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ノモンハンの風 前編


 1939年6月20日 満州 ハイラル


 満州の気候は厳しく、冬の寒さは筆舌に尽くしがたい。

 しかし、そうであるがゆえに夏は素晴らしかった。

 ハイラル平原は一面の緑に覆われていた。背の低い柔らかな草な水平線の彼方まで続いている。丘や起伏に乏しい地形だが、彼方にはなだらかな山が見える。その山も岩や木々があるわけではなく、平原と同じ下草が茂っていた。

 視界の中で、目を引くものは少ない。

 牧草を求めて移動する羊と馬に乗った遊牧民が目立つくらいか。

 しかし、そうした異国情緒あふれた風景も最近はあまり見かけなくなっていた。

 原因は至って簡単で、この時期のハイラルは日本軍航空戦力が結集する一大拠点となっていからだ。

 黒間が所属する飛行第11戦隊は、ノモンハンでの国境紛争に備えてハイラルに進出していた。

 

「95・・・96・・・97・・・99・・・100!」


 滑走路脇の草地で、腕立て伏臥腕屈伸を繰り返していた黒間以蔵はポンプアップした体を冷えた大地に投げだした。

 体の熱が地面に吸い取られ、気持ちがいい。

 周りには同じように休息をとる若者達がいた。いずれも帝国陸軍から航空徽章を与えられた戦闘機パイロット達だった。


「つぎー!うさぎ跳び100回、往くぞ!」

 

 体はまだ休息を欲していたが、次のトレーニングを始めなければならない。

 黒間の声掛けで、他のパイロット達ものろのろと面を上げた。


「ちょっと休憩しないか?」


 斎田三矢がその場にいた全員の声なき声を代弁して言った。


「駄目だ。ほら、立て。やるぞ」


 地面に倒れたままの斎田を黒間は片手で引き揚げた。

 上背は斎田の方があったが、骨格に蓄えた筋力は段違いだった。二の腕は、人生をもう一度やり直すことになった日から倍近く太くなっていた。

 2度目の人生をやり直すことになった日から、3ヶ月あまりが過ぎていた。

 傷は完全に治癒し、部隊に復帰した黒間はそこで先輩たちから手荒い歓迎を受けたが、苦もなくそれを乗り切って、何食わぬ顔で日常に復帰した。

 もっとも、あの戦争で戦死した人々と顔合わせるのはかなり複雑な気分だったし、忘れかけていた軍隊生活のイロハを思い出すのには、それなりに苦労した。

 敬礼がなっていなくて、修正を食らったことも1度や、2度ではない。

 陸軍伍長が今の階級だが、歩兵部隊とは異なり伍長というのは陸軍航空隊においては最下層を意味しており、パイロットとしては半人前の存在でしかない。こなすべき雑用は多かったし、先輩連中からのいじめは陰湿で不快なものが多かった。

 それでもまた、空を飛べた時には心底から喜悦がこみ上げてきた。

 それは前世での地上での暮らしがバカバカしくなるほどの爽快感だった。

 喜びのあまり、訓練で少しばかりはしゃぎすぎてしまって面倒事を起こしてしまったのだが、改めて自分の適正というものを再確認すると少し気分が前向きになった。

 それを思い出して、黒間は目を細めた。


「こいつ自分の筋肉見て笑ってるよ。あぶねぇ奴だ」

「何か言ったか?」


 巫山戯た冗談の償いをさせるために黒間は斎田の頭を掴んだ。

 ゆっくりと手のひらに力を込めていく。


「なぁ、俺はリンゴを握り潰せるって言ったら、信じてくれるか?」

「信じる!信じる!」


 斎田は慌てて言った。頭蓋骨に加えられる圧力が危険な勢いで増していたからだ。


「ごめん、今のは嘘だった」

「吹いてんじゃねぇよ!!!」


 解放された斎田が喚いたが、黒間の次の一言で沈黙した。


「握り潰したのはスイカだった」


 ゆっくりと再び力が篭る黒間の手を避けて、斎田は喚いた。


「分かったよ。やればいいんだろ。やれば。歩兵じゃないんだから、別に足腰鍛えなくても平気だろ」

「下半身を鍛えるとGに強くなるんだよ」


 黒間は以前にもしたことがある説明を繰り返した。

 事実、日々の鍛錬をみっちりとこなしてきた黒間は、高Gをかけた空戦機動において、右に出るものはいなくなっていた。

 Gスーツのような補助具のないこの時代において、空戦機動中のブラックアウトを防ぐにはウェイトトレーニングが一番だった。特に大腿の筋力が重要だった。大腿筋を緊張させることで血管を収縮させ、下半身から上半身、特に脳に血液を送りこむのだ。

