ノモンハンの風 中編
1939年8月10日 ハルビン 陸軍飛行場
ハルビン郊外に作られた陸軍飛行場は、陸軍航空隊飛行第11戦隊のホームベースだった。
ここを発ってから1ヶ月足らずであったが、それでも黒間以蔵は懐かしさが込み上がる気がした。
空気の匂いもどことなく、前線のハイラルと違う気がする。
匂いに関しては、飛行場を取り巻く大豆やコウリャン畑に使われている下肥や養豚所の臭気が大半だったが、それさえも今は懐かしい。
果てしなく続く草原というある種の異世界から、人間の世界に戻ってきたような気さえした。
「どうだ、篠原准尉殿は起きそうか?」
「いや、無理だな。起きやしない。抱えていくしかねぇよ」
斎田三矢は眠そうな目を擦って言った。
前線のハイラルから戻ってきた九七式輸送機の座席では、二人の上司である篠原弘道准尉が眠りこけていた。
落ち窪んだ眼窩は頬を抓っても、額を叩いても固く閉じられていて全く開かない。頬は痩せこけ、顎の骨が浮いているように見えた。顔色は青を通り越して、土気色に近い。
正しく、過労死寸前の顔をしていた。
連日の出撃で溜まった疲労が、前線から離れた途端、緊張の糸を切ったらしい。
黒間も疲労していないわけではなかったが、篠原よりはまだマシだった。毎日積み上げてきた鍛錬の賜物と言えた。
「悪いが、早く降りてくれないか。あんたらが最後だ」
輸送機の操縦手が迷惑そうな顔で振り返った。
「すいません。すぐに出ます」
「そうしてくれ、こっちはけが人を毎日何往復もして運んでるんだ」
ぶっきらぼうに言う操縦手の顔色も決して明るい色ではなかった。
連日の戦闘で負傷する兵士を後送する仕事が楽なものでないことは容易に察することができる。
「なんだよ、あいつ」
「言うなって」
二人で篠原の脇を抱えて、機を降りると慌ただしく輸送機は離陸していった。
忙しいという言葉には嘘偽りはないようだった。
「これからどうする?」
斎田は途方に暮れたように言った。
広大な滑走路にポツンと残されると途方に暮れたような気分になる。
しかも、空は崩れかけていて雨が降りそうだ。ハルビンは乾燥した内陸の街だが、8月に纏まった雨が降る。そのおかげで街が砂漠になることはない。
「別にどうもしない。准尉を隊舎の医務室に寝かせて、俺達で新しい戦闘機を受領する。それだけだ」
前線から離れたのはその為だった。
そういう理由でもなければ篠原は決して前線から離れようとしない。或いは、そうした理由でもつけて過労の准尉を休ませようとする戦隊長の心遣いなのかもしれなかった。
ソビエト空軍は、日増しに数を増している。
戦闘は互角だったが、パイロットの数が足りない日本軍は連日の出撃で疲労が蓄積していた。疲労のせいでつまらないミスから歴戦のパイロットが散っていく。
そうして空いた穴を別のパイロットが肉体の限界まで働くことで埋めていた。
つまり、悪循環ということだった。
2度目の人生でも、帝国陸軍は同じ過ちを繰り返そうとしていた。
この先の展開を思うと黒間の気分は沈んだが、斎田はいつもの調子だった。
「それで、俺達の機はどこにあるんだよ?」
「・・・さぁ?」
黒間は肩竦めて答えた。
俺達の機は幸いにも直ぐに見つかった。
隊舎に篠原を運ぶ最中に、出会った飛行場大隊の一人が場所を指示してくれたのだ。
相原大尉に顔を通せばいいとのことだった。
その頃には、既に雨は本降りになっていて、二人は隊の番傘を差して滑走路脇の格納庫に向かった。
「失礼します。相原大尉殿はこちらですか?」
真新しい九七式戦に白いつなぎを着た整備兵が数名取り付いていた。
その中の一人が顔を上げて言った。
「お前は?」
「自分は、黒間以蔵伍長であります。戦闘機の受領に参りました」
黒間が敬礼すると相原もいい加減に答礼した。
筋骨たくましい体に禿げ上がった頭とチョビ髭の小さな顔が乗っていた。笑っているわけでもないのに、微笑でいるように見える。
整備兵というよりも、うどん屋の気のいい店主といった雰囲気だ。
「整備の相原だ。飛行機を取りに来るのは3人って聞いていたが?」
「一人は、急病にて隊舎で臥せております」
