、その上に雪が積もっている。気温は相変わらず零下15度を下回っていたが、駅前の賑わいは失われていない。
すれ違う人々は多国籍で、多くは満人だったがロシア人も同じぐらい多かった。
上背のあるロシア人が赤ら顔で大声で話しながら歩いてきた時は、黒間も斎田も黙って道を開けた。
「今のロシア人だよな」
しばらくしてから斎田はぼそぼそと言った。
「日本人には見えんだろ」
「ああ、もちろんだ。不思議な気分だよ。俺達、先月までロシア人と戦争していたんだよな?」
斎田が何を言いたいのかは分かったが、黒間はなんて答えたいいのか分からなかった。
「良いロシア人もいれば、悪いロシア人もいるってことじゃないか?」
「じゃあ、俺達はきっと悪い日本人だな」
そうかもしれないと黒間は思った。
爆弾や機関銃で大量のロシア人を殺害しているからだ。もちろん、相手も殺す気でかかってくるので、お互い様ではあるのだが。
その時、一人のロシア人とすれ違った。女性だった。年齢は分からない。しかし、黒間は自分と同じぐらいではないかと検討つけた。
毛皮のウシャーンカから覗くは横顔はびっくりするほど整っていて、青い目と併せて西洋人形のように見えた。真っ赤な口紅がとてもよく似合っていて、凍えるほど寒い日によく映えていた。
「おい、今の女。どう思う?悪いロシア人か?」
立ち止まって、二人して振り返ってから黒間は言った。
「バカ言うな」
斎田がぼそっと答えた。
女の後ろ姿はすぐに雑踏に紛れて見えなくなった。
「おい、アレを見てみろよ」
斎田はもう興味がなくなったのか、駅前広場の人集りに足を向けていた。
落ち着きのない奴だった。
「なんだよ?」
「戦車だぜ」
黒間はウンザリしてため息をついた。
そんなもの仕事でもないのに見たいとは思わなかった。
しかし、平和なハルビン市民達は赤く染まったロシア人の作った軍隊の仕事道具にいたく興味関心があるらしい。
駅前の広場で見世物にされているソビエト製戦車を見ようと、人集りができていた。
「そんなの見て楽しいか?」
「別に楽しかねぇが、人が集まってのを見るのは結構楽しいぜ」
そんなもんかねと黒間は呟く。
ハルビン駅前の広場に陳列された兵器は何れもノモンハンでの戦闘でソビエト軍が撤退する際に、遺棄されたものばかりだった。
こうした戦利品をひと目がつくところで開陳するのは、昔からどの国でもやっていることだ。
展示品の側には、小銃を抱いた日本人の兵士が立っている。戦車や大砲は見るだけで触ることができず、ロープで仕切りが作られていた。
こういうものに興味引かれるのは、どの国でも子供と相場が決まっているらしく見物人の大半が子供連れだった。それも満人や日本人ばかりで、ロシア人は殆ど無視して通りすぎていく。
確かに、彼らにとっては微妙な感情の襞がある代物だ。
できれば黒間もロシア人を見習ってさっさと通りすぎてしまいたかったが、斎田は楽しそうに見物しているので止めるのも野暮な感じだった。
「寒いですね」
その内、展示品の警備をしている兵士が黒間に気付いて声をかけてきた。
私服ならともかく、今来ているのは陸軍のお仕着せだった。町中ではとてもよく目立つ。
こんな氷点下の寒空の下で立ち話など、ゴメンだったが逃げることもできない。
「ご苦労様です」
と当り障りのない返事をして、黒間は敬礼した。
「交代だったりしませんか?」
「残念だが、交代はまだ先らしいな」
警備兵は残念そうに肩を竦めて笑った。
「こいつらはノモンハンの戦利品か?」
「らしいですよ。ほんとかどうかは知りませんがね」
黒間は巨大なソビエト製の装甲戦闘車両を見上げた。
大砲が5つもついている。中央の砲塔がもっとも巨大で、砲塔の周囲に鉢巻きのようなアンテナがついていた。車高があり、高さは黒間の2倍以上あった。全長は10mはあるだろうか。そこらの一軒家よりもよほど大きい。
まるで戦艦のようだ。陸上戦艦といったところか、動く悪魔の城といった感じだ。
帝国陸軍がその優秀性を喧伝する九八式中戦車など、これに比べたら豆腐屋小町のようなものだ。
「ソビエトって国は、よほど景気がいいんだな。戦車の中までに百貨店を作るんだから」
「聞いた話じゃ、こいつは失敗作って話ですよ。でかすぎて動けなくなったところを捕まって降伏したらしいですから」
「あっちの大砲が2つある奴もか?」
砲塔が5つもある戦車のとなりには、それよりも幾分控え目だが砲塔が2つある戦車があった。
控えめといっても、日本の戦車よりも遥かに大きかった。こっちも全長は10m近くある。
砲塔が5つある方が悪魔の城なら、こちらは悪魔の砦といった感じだ。しかし、悪魔の城よりも主砲は大きく、装甲の材質が違うのかのっぺりとしている。