 ブラックアウトを防止する目的でウェイトトレーニングがパイロットに課せられるようになるのは、大推力エンジンを装備したF15やF16が実用化され、高G機動中にパイロットが意識を失って墜落事故が頻発するようになってからだ。

 しかし、それ以前であっても、空戦機動にウェイトトレーニングが有用であることは明らかだった。それを部隊内の訓練で黒間はそれを証明し続けた。

 特に太腿と首周りの筋力強化が効果的だった。九七式戦闘機は操舵が人力なので腕力も要る。

 こうしたウェイトトレーニングは飛行学校では、日課として行われていた。しかし、卒業してしまうと後は殆ど自己管理だった。

 熱心な者は課業の合間を見て鍛錬を続けるが、サボる者はどこまでも平気でサボる。実際、パイロットには肥満体形のものが少なくなかった。

 前世では、黒間は後者に属していた。多少の筋力をつけるよりも、空戦技術を磨く方を優先した。それが平均的な戦闘機パイロットというものだった。

 しかし、今は違った。違わざる得なかったというべきか。

 なにしろ病院帰りのヒヨっ子が、飛行時間が1,000時間を超える先輩連中を訓練で次々と撃墜して回ったのだ。再び空を飛べたことで、少しはしゃぎ過ぎてしまった。

 そんなことをすれば、大騒ぎになるに決まっていた。迂闊なことをしてしまったものだった。

 成りこそ顔のニキビが目立つ若造だったけれど、その中身は太平洋戦争を生き抜いた古兵の中の最古参兵だ。本能のレベルで染み付いた空戦技術は、少しも衰えていなかった。1000時間ぐらいの相手を捻るなど造作も無い。