黒間は顔色一つ変えずに嘘をついた。
兵隊は要領が悪くてはつとまらない。
「悪いのか?明日、飛べるのか?」
「軍医殿の見立てでは、大丈夫だそうです」
そうか、それならいいんだがと、ニコリと笑った相原は言った。
行動の一つ一つが厳しいが、表情との落差が激しい男だった。
「これが受領機でありますか?」
「そうだ。九七式戦闘機改だ。エンジンと武装を換装して、防弾板を追加してある」
相原が機に寄って、エンジンカウリングに手を触れた。
「エンジンは、東亜重工のHF-118に載せ替えてある」
「HF-118?」
「なんでそんな名前つけたのか知らん。あそこの製品は横文字が多くて困る。製品は滅多に故障しない、いいものをつくるんだがね」
相原は毛のない頭を掻いて言った。
その間に、黒間は機体に近寄って自分の新しい愛機を見上げた。
エンジンのカウリングが今までの機よりも一回りは太く、大きくなっていた。ただし、奥行きはそれほど変わっていない。
「単段11気筒エンジン。1,000馬力だ。ショート・ボア、ショート・ストローク。DOHCバブルヘッド、フル・トランジスタ式ディストリビューター、低圧燃料噴射ポンプ。過給器は遠心式フルカン流体継手。世界一の速く回るエンジンだ。4,000回転まできっちり回せ」
腰に手を当てて、どうだと相原は笑ったが黒間には何が凄いのかは分からなかった。
黒間は、機を一回りして、他に変化がないか確認した。
よく見ると機体側面から丸みが減って、いくらか直線的になっていた。機首方向に視線を移すとカウリングと機体の間にずらりとパイプが並んでいる。
「このカウリングの脇についているのは?」
「それは推力排気管だ。エンジンと機体の段差で生じる乱れた空気を層を吹き飛ばす効果がある。それ以外にも、速度が少し向上する」
相原の解説にはよどみがなかった。
「どれくらいでますか?」
「高度5,000mで270ktは出る」
今までの九七式戦よりもかなり速力が上がっていた。前世で乗っていた初期型の隼並の速度が出るということだった。
黒間はやや興奮気味に尋ねた。
「武装は?」
「九八式固定機関銃が4丁。機首が2丁なのは今までどおりだが、ガンポッドで2丁追加してある。見てみたいか?」
黒間が頷くと相原は主翼下面の張り出しカバーを外して、機関銃を見せてくれた。
黒々としたガンオイルも真新しい鋼鉄を削りだしたような無骨な機関銃だった。銃身に、穴の空いた空冷ジャケットがかぶさっている。
全体的に、今まで使っていた機関銃よりも固く締まって見えた。
「ドイツのMG17をライセンス生産した奴だ。今まで使ってた89式なんて目じゃない」
「なんだかわからないけど、すげぇ!」
斎田が口を挟んだ。
新しい玩具を与えたれた子供同然だった。
「空中線があるようですが、無線機も新型ですか?」
興奮していたのは、黒間も同じだった。しかし、もう少し黒間は冷静だった。
「ああ、積んでるよ。今までのガラクタとは違って、ちゃんと使える奴を。トランジスタ式だから、真空管式なんかよりも綺麗に聞こえる」
「そりゃ、いいですね」
黒間は会心の笑みを浮かべた。
空中電話機が使えないのが前々から不満だったからだ。
急場に味方同士で連絡が取り合えないのは非常に不便だった。敵機を見つけても、それを隣にいる味方に伝えられずに先手をとられることが多かった。ハンドサインでもある程度伝わるが、戦闘中にそれは不可能だった。以心伝心の連携も、よほど気の合う者同士でないと難しい。
武装や速力の向上より、そちらの改良の方が重要だと黒間は思った。
前世でも、本土防空戦で乗った疾風は空中電話機の性能がよく、編隊空戦が格段に楽だった。
「操縦席に乗ってみろ。他にもいろいろ新装備がある」
「俺が乗る!俺が乗る!」
斎田が操縦席に飛び乗った。
黒間も主翼に乗って真新しい操縦席を見回した。
計器盤の配置に若干変化があった。それ以外に目に付くのは、操縦席前の射撃照準器だった。望遠鏡照準器が撤去され、代わりに光像式照準器が装備されていた。
ドイツのレビ照準器だと相原が補足してくれた。前世の隼にも途中から装備されていた奴だ。