「そうらしいですよ。ここまでひっぱって来るのに、戦車5台で牽引したそうですから」
「そりゃ、ひどい話だな」
それではとても実用性があるとは思えない。
「もう一台、あっちにもそういう戦車が展示してあったんですけど、午前中に憲兵が来て持ってちゃったんですよね。カッコよかったのに」
「憲兵?」
そこで警備兵は秘密めかして耳に口を寄せてきた。
こいつはかなりのおしゃべり好きだと黒間は直感した。
「あっちの展示品の真ん中、微妙に間が空いてるでしょ?朝まで、一台戦車が展示してあったんですよ。でも、昼前に憲兵がやって来て書類の間違いだとか言って、慌てて回収にきたんですよ。牽引用の戦車5台もつれて」
「そりゃ妙な話だな」
「なんでも、軍の研究所に送る予定だったロスケの最新鋭戦車が間違って、展示されていたらしいですよ。うちの小隊長が言うには、ケーブイだとか、カーヴェーだとか、なんとかいう戦車らしいです」
ここに展示してある木偶の坊なんかより、よほど強そうに見えましたと、警備兵は付け加えた。
「そうかい。じゃあ、あんたはその木偶の坊のお守りに戻ってくれ」
「はぁ・・・もうウンザリだよ。何でこんなことに」
暗い顔で警備兵は零下12度の寒空に立ち尽くす。
「兵士よ。問うことなかれ」
黒間はぼっそと答えた。
街に出ると決めた時から、決めていたことが2つあった。
一つは肉を食べること。もう一つは、酒を飲むこと。
この2つだった。この2つの条件を同時に満たす店が、キタイスカヤ中央大街には無数にあった。
キリル文字で書かれた看板が左右に並ぶ大通りをぶらつきながら、目当ての店を二人で探した。できれば、あまり日本人がいない店がよかった。
せっかく外国に来たのだから、異国の食べ物と酒を飲んでみたいと思った。
「まるで銀座みたいだぜ」
斎田が物珍しげに言った。
確かに、日本の大都会でもこんな雰囲気の繁華街はない。
「銀座に行ったことがあるのかよ?」
「そういえば、ねぇな」
黒間にはある。ただし、前世の話だ。地元の老人会主催の東京見物ではとバスに乗って、見て回ったことがある。
ただし、80年代半ばの銀座と現世のキタイスカヤ中央大街はまるで似ていなかった。
通りの左右に建つビルの高さは80年代の銀座の圧勝だが、街の雰囲気は現世のキタイスカヤには遠くおよなかった。
キタイスカヤの石とレンガで作られたビルディングは柱の一本一本から、窓枠の一つ一つに至るまで細かな装飾が施され、建物全体が絶妙な曲線で作られたモダン様式だった。
「東洋のパリって呼ばれてらしいぜ、この辺りは」
聞きかじった知識を黒間は披露した。
「パリに行ったことがあるのかよ?」
「そういえば、ねぇな・・・・あの店にしないか」
大通りから一本路地に入った店が、控え目な木製の看板で自己主張していた。
漆喰の白と暗褐色の木材のコントラストが瀟洒で、窓からこぼれるオレンジ色の灯りが落ち着いた雰囲気を醸していた。
ひょっとしたら、カフェーかもしれなかったがその時は、茶の一杯でも注文すれば済むことだった。
分厚く細かい彫刻を施されたドアを開けると香辛料の混ざった暖気が頬を撫でた。
店内は木材を多用したつくりで、テーブルクロスも明るい配色のカフェテリアのような作りだった。しかし、カフェーと呼ぶには少し暗かった。ロシア式の食堂なのかもしれなかった。
店内にいたのは、全員ロシア人で日本人の二人が入ってくると一瞬だけで視線が集まった。
しかし、敵意があるわけでもなく、直ぐに視線が逸れた。
「Здравствуйте」
奥から長身の若いロシア人のウェイターがやってきて、空いている席に案内してくれた。
もちろん、なんと言っているのかは分からない。
少しぐらいロシア語を勉強しておくべきだったかと思ったが、そんな暇があるはずもなかった。
「おい、何って言ってるんだ?」
明らかに挙動不審者の体で斎田が言った。
「たぶん、いらっしゃいませとか、そんなところだろ」
「注文はどうやったらいいんだ?ロシア語なんて、わかんねょよ」
もちろん、黒間もロシア語は分からない。
一応、渡されたメニューも見たが、写真などついておらず、メニューを見ても何の料理なのか全く分からなかった。
しかし、黒間はこうした場合の対処法というものを心得ていた。
黒間は近くで食事をしているロシア人を指し示すと、アレと同じものを2つと言った具合に指折り示して、軽く首を傾げた。
若いロシア人のウェイターは分かりましたといった具合に深く頷いて、店の奥に消えた。
「おい、ひょっとして、今ので通じたのか?」
「そういうことじゃないか?まぁ、なんとかなるもんだろ?」