 ましてや、支那事変もなく実戦を経験してこなかった先輩連中など、話にならなかった。

 しかし、そんなことを明らかにするわけにはいかなかった。精神を病んだと思われかねない。鉄格子付きのサナトリムに入院させられるのは嫌だった。

 およそ説明のつかない連戦連勝に何か合理的な説明をつけようとするなら、ウェイトトレーニングのせいにするしかなかった。それで、一応騒ぎは収まった。

 それからというもの、ウェイトトレーニングが若手のパイロットの間で流行りになった。


「ほんと、こんなことやってて強くなれるのねぇ?」

「なれるさ。信じろ」


 黒間は心のなかで、何も知らない親友に詫びた。

 やがて、決して短くない苦行の時間が終わり、解散となった。

 皆がそれぞれの持場へ散っていったが、斎田と黒間はそのまま残った。ここが二人の持ち場だったからだ。

 弾薬と燃料を積み込んだ3機の九七式戦闘機が滑走路脇で待機していた。警戒待機中。何かあれば、すぐに迎撃に上がれるようになっていた。

 そこへ、二人の上官がやってきた。


「クロ。筋肉体操はもう終わったか?ラジオをつけてくれ」


 篠原弘道准尉は、サイダーの瓶を投げてよこした。

 ノモンハンの日差しに焼けた面構えは端正だったが、瞳は猛禽類のように鋭かった。


「はい。准尉殿」


 黒間は空中で器用に瓶を掴むと草原に置かれたラジオのスイッチを入れた。

 支那語の歌謡曲がラジオのスピーカァーが震わせる。


「ありがたくあります」

「いや、いいんだ。水分はしっかりとっておけ。よくも毎日続くもんだ」


 黒間は礼を言ってから、サイダーを口に含んだ。

 爽やかな炭酸と甘味が火照った体に心地よかった。


「ま、ヘタクソなりに努力するのは大切なことだ」


 嫌味とも取れる皮肉げな口調だったが、篠原がそれを口にすると少しも不愉快ではなかった。

 何しろ、篠原は既に30機以上の敵機を撃墜しているエースパイロットだった。しかも、その撃墜記録は、この1ヶ月あまりで稼いだものだ。

 初陣では1日で5機の敵機を撃墜している。

 こんなことは前代未聞だった。内地の新聞では「東洋のリヒトホーフェン」と題して、特集記事が組まれている。今や、篠原は国民的なヒーローだった。

 現代ならば、アメリカの大リーグで活躍する日本人野球選手に近い存在だ。

 その彼が言えば、皮肉さえもどこか深淵な哲学を帯びた言葉に聞こえてくるので不思議だ。

 それに、ヘタクソというのもあながち間違いではない。 

 黒間のスコアは0だった。斎田も同じく0だ。実戦にも既に3度以上参加している。

 訓練の成績からすれば、物足りないスコアだった。早くも口が差ないものから、「机上の撃墜王」などというありがたくない称号をもらっていたが、黒間は撃墜数を競うつもりはなかった。

 そんなことよりも、2ヶ月後に戦死するこの天才肌の撃墜王をどうやって生還させたらいいのかひたすら考えていた。


「ヘタクソは酷いでありますよぉ!」


 斎田はおどけた調子で抗議した。

 篠原もそれに応じて、ニヤリと笑った。


「ああ、そうだったな。お前はドヘタクソだったな。死なないように注意しろ」


 二人は楽しそうに笑っていた。

 笑えないのは黒間一人だけだった。黒間は二人がどうやって死んだか知っていた。

 ラジオの歌謡曲が途切れ、支那語のニュース番組が始まった。もちろん内容は理解できない。

 篠原が目配せして、黒間が変局を請け負った。周波数のチューニングは、簡単だった。真空管ラジオならともかく、このトランジスタ・ラジオは。

 黒間は、ラジオの表面にプリントされた東亜重工の社章を見た。

 2年前に人生をもう一度やり直すことになってから、チラチラと目にしていたロゴマークだった。

 東亜重工は、黒間の記憶が正しければ20年後に実用化されるトランジスタ・ラジオを去年、全世界で1,000万台売り抜けた超巨大企業連合だった。

 トランジスタ・ラジオ以外にも、自動車や航空機、鉄道、工作機械など様々な工業製品やサービスを輸出している。特にバイクや自動車の製造と販売が有名だ。自転車にエンジンをつけたような簡易型バイクが人気商品だった。乗用車では、外資導入でトヨタや日産、三菱がシボレーやフォードをつくるようになってからは、唯一独力で国産車を製造しているメーカーだった。

 グループ全体で100社を超える子会社を抱えている、なんでもつくっている不思議な会社だった。

 噂では、その資産は日本の国家予算の10年分に相当するという噂だった。

 

「どうした、クロ。故障か?」

「いいえ、大丈夫です」

 

 このロゴマークを見ると、決して自分が孤独ではないと思うことができる。

 面識はないが、自分と同じような履歴をもつ人間がこの世には複数存在しているらしい。そうでなければ、こんなものがこの時代に存在するはずがない。

 支那事変が起きていないのも、誰かが何か手を打ったのだろう。

 ならば、ノモンハンも何とかならないかと思っていた。

 なんともならなかったわけだが。


「・・・暇だな。こうも暇では、腕が鈍る」


 新たにスピーカァーを震わすジャズ・ピアノを聞き流し、篠原は言った。


「敵はこないのでしょうか?」


 斎田は篠原に尋ねた。このところ、偵察機さえハイラルには飛んでこない。

 撃墜王の3番機を任されたのに、撃墜が1機もないことを斎田は不満に思っているらしい。


「さぁな。あっちも戦力の集中に手こずっているのかもしれん」

「では、こっちから乗り込むのはどうでありますか?」


 篠原は曖昧に笑って、何も答えなかった。

 パイロットの間では、ソビエト空軍を一挙に覆滅するため近々、大規模な奇襲作戦が発動されるという噂が囁かれていた。

 黒間はその噂が真実であることを知っていた。

 何しろ前の人生で、それに参加したことがあるからだ。

 1939年6月27日、陸軍航空隊はソ連軍のタムスク基地を先制奇襲に成功し、大量の敵機を地上撃破する。そして、確保された制空権の元で、地上部隊が攻勢を開始するのだ。