望遠鏡式の照準器は視界が狭くなるので、光像式照準器の装備はありがたかった。
「座席の後ろにあるのが防弾板だ。50口径でも、100m以遠で耐えられる。ロスケの30口径なら、100m以内で直撃しても平気だ」
斎田がまじまじと防弾板を見て、厚さを確かめるように指でつまんでいた。
白いペンキが乱雑に塗られている。鋼板が人の上半身のように切り抜かれていたが、どうも処理が雑な感じだった。
「1糎はありそうだな」
「正確には、1.3糎だ。それから、防弾板が邪魔だからって、絶対に防弾板は外すなよ。エンジンが重くなってるから、マスバランスを取るためにわざわざクソ重い防弾板を追加してあるんだ。外すとバランスが崩れてひっくり返るぞ」
黒間は最近になってI-16が防弾板を追加してなかなか落ちなくなっていたことを知っていた。
防弾板を追加したせいで、元から鈍いI-16がさらに鈍くなっていたので格闘戦に持ち込めば簡単に後ろをとれたが、格闘戦に応じずに一撃離脱を徹底するので九七式戦は苦戦していた。
黒間は前世のニューギニア戦線の空戦を思い出した。
隼は格闘戦では無敵だったが、一撃離脱に徹するP-40には苦戦した。P-47やP-51も基本は一撃離脱戦法を使った。もちろん、いつでも一撃離脱ができるわけではない。爆撃機の護衛に来るときは格闘戦になったが、不利になると急降下で振り切るか、高高度に逃げられた。そうなると隼では手も足もでない。
対抗するには、こちらも同じ戦法を採るしかないが、隼にはできない相談だった。速度と高高度性能が段違いだ。
それに近いこと事が、ノモンハンでも起きていた。
しかし、この九七式戦改があれば、I-16相手に優位に戦えるだろう。
「気に入ったか?」
黒間は深い笑みを浮かべて頷いた。
「よし、じゃあ、こいつが取説だから、読んでおくように」
「これは?」
渡された冊子を黒間はまじまじと見た。
「萌え分かり九七式戦改」と題して、背中に羽が生えた瞳が異様に大きいミニスカート姿の童女が表紙の中で微笑んでいた。
ページをめくると機関砲を抱きしめた水着姿の少女が開脚して秘所を晒し、しどけない様子で、「兄君さまぁ・・・機関砲のメンテナンスの後はぁ、不凍オイルを塗ってくださいまし」と呟き、潤んだ瞳を黒間に向けている。
あまりにも衝撃的な内容に、黒間は絶句した。
「俺に聞くなよ。俺が書いたわけじゃない」
先手をとるように相原は言った。
格納庫の脇には、本棚がだった。似たような表紙の本がずらりと並んでいる。よく見ると格納庫の端で、円座を組んで整備士達が例の本を熱心な様子で鑑賞していた。
「俺、ちょっと便所に行ってくるわ」
「止めろ!」
黒間は斎田から「萌え分かり九七式戦改」をひったくり、叫んだ。
「普通の奴はありませんか?」
「あるにはあるんだが、読むか?」
相原はため息をついて、分厚い冊子を黒間に手渡した。
黒間は冊子を開いて、1分ほどで挫折を覚えた。ページの大部分が細かな文書と図解で埋まっており、難解な表現を多用しているので見ているだけで眠くなりそうだ。
「まぁ、発想は悪くなくないし、わかりやすくて便利なんだが。なにも、こんな艶本まがいな奴にしなくてもな」
前世にこんなものは存在しなかったはずだ。
黒間は例の本をひっくり返すと、裏に陸軍航空隊航空本部長承認と印字されていた。
「大丈夫か、帝国陸軍航空隊?」
黒間は頭痛がしてきた。
翌朝、起床ラッパの音で目を覚まし、黒間と斎田は隊舎の食堂で朝食を摂った。
食堂は戦隊の全員が一度に入れるほど広かったが、ほとんどが空席だった。戦隊のパイロットは皆、前線に移動している。
昨日、顔を合わせた相原大尉は、別のテーブルで整備士達と固まって食事をしていた。何となく声がかけづらく、二人でもそもそと朝食をとっていると篠原大尉が起きてきた。
「昨日はすまなかった。二人で大丈夫だったか?」
什器を置くなり篠原は詫びた。
表情は険しいが、顔色は血の気が戻ったように見えた。
「はい。大丈夫です。新型機の受領は済ませておきました。受領書も提出済みです。」
「そうか。ありがとう。よくやった」
麦飯をかきこみながら斎田は言った。