前世で会社の慰安旅行やらでハワイや韓国に何度も遊びに行った経験が生きた。
英語や韓国語が分からなくても、レストランで困ることは殆どない。
そもそも、黒間は外国人の前で動揺するようなことは昔から殆どなかった。同じ赤い血が流れている人間だったし、言葉が通じなくとも意思の疎通というのは可能だと信じていた。
それが不可能なのは、戦場ぐらいなものだ。
しかし、戦場であっても時折、相手の意思を感じることはあった。
それも殺意や敵意ではなく、好意や関心、興味といったプラスの感情を。
「一体、何が出てくるんだろうな?」
「普通なら、前菜、メイン、スープ、お茶だな」
酒は出るのだろうか、別途に注文しなければならないのか心配していたが、心配しなくても酒はちゃんとついてきた。
ボトルにキリル文字のラベルがプリントされ、中は透明な酒で満たされている。
「ウォッカってやつか?」
「たぶんな」
一緒についてきたグラスに注ぐと消毒液のような匂いが満ちた。
「これ、飲んでも大丈夫だよな?」
その異様な匂いを嗅いで苦笑いを浮かべた斎田が言った。
「とりあえず、飲んでから考えよう」
「そうだな、乾杯!」
グラスを合せて、恐る恐るウォッカを口に含むと火の付いた薪が爆ぜるような味わいが腹腔を満たした。
まさに火酒と言ったところか。
口の中が泡立つようだが、日本酒のような癖はなく、飲みやすいといえば、飲みやすいのかもしれない。陸軍支給の防寒衣が直ぐに要らなくなるほど体が火照ってくる。
酒のあとには、料理が直ぐに来た。
マッシュポテトにぶつ切りの茹でた野菜が入ったサラダと肉と野菜の串焼き。スープに、ビーフストロガノフが盛られたライスだった。
質よりも量というのは、如何にもソビエト軍の大規模火力集中と同じで、これがロシア流かと二人で笑いながら食べた。
程よく腹が満たされ、酒が回ったところで斎田がポツポツと語りはじめた。
「一緒に、今の隊に来て生き残ったのは、俺とお前と、他に誰だっけな?」
「根津と歌川、桜田、西東、それと安藤だな」
ウォッカのグラスを額にあてて黒間は答えた。
「安藤は生きてたか?」
「ああ、安藤は3人いただろ?」
そういえば、そうだったなと斎田が呟いた。
「安東と庵堂と、安藤だったな」
「そうそう。安東と庵堂が死んだ時は、次は自分の番だとか言って。泣きそうになってやがったな」
「ははは!そうだった。あんちくしょうめ!しっかり生きてるじゃねぇか!」
ゲラゲラと馬鹿笑いをする日本人をロシア人達が不審な眼差しで見ていたが、二人は気が付かなった。
酔っ払っていたし、実戦の洗礼を受けた兵士は独特の泥臭さが精神を守っていた。
「タカトラが死んだのは残念だったな」
「ああ、いいやつだったのにな。あいつ結婚してたって知っててか?」
「いや、知らなかった」
タカトラというのは、藤堂という一つ上の先輩で、要領の良さから戦国大名の藤堂高虎になぞらえてタカトラと呼ばれていた。
善人だが、ずるいところがあり好き嫌いの別れる男だった。
「あいつさ、ノモンハンに出動する直前に見合いしていたらしいんだよ」
「帰ったら、いっしょになろうってか?」
そこで斎田が精一杯神妙な顔をつくって、語り始めた。
「俺は思ったんだ。日本でタカトラの帰りを待っている細君を慰めて、死んじまったタカトラの本願を叶えてやるにはどうしたいいかってな」
「で、どうしたんだ?」
とてつもない笑いの波動を感じて、崩れかける顔面を黒間は精一杯抑え込んだ。
「タカトラの遺品を整理するときにな・・・出てきたんだよ。アレが、一杯。だからさ、そいつをまとめて日本の細君のところへ送ってあげたんだ。軍事郵便でな。故人があなたに贈ろうとしていたものですって、手紙を添えてさ」
「アレって、なんだよ」
そこで、すっと斎田が無言で差し出してものは、小さな紙袋であった。
表面に星印と突撃一番とプリントされていた。
「お前ってやつは!」
爆笑しながら黒間は叫んだ。
「やっぱり、これしかねぇだろ!」
机を叩きながら、斎田も叫び返した。
ロシア人のウェイターが迷惑そうな顔をしたが、二人は気づかなかった。
「あー、もう。クソッ。お前は最悪な人間だな」
「おめぇに言われたくねぇよ。同期の癖に、俺より先に曹長になりやがって」
「実力だよ。実力」
もはやグラスなど使わず、直接ビンからウォッカをラッパ飲みしながら、黒間は言い返した。
「何機落としたんだっけ?」
「たしか、15か、16ぐらいだ。撃破も同じぐらいあったんじゃないか」
「結構、差がついちまったな」
次は俺が勝つ、と呂律の回らない口で斎田は吠えた。
できれば次なんてあったほしくないと黒間は思った。