 その結果が、散々な失敗な終わったことを黒間は知っている。

 




 1939年7月1日、戦力の終結を終えた日本軍は攻勢を開始した。

 前月の27日には、ソビエト軍の擁するこの方面最大の航空基地へ先制攻撃が行われ、大成功を収めて100機以上の敵機を地上撃破していた。

 安全になった空の下、航空偵察の結果をもとに砲兵と戦車と歩兵が連携して、ハルハ河を渡河した。

 日本軍の作戦は南北でハルハ河を渡河し、それぞれ戦車1個連隊と歩兵2個連隊を主力とする2つの機械化部隊がハルハ河にそって展開するソビエト軍の背後に南北から回り込み、包囲殲滅することだった。

 何の芸もない両翼包囲作戦だが、装甲化された機械化部隊という点が新しかった。

 ナチス・ドイツがスペイン内戦で行った新兵器の実験を日本陸軍はノモンハンで行なっていた。

 当然、攻撃の先鋒に立つのは戦車だった。

 この時の日本軍戦車連隊の主力となったのは、九五式軽戦車だった。さらに、新鋭の九八式中戦車も二個中隊と数が少ないものの初めて実戦投入された。

 日ソにとって初めての大規模な戦車戦が勃発し、多くの戦車がノモンハンの草原に鋼鉄の骸を晒した。

 そうした中で、第3戦車連隊第4中隊の九八式中戦車が、同僚たちと同じ憂き目に遭っていないのは、中隊長の指揮が適切で慎重だったからだ。

 今も、中隊長は稜線の際に、戦車を隠してソビエト軍を偵察している。

 彼の手元には、4両の戦車があった。これが第2中隊の戦力の全てだった。

 1個中隊の戦車の定数は12両だったが、ソビエト軍の対戦車砲で既に半数が失われていた。さらに、2両が故障して修理のために後方に送られている。

 九八式中戦車は、それまで日本製戦車に比べて様々な意味で進歩していたが、ソビエト軍の対戦車砲に対しては、装甲が不足していた。


「先任、アレが見えるか」


 中隊長は、先任の曹長にぞんざいな態度で言った。


「ロスケの対戦車砲ですな。1個中隊はいますな」


 自分の観察とベテランの下士官の意見が一致したことで、中隊長は大きく頷いた。

 中隊長は双眼鏡を構え直し、草原を広く見渡した。

 平らな大地に申し訳程度の偽装を施した対戦車砲が見える。

 起伏が乏しいノモンハンの平原では、対戦車砲は隠れる場所に苦労した。日ソの両軍の兵士達は対戦車砲は秘匿しなければ威力が半減することを急速に学んでいたが、学習が不十分な部隊も多かった。


「あの陣地を抜くぞ、歩兵を呼べ。戦車はここから砲撃して、隠れている砲をあぶりだす」


 本来なら砲兵射撃を浴びせる方が確実なのだが、砲兵はまだハルハ河を渡っていない。

 ソビエト軍は背後を取ろうとする日本軍を阻止するために次々と予備隊を投入し、進撃路にいくつも陣地を築いていた。陣地にぶつかるたびに、日本軍の進撃は止まった。

 戦車とは敵の弱点をつく機動兵器であり、陣地攻撃には向いていなかった。

 1週間あまりで中隊が小隊になるまで損害を受けたことで、日本軍は陣地攻撃で戦車を前面に立てることの愚を悟った。特に対戦車砲は危険で、歩兵か砲兵の支援がない限りは攻撃するべきではなかった。

 高速の戦車連隊はともすれば歩兵を置き去りにして単独行動しがちだったが、高い代償を払って歩兵と連携することの大切さを学んだ。

 結果として、戦車中隊にはトラックに分譲した機動歩兵(自動車化歩兵)中隊が付けられていたので、中隊長が呼んだ歩兵は直ぐにやってきた。

 それから歩兵中隊との簡単な打ち合わせになった。

 歩兵中隊の指揮官はかなりのベテランで、打ち合わせは直ぐに終わった。また、彼は打ち合わせの中で砲兵の代わりに航空支援を要請してはどうかと提案した。

 彼は正直気が進まなかった。砲兵との連携もかなり大変なのだが、航空機との連携はそれよりもさらに難易度が高いからだ。よほど事前に厳密に調整がされない限り、上手くいかない。