「いやぁ、それほどでもありませんよ」
「てめぇには言ってねぇよ」
篠原から肘鉄を喰らって、斎田はむせ返った。
しかし、どれほどむせてもご飯粒一つ落とさないのは、如何にもこの男らしかった。
「飯食ったら、すぐ飛ぶぞ。新しい機を3日でものにする」
「午前中はガソリンの手配が間に合わないため、飛べないとのことです」
篠原は怪訝な顔をした。
「こんな後方の大きな基地で、ガスが足りないってことはないだろう?」
「海軍さんが降りるそうです」
「ガスが足りなくなるくらいか?」
この時、3人は知るよしもなかったけれど、日ソ両軍は冬営前の攻勢準備に余年がなかった。
満州の冬は早く、厳しい。このため冬季戦は全くの問題にならなかった。
6、7月の戦闘で日ソ両軍は、この戦いの勝敗を決するのが作戦の巧緻ではなく、砲と戦車と航空機の数であることを見ぬいていた。
日本陸軍は75mm以上の口径をもつ火砲250門をかき集め、砲火力の集中運用のために第1砲兵師団を編成し、前線への配置を終えていた。さらに戦車戦力も6個連隊、250両を揃えていた。大半は軽戦車だったが、新鋭の九八式中戦車が内地から緊急輸送され40両も用意された。
これらの兵力が消費する莫大な燃料、砲弾を運ぶために必要な兵站組織が整備され、大量のトラックがピストン輸送で最寄りの鉄道駅から前線に軍需物資を運んだ。関東軍の弾薬庫はすっかり空になった。
砲と戦車はそろったが、航空戦力は搭乗員の確保が不可能だった。機材そのものは緊急生産で新型機が続々と前線に届いていたが、パイロットはそうもいかない。
その為、陸軍は海軍に航空部隊の応援を要請するに至っていた。
陸軍に貸しを作り、納税者へ存在をアピールするため、内地から海軍航空隊が前線に向けて移動を開始していたが、3人はその渋滞に巻き込まれた形だった。
ノモンハンの投入された海軍航空隊の作戦機は、およそ600機。帝国海軍保有する航空戦力のおよそ半数だった。これには空母用の艦上機も含まれている。
もちろん、黒間の記憶にはこうした海軍航空隊の参戦はない。
「海軍航空隊が来るってことは、陸戦隊も来たりするのかな」
「さぁな?来るんじゃないか?」
黒間の呟き、斎田がどうでもいい調子で答えた。
朝食の後、無聊を託つ3人は例の取説を手に、格納庫の日陰で時間を潰していた。
黒間は例の取説を読み飛ばし、このようなものが前世はなかったこと改めて思い返した。格納庫に鎮座する新型機も同じだ。あんな戦闘機は存在しなかった。しかも、装備の一部にはこの時代には絶対にありえないものを使っている。
やはり自分以外の何者かが、歴史の修正を試みているとしか思えなかった。それも、軍内部のかなり高位にある人物だ。
そうした人物の働きかけがなければ、巨大な組織である海軍が動くはずがなかった。
特に陸軍が海軍に応援を要請するなど、悪い冗談としか思えない。帝国陸海軍の相克は、前世においても同じ日本人としてどうかと思うほど酷いものだった。
黒間は不安なのは、もしも、そうした人物がいたとして、彼は自分と同じようにあの戦争を回避しようと努力してくれるのだろうか?という点だった。
もしもそうでなければ、とてつもなく彼は危険な人物と言えた。
あの戦争は無残な惨敗に終わった。それは悲しいことだが、前世の記憶を使って歴史を改ざんし、故意に戦争を起こして勝利しようと言うのはどう考えても本末転倒としか思えない。
旧軍の軍人に、そうした危険な物の考えた方をする人間が、一人もいないとはとても思えなかった。自分の手前勝手な都合で戦争を起こそうとする人間は必ずいるはずだ。
あの戦争の末期に軍部がしでかした馬鹿げた作戦、神風作戦などを思い返すと黒間は自国の高級将校のやることには、どうにも信用がおけなかった。
一億総玉砕と煽った挙句、その結末は原子の焼け野原だ。東条英機が戦後に、自殺に失敗して絞首刑に処されたときは、暗澹たる気分になったものだった。彼が起草した戦陣訓は何度も暗唱させられたが、そこには捕虜の辱めを受けずと書いてあった。米軍のMPに逮捕されるのは、敵の捕虜になることとどう違うのか全く分からなかった.
黒間は原爆を落とした米軍を心の底から憎悪していたが、同じくらい自国の指導者を嫌悪していた。
戦後に、日本軍が復活しなかったのはそれなりに理由があってのことなのだ。
「お、海軍さんがおいでなすったみたいだぜ」
斎田の明るい物言いに、黒間は暗い思索の淵から顔を上げた。
唸るようなプロペラ音が聞こえる。
「そのようだ。クロ、何機いるか数えてみろ。訓練だ」
目視で敵機の数を正確に測る能力は極めて重要だった。
特に戦場では敵の数は実際より多く見えるものだ。それで判断を誤り、悪手を打って自滅することがしばしばあった。
「中型の双発機が4機。戦闘機らしい小型機が43、4機はいます」
「まぁ、そんなところだな。なるほど、ガスが足りなくなるはずだ」
中型の双発機はおそらく九六式陸上攻撃機だ。前世のマレー沖海戦でプリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈した奴だ。
前世では、南方作戦の最中に何度か実物を見たことがある。今世で見るのはこれが初めてだった。魚雷型の胴体で、如何にも快速という感じだった。
双発機は燃料に余裕があるのか、基地の上空で旋回を始めた。先に小型機が降りてくる。
するすると降りてきて3点着陸を決めたのは、解放風防の九七式戦闘機に似た固定脚機だ。
九六式艦上戦闘機に違いなかった。主翼が丸みを帯びた楕円翼で、直線的な九七式戦とはだいぶ印象が異なる。こちらも前世は何度かお目にかかったことがある。乗る機会はなかったが、支那事変や南方作戦で肩を並べて戦ったことがある。
どことなく、海辺の空を飛ぶカモメに似ている。黒間はそう思った。
綺麗な飛行機だった。しかし、綺麗すぎて戦闘機という感じには見えない。
「海軍さんは、アレでチチハルまでいくつもりかねぇ?」
篠原が呆れたように言った。
綺麗なのには理由があった。陸軍機では当たり前の迷彩塗装が一切なされていない。真っ白な機体に、紅や青をふんだんに配色していた。
あんなもので前線に出たら、集中攻撃を喰らいかねない。
実戦経験がない軍隊とはこんなものかと黒間は思った。前世では、海軍機はあんなド派手な塗装はしていなかったはずだ。
「おい、お前ら。見てないで手伝え。どうせ暇だろ」
相原大尉が呼んでいた。
降りてきた海軍機に、給油車やドラム缶を積んだトラックが群がり大わらわで給油が始まった。
動力ポンプ付きの給油車があれば簡単だったが、数が足りないので人力ポンプを使ってドラム缶から直接に燃料を補給しなければならなかった。
不調の機体は離陸までに可能な限りの修理が施される。
その間に、海軍のパイロット達は休憩をとっていた。
黒間達の仕事は彼らに握り飯と麦茶を配ることだった。
「お疲れさまです。昼食です。どうぞ」
「あぁ、すいませんね」
黒間が握り飯を差し出すととそのパイロットは軽く頭を下げて包みを受け取った。
「お、梅と昆布の握り飯か、いいですねぇ」
そして、顔をあげた時、黒間は息を呑んだ。
「どうかしたのかい?」
「い、いや、あ、貴方は」
不思議そうな顔をして見上げる年重の海軍のパイロットには見覚えがあった。
意志の強そうな太い眉を片方だけあげて黒間を見上げる彼は、間違いなく坂井三郎だった。伝説の零戦エースパイロットの坂井三郎の若き日の姿だった。
「お、大空のサムライ・・・」
「はいぃ?」
ガチガチに緊張した黒間は、慌てて頭を振った。
彼が世界で最も名の知られた零戦エースパイロットになるのは、戦後になってからだ。
「大空のサムライって、ひょっとして私が?」
「い、いやぁ、何となく風格があるなぁって」
黒間はなんとも間抜けた言い訳に絶望しかけたが、坂井は恥ずかしそうに笑うばかりだった。
「そんな、おだてても何もでませんよ?まぁ、ちょっと他よりも歳を食ってるから、そう見えるかもしれませんね」