 しかし、使えそうなものはなんでも使ってみるべきだった。

 一応、無線で問い合わせてみると支援要請は受理され、すぐに支援を送ると回答があったが、それがどの程度のものなのか具体的な話はなかった。

 やはりあてに出来るものではない。

 打ち合わせが終わり、各々がそれぞれの持場に散っていた。中隊長の場合は、戦車の司令塔だった。

 中隊長は首を廻らしエンジングリルの上に広げられた日の丸を見た。爆撃機が飛来した時、誤爆されないように上空から識別できるようにするための工夫だった。

 支援が来るかどうかも怪しかったが、念のための用心だ。

 操縦手がエンジンをかけ、ダイナモから電力が供給されると中隊長は通信機のスイッチを入れた。 


「戦車、前へ」


 キュポーラから半身をつきだし、咽頭式マイクに片手を添える彼の姿を見た者は、中隊長の落ち着き払った態度に胸打たれた。

 エリート意識が高いドイツ軍の戦車将校でも満点を出すに違いなかった。

 九八式中戦車は、マイバッハ水冷12気筒ガソリンエンジンを唸らせ、砲塔をゆっくりと旋回させる。

 その姿は、ドイツの4号戦車そのものだった。

 防共協定締結後、日本陸軍は大規模な調査団をドイツに派遣し、今後の軍備近代化に向けて様々な情報収集を行っていた。調査団は大量の報告書を書き上げ、その多くに予算が承認され、輸入、ライセンス生産、そして兵器の共同開発が行われることになった。

 共同開発といっても、日本が提供する技術は殆どなく、資金提供がメインだった。ドイツはヒトラー政権後に急速に軍備の拡張を行なっており、新兵器の開発が目白押しだった。兵器開発に要する費用は莫大なものであり、ドイツは慢性的な資金不足だった。

 独裁国家といえども、総統命令だけで金が湯水のごとく湧き出てくるわけではない。

 九八式中戦車は、支援用戦車の4号戦車を国産化したものだった。

 同時に国産化する予定だった機動戦用の3号戦車は残念ながら未だに完成には程遠く、ドイツ本国でも増加試作型の域を出ていなかった。もちろん、国産化もされていない(最終的に第二次世界大戦勃発により国産化は断念された)。

 それに対して支援用として開発された4号戦車は、サスペンション等に保守的な技術を採用していたので既に完成の域にあり、日本にも図面が提供され生産が進んでいた。

 九八式中戦車は、4号戦車D型に相当するが、装備の幾つかは国産品が使用されていた。

 最大の変更点は主砲で、本国の4号戦車が短砲身の75mm砲を装備していたのに対して、九八式中戦車は、長砲身(44口径)の75mm砲を装備していた。榴弾威力よりも貫通力を重視した高初速砲を装備しているのは、対戦車戦闘に従事する3号戦車が完成しないための苦肉の策だった。

 この砲は、同時に採用された九八式八糎野戦高射砲(FLAK36)の輸入、ライセンス生産で余剰になった八八式七糎野戦高射砲を転用したもので、駐退機と砲尾を新造品に改めることで無理なく砲塔に収めることができていた。

 高初速で高空に砲弾を撃ち上げる高射砲を転用した砲だけあって、500m以遠からソビエト軍のBT-7や、T-26を撃破できた。

 廃品利用でこれほどまでに強力な火力を得られたことに驚いた日本陸軍は、短砲身75mm砲のライセンス生産を中止し、手持ちの八八式七糎野戦高射砲の全量を戦車砲へ改造することを決定していた。