「そ、そうですか」
未来のエースパイロットの思ったよりも腰の低い、剽軽な口ぶりに黒間は意外なものを感じた。もっと闘志あふれる荒武者ような姿を想像していたからだ。
黒間は前世で読んだ彼の著作を思い出した。
確か、幼き日に海軍の飛行艇にあこがれて海軍に入り、戦艦の砲手から年齢制限ギリギリで苦労して転科して海軍航空隊の戦闘機パイロットになったはずだ。
所属する組織は違えど、黒間は同じ戦闘機パイロットとして坂井を尊敬していた。
彼の著作に触れた時に感じたのは爽快なまでに明るさだった。戦いが過酷さを増していくなかでも、ハツラツとした雰囲気で戦場に赴く彼の勇姿を行間に思い浮かべた。硫黄島上空でF6Fの大軍に囲まれ、絶体絶命の窮地に陥っても少しも怯まないその精神力に感動した。
戦いが劣勢になるにつれて、気難しく厭世的になっていった自分とは大違いだった。
「ところで、あそこの格納庫にあるのは、陸さんの戦闘機じゃないですか?」
「えぇ、九七式戦の新型です」
へぇ、と坂井は呟き、興味深げに九七式戦改を見つめた。
そうなると、
「見せてもらってもいいですか?」
と尋ねられるのは、必然だった。
黒間は口を滑らせたことに気付いたが、隠すこともないかと思い直した。友軍のパイロットに見せたぐらいで懲罰にはなるまい。
何よりも、未来のエースパイロットに何か少しでも役に立てることがあれば、それは幸いなことだ。
黒間自身も、玩具を見せびらかす子供のような喜びがこみ上げてくることを禁じ得なかった。
「じゃあ、少しだけ」
「ありがたい。よし、みんな行こうぜ!」
坂井が声を張り上げると、他のパイロット達が一斉に腰を上げた。
どうやら、黒間と坂井の会話に耳を澄ませていたらしい。黒間は冷や汗を流して過ちに気付いたが、今更ダメとは言えなかった。
首筋に視線を感じると篠原准尉がすごい形相で睨んでいた。
篠原は無言のまま、親指で首を掻き切る仕草をすると顎を「行ってこい」と突き出した。見せてやってもいいが、お前は後で殺すと言っていた。
黒間は半笑いで敬礼した。
それから、黒間は海軍のパイロット達に新しい乗機の特徴を紹介した。相原大尉や、例の取説の受け売りだったが、新型機の紹介に一々大きな反響があった。
後のことを考えると憂鬱だったが、彼らの驚愕は単純に心地よいものだった。
「いいなぁ、陸さんは新しい飛行機に乗れて」
坂井がぼやいた。
黒間は曖昧に頷いた。彼らがもうすぐこの戦闘機を時代遅れにしてしまう零式艦上戦闘機を授かることを知っていたが、それを言うわけにもいかなかった。
まだこの時点では、それは存在しない。
「まぁ、飛んでみないことには何とも言えませんよ」
「飛ぶって、あんたパイロットなのか?」
黒間は首かしげた。
そして、自分の格好を見て納得した。整備士が着るツナギ服だったからだ。午前中に受領機を触っていたときに借りたものだった。
「ええ、まぁ、一応」
「じゃあ、戦場帰りだったりするのか?」
黒間は頷くと、海軍パイロット達の目つきが一斉に変わった。
「戦闘機乗りか?何機落とした?」
「確実なのは、4機かな。I-15が2機。I-16が1機。SB爆撃機の共同撃墜が1機」
撃破なら、5、6機があると答えると歓声があがった。
「どうして、それを先に言わないんだ!空戦の話を聞かせてくれ!」
「いや、別に大したことじゃない。4機ぐらいザラだよ。うちの編隊長は50機以上落としている」
「ほんとかよ!!!」
坂井が叫んだ。
「それって、東洋のリヒトホーフェンの篠原准尉じゃないか?」
「ああ、そうだっけ。あそこに立っているのが、本人だよ」
黒間が指し示すと、海軍のパイロット達が一斉に走り去っていた。
もみくちゃの質問攻めにされる篠原を見て、黒間はそそくさと逃げ出した。どうせ後で何か言われるに違いなかったが。
しかし、それは自分の責任ではないように思えた。