「第1目標、敵火点。第2目標、機関銃。連続、各個に撃て」


 戦場のサビが効いた枯れた声で中隊長が言った。

 同時に、砲手が引き金を引く。

 中隊長車が撃ち始めると指揮下の各車が続いた。ソビエト軍も対戦車砲で反撃してきた。

 しかし、当たらない。稜線から砲塔だけ突き出す九八式中戦車を狙い撃つのは極めて困難だった。しかも、撃つ度に後退して稜線の影に隠れてしまう。

 逆に、反撃で位置を暴露した対戦戦車が撃破される始末だった。

 そして、戦車が敵の注意を引き付けている間に、歩兵が匍匐で敵陣に接近し、手榴弾の有効射程距離に持ち込んだ。

 中隊長はソビエト軍陣地に現れた変化を見逃さなかった。

 戦車砲の榴弾の炸裂とは異なる種類の爆発がソビエト軍陣地に起きて、ソビエト軍の機関銃が狂ったように撃ち始めた。歩兵が陣地に取りついた証拠だ。

 各車は阿吽の呼吸で、攻撃目標を機関銃に変更し、忽ちこれを沈黙させた。

 友軍歩兵は匍匐から、突撃に移り陣地内に突入した。

 このまま押しきれるかと思われたが、ソビエト軍の反撃はここからだった。


「戦車だ!」


 誰かの叫びが、無線電波に乗って中隊長のもとに届いた。

 日本軍からしてみるとあまりにも突然な敵戦車の出現だった。

 中隊長は冷静に、攻撃目標を戦車に変更するように各車に通知した。

 同時に、あの戦車がどこから湧いてでたのか少し考えた。

 おそらく、戦車を土中に埋めていたに違いない。

 ここ数日の戦闘から、ソビエト軍は隠れる場所のない平原の戦いにおいて、土中に戦車を埋めることで対応していることを中隊長は学んでいた。人力や重機で壕を掘り、砲塔だけで突き出して車体を隠すことで即席の火点としても使える。

 対戦車砲の偽装はいい加減だったのは、偵察の目を対戦車砲に引きつけ、戦車から逸らすためだ。

 日本軍はその罠に頭から飛び込んだ形だった。

 唐突の戦車の出現により、友軍歩兵は明らかに動揺していた。敵戦車が20台も突然現れたのだから、驚くなという方が無理だ。

 攻撃が失敗したのは明らかで、それどころか逆襲で殲滅されかねない。

 だが、中隊長はまだ冷静だった。

 何故ならば、1台の九八式中戦車は5台のBT戦車に勝るからだ。長砲身の75mm砲を装備した九八式中戦車はいかなる距離からでも、ソビエト軍戦車を撃破できる。

 事実、攻撃目標変更から数分でBT-7が3台も血祭りに上げられた。砲弾は全て、戦車において最も強固な装甲を施されている前面装甲を抜いている。

 だが、日本軍も無傷ではなかった。不運な1台がBT-7の45mm砲を受けて撃破される。九八式中戦車の前面装甲は30mmしかなく、火力と防御の釣り合いがとれていない。

 ソビエト軍はそれを知っているので、全速で距離を詰めてくる。

 中隊長は後退したいと思ったが、ここで引いてしまうと敵中に歩兵中隊が取り残されてしまう。

 既に歩兵は後退を開始していたが、徒歩の歩兵の後退速度と戦車の後退速度はまるで違う。歩兵の後退を援護するには、もう少し粘る必要があった。

 歩兵の後退があとどのくらいで終わるのか、確かなことは分からなかった。

 仕方なく、中隊長は司令塔のハッチを開けて上半身を乗り出した。とてつもなく危険な行為だったが、車内にいるよりは遥かに多くの情報が手に入る。

 おかげで中隊長は上空に現れた友軍機の存在に気づくことができた。

 中隊長は努めて冷静に友軍機が来たことを指揮下の各車に伝えた。

 しかし、内心では、よく来てくれたと喝采を叫びたい衝動に駆られていた。

 中隊長はノモンハンの航空戦があまりうまくいっていないことを知っていた。

 緒戦の奇襲で地上撃破されたソビエト空軍は増援と補充を繰り返し、戦力を回復して反撃に転じていると聞いていたのだ。

 ソビエト空軍の主力はI-15、16戦闘機、高速のSB爆撃機だった。

 背の低い下草しかないノモンハンの平原では、空からの攻撃には為す術もなく、対戦車戦闘ではほぼ無敵の九八式中戦車も簡単に撃破されてしまう。

 7月も半ば過ぎ、戦場が一進一退の膠着状態になってからは、ソビエト軍は大量の航空機を送り込み、航空攻撃による事態打開を図っているらしい。

 中隊長が親しくしている陸軍航空隊の戦闘機パイロットは寝る暇もなく出撃しているとのことだった。

 


 


 

 その日も、忙しい一日だった。

 前線からの支援要請を受けて、採塩所飛行場(前線飛行場の一つ)を飛び立った九七式戦闘機は、3機だった。

 警戒待機中に突然、爆弾を搭載して爆撃を命じられた格好だった。

 それぞれが翼下に25kg爆弾を4つ吊るしていた。

 鈍い反応しか示さなくなった機体を操り、黒間は低空を飛んでいた。

 眼下は緑の海だ。

 既にハルハ河は超えて、敵地に侵入していた。いつ敵機が来るか分かったものではなかった。

 できるだけ早く、さっさと爆弾を投下して身軽になりたい。

 戦闘機乗りの本能とも言うべきチリチリとした焦燥に黒間は身を焦がしていたが、手足は極めて冷静に機体を操り、爆弾で重くなった機体を1番機の後方にピタリとつけていた。

 落ち着きがないのは3番機で、これを操る斎田の精神の在り処がどこにあるのか示している。

 地上に降りた後で、親友が編隊長から浴びる怒声と雷を想像して、黒間は嘆息した。

 その時、1番機がバンクして、さらに高度を下げた。油断なく周囲を警戒しつつ、1番機に続いて機体を降下コースに乗せる。

 黒間は航空チャートを手元に手繰り寄せ、攻撃目標が近いことを確認する。


「アレか」


 高度を落とすと、敵の動きがよく見えた。

 編隊を組んだまま高度を100mまで落とす。一番機に続いて、敵の上空をゆるく右旋回した。右側面下方、敵戦車が20台以上いた。

 離陸前に渡された識別表を見て、それがソ連軍のBT戦車であることを確認する。

 ソビエト軍の歩兵は頭上に現れた九七式戦に気がついて退避行動に移ったが、戦車は逃げる素振りも見せなかった。

 密閉され、騒音に満たされた戦車に乗っている戦車兵は、特に頭上の脅威には鈍感だった。

 どのみち逃げようとしたところで、戦車の足では飛行機から逃れられるはずもない。

 1番機の篠原が、風防を開け放ちハンドサインで、攻撃法を指示した。

 九七式戦にも無線機は搭載されていたが、性能が低く雑音ばかりで殆ど聞き取れなかった。エンジンが作る電磁パルスを拾ってしまって何も聞こえない。その癖、大きく重たいので、殆どの機から取り払われていた。

 黒間は機をバンクさせ、了解の意を示し1番機から離れて高度を上げた。

 最初に突入したのはもちろん1番機だった。一旦高度を上げたあと、緩い角度で降下しつつソビエト軍戦車の車列に爆弾を見舞った。

 ソビエト軍戦車は政治的な、或いは技術的な限界から日本やドイツのような送受信可能な無線機を装備しておらず、戦車が散開して進撃することができなかった。キューポラやペリスコープもなかったり、不十分なので一度、戦闘状態になりハッチを閉じてしまうと周りを把握する術が殆どない。

 その為、小隊長戦車の後をアヒルのようにぞろぞろと進むので的は大きかった。

 爆弾は吸い込まれるように敵戦車の車列の中央で炸裂した。

 4発の25kg爆弾のもたらす破壊はさほどのものではなかったが、至近弾を受けた戦車がひっくり返し、爆圧と破片をまんべんなく浴びた前後の戦車が動かなくなった。

 次は、自分の番だ。

 上空に警戒のために斎田の3番機を残し、黒間は九七式戦を降下させた。

 前世のニューギニア戦線で散々に繰り返した緩急降下爆撃の手順そのものだった。スロットルを引き、エンジンの出力を絞りつつ、降下で機速が上がり過ぎないようにする。

 機速が高いと引き起こしが間に合わなくなったり、引き起こしの際に空中分解することになる。そのため、引き起こしも急角度ではしない。

 地平線と機体主翼の前縁を見比べ、降下角度の当たりをつける。降下角度は30度程度だ。急降下爆撃は60度で行うので半分程度だった。

 望遠鏡照準器の中央から、一つ下を狙って銃把を握った。

 4つの25kg爆弾が直線的な放物線を描いて、やがて地平線と交差した。

 25kg爆弾の炸薬量では派手な爆発は起きない。重爆の使う250kg爆弾とは違う。それでも爆撃を浴びた戦車は無事では済まなかった。

 投弾後、黒間は操縦桿を引いて機首を引き起こす。対気速度は時速300km程度だ。浅く引き起こしつつ右旋回し、自分の戦果を確認する。

 戦車が2台ほどひっくり返っていた。他に巻き添えを食らった戦車2、3台が動かなくなった。

 黒間は愁眉を開く。思った通りに上手くやれたからだ。

 降下で得た速度を高度に変換しつつ、1番機を探した。

 その時、黒間は雲の多い空に九七式戦とは別種の機影を認めた。3機だ。複葉機だった。I-15だ。まだ遠いが、一直線にこちらに向かっている。

 見つかった。そう思うと背筋に鳥肌がたった。

 

「マズイな」


 3番機の斎田が降下していくところだった。敵機にはまだ気づいていない。このままでは低空で一方的な奇襲を食らう。

 黒間はスロットルを押しこみ、エンジンの尻を叩いて速度と高度を稼ぎつつ、1番機を探した。

 無線機がないことが歯がゆい。

 1番機は見つからなかった。どこに行ったのか。仕方なく、敵機の前を横切る形で緩い大旋回した。爆撃中の斎田を援護しなければならない。

 酷く目立つ黒間の機動に3機のI-15は釣られた。

 黒間は3機一纏めに追撃してくる敵機を確認して、機銃の有効射程距離まであと猶予があと何秒あるか図った。

 そして、敵機の後方に1番機の姿を認めた。

 意図したものではないが、黒間が敵を囮になり、1番機がその背後を襲った形だ。

 黒間は意図的に操縦桿を中立に戻し、直線飛行をした。

 この状況では自殺行為以外の単語が見つからない行為だったが、後方につけた敵機の機動を単純化するという効果があった。

 そして、基本的に九七式戦は複葉機のI-15よりも高速だった。エンジンのパワーで容易く引き離すことができる。直線飛行でも逃げられる。

 機銃の有効射程距離に入るまで、まだ20秒程度の猶予があった。

 それだけの時間があれば、1番機には十分だった。

 八九式固定機関銃が火を吹き、1機のI-15が火を吹いて錐揉みして落ちていく。

 やっと後方の1番機に気がついたI-15は編隊を解いた。その時には、既に黒間は機体をインメルマンターンさせていた。

 上下逆さになった世界の中で、1番機が敵機を追うのが見えた。もう1機はどうしたらいいのか分からないという調子だった。


「さっさと逃げればいいんだよ」


 黒間は独り言ちて、未熟な敵機に狙いを定めて機体を降下させた。機速があっという間に時速400kmを超える。

 望遠鏡照準器の中で、敵のパイロットの表情が見える程度まで近づき、撃った。

 7.7mm弾の火線がI-15に吸い込まれ、パイロットを直撃するのが見えた。

 表現に困る手応えを感じて、黒間は眉を潜める。

 パイロットを失った敵機は、横転しつつ弓なりに落ちていった。

 初撃墜だった。

 しかし、前世の経験からすれば初体験というわけにはいかない。そう思うと興奮はあまり感じなかった。老人のような醒めた気持ちで、黒間は新たに刻んだスコアを受け入れた。

 素早く意識を切り替えた黒間は、斎田の3番機を探した。

 これは直ぐに見つかった。下後方から上昇してくるのが見えた。

 黒間はバンクして、編隊を組みやすように機を横べりさせた。

 同時に新らたな敵機の出現を警戒して注意の網を張り巡らせる。その網にひっかかった機があった。 

 一瞬、緊張した。しかし直ぐに友軍機と知れた。1番機だ。

 1番機と編隊を組み直すと篠原が風防を開き、拳を突き出して親指と人差し指を突き出した。2機撃墜だった。追いかけていたI-15を撃墜したらしい。

 返戻に似た仕草で、人差し指を突き出した。1機撃墜という意味だった。

 篠原は軽い敬礼を送ってきた。祝福のつもりらしい。

 黒間も似たような軽い敬礼を返し、ぎこちなくはにかんだ。





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