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シンガポール航空戦

 

 

1941年2月7日 コタバル飛行場


 夜明け前でも、マレー半島の空気は冷えない。

 それでも日中よりは過ごしやすいものと観念し、黒間は夏用飛行服に袖を通す。夏用といえど、半袖ではない。保温のためにコットンが入っている。高度5,000まで上がれば四季はなくなる。そこは常冬の世界だ。

 加えて、革製の飛行服は連日の酷使により異臭を発していた。

 目と鼻を刺激する匂いに黒間は顔をしかめる。

 それでもしばらくすると慣れて何も感じなくなるのだから不思議なものだ。

 きっと人間はどんなことにでも慣れてしまう生き物なのだ。黒間はそう思った。

 そうでなければ戦争なんてできないだろう。

 もう2度と御免だと思ったことを、転生してもう一度繰り返している自分は何なのか?

 黒間はそれを思うとどうしようもない気分になる。度を越えた愚物か、痴れ者か、狂人か、自分は人間として何か重要なものが欠けているのではないか?

 こんなことを考えてしまうのは、決まって暇な時だった。

 小人閑居して不善を為す。暇になると碌なことがない。実際には、出撃前の緊張を孕んだ時間の筈なのだが、黒間には相対的に余裕があった。

 戦慣れした兵士の姿である。

 淡々と身支度を整えていると自転車に乗って、主計の人間が来た。大荷物を抱えている。


「曹長。今日の弁当です」


 黒間は彼が去る前に尋ねた。


「今日はなんだ?」

「稲荷寿司ですよ」


 自分が食べられないのに、彼は妙に嬉しそうに言った。

 黒間は何故か罪悪感を覚える。

 アルマイトの滑やかな感触の弁当箱を開くと、稲荷寿司がぎっしり詰め込んであった。

 パイロットの食事は片手で食べられるものばかりだ。重爆なら普通の弁当も有りだが、単発単座の戦闘で両手を離すことは不可能だ。握り飯が多かったが、太巻きや稲荷寿司が出ることもあった。

 中でも一番人気は稲荷寿司だ。砂糖と醤油で味付けした油揚げに詰め込めるだけ酢飯を詰め込んだデッカイ奴だ。大きさは大人の握りこぶし程度ある。スーパーの寿司コーナーでお目にかかれない代物だ。

 黒間は蓋を閉じて、弁当箱を用具袋にしまった。


「また、稲荷寿司か。偶には変わったものが食いたいな」


 相棒の斎田三矢が唇を尖らせた。


「贅沢言うな」


 黒間の声には強い非難の響きがあった。

 斎田は肩を竦めて鼻白んだ。

 中隊の食料事情は悪くなかった。食料の現地調達が上手くいっているからだ。この場合の現地調達とは武力による略奪を意味しない。現地の業者から軍票などを利用した商取引による調達という意味だ。

 マレー半島で味噌や醤油などの調味料の調達は不可能だったが、米は比較的安価に手に入った。隣国のタイ王国は米の輸出国だからだ。内地でも貧困層の食べる米は基本的にタイ米だった。日本人が皆、日本産の米を食べられるようになるのは、戦後も随分後になってのことだった。

 黒間は前世のニューギニア戦の末期を知っている。それは悲惨の一言に尽きる。

 少なくとも今は、あの絶望そのものような雑草粥は食べなくて済んでいる。苦味とえぐ味を極めたようなあの気色の悪い色のゲル状の物体を食事と呼ばなくていいのは幸いである。


「あんまりカリカリするなよ。タバコはないか?」


 黒間はポケットを探ると、くしゃくしゃになったパッケージが出てきた。

 

「ないのか?」

「いや、あるさ」


 二本だけポケットの奥から出てきた。日本から持ち込んだタバコはこれで最後だ。

 

「お前、自分のは?」

「あるなら、訊いたりしないよ」


 だったら、もう少し済まなさそうな顔をしろよと思ったが、黒間は斎田のこのようなところを好いていた。

 遠慮も気づかいも必要もない人間関係というのはとても貴重だ。


「悪いな」


 タバコに火を点けながら斎田は言った。

 

「後で返せよ」


 斎田から火を貰って黒間は答える。

 一度深くを吸って、肺の奥まで紫煙を馴染ませる。甘いしびれるような、それでイガっらぽい感覚。透き通るようなニコチンの覚醒作用。

 タバコとはこんなにもいいものだったのかと改めて思った。これが悪者扱いされるようになったのは何時頃からだろう。昭和の終わりごろだっただろうか。

 しばし、黒間は物思いに耽る。

 無言の時間になった。斎田も何も言わなかった。タバコで口がふさがっているからだ。しかし、喫煙時の沈黙は少しも気まずくはない。

 黒間は斎田を見た。

 部屋はまだ暗い。電灯はあるが灯火管制で深いフードを被っていた。薄暗い室内で、タバコの赤い灯りだけが斎田の尖った顎を闇から浮かび上がらせていた。

 

「シンガポールでタバコは買えるかな?」

「ああ、買えるよ。山ほどな」


 黒間は前世の記憶を呼び戻す。

 昭南市と名を変えたシンガポールで、洋モクを山ほど買い集めた覚えがある。

 まだ、緒戦の頃の話だ。日本軍の軍票でもまだ買い物ができた時期だった。洋モクの味も思い出深いが、町中で食べたアイスクリームとココナッツジュースの甘さといったら極楽の味だった。

 黒間の顔がニヤける。


「何でそんなこと知ってるんだ?」


 首を傾げて斎田は言った。


「さて、なんとなく・・・かな」


 逸らかすため宿舎を出ると東の空が白み始めていた。

 暖気運転中の零式戦が列線にずらりと並んでいる。機付きの整備員がクランクでイナーシャを回していた。エンジンがかかるとガソリンの刺激的な匂いが辺りに立ち込める。水分過多な空気をペラがかき混ぜ、プロペラ後流で椰子の木が揺れる。

 出撃前の日常風景だ。

 これを日常だと認識している自分の感覚に黒間は軽い頭痛を覚えた。

 こめかみを揉む黒間の脇を爆弾を満載した運搬車が通り過ぎる。

 運搬車とはムカデのように専用貨車を引く小型の牽引車だ。爆弾以外にも様々なものを引っ張れるように作られている。重爆や輸送機を駐機スペースまで牽引するのにも使われる。

 不意に運搬車が止まった。黒間は貨車に積んだ爆弾を見る。250kg爆弾である。

 今、この爆弾が不意に破裂しようものなら、黒間は肉片1つ残ることなくあの世に旅立てる。

 火葬の手間が省けるのはいいことか、悪いこととか。苦痛を感じることなく死ねるのは、幸か不幸か?あるいはただ虚しいだけか。

 不意に、黒間は過激な冗談を思いつく。

 或いは死に至る悪ふざけか。


「おい。これを見てくれ」

 

 斎田を呼び止め、黒間はフィルターまで吸ったタバコを掲げてみせた。

 まだ火が点いている。


「どうした?」

「火を消そうと思って」


 黒間はそれを無造作に爆弾に押し付けてもみ消した。

 斎田が目を丸くし、次に破顔し、黒間の真似をした。

 運搬車を転がす整備員は笑い転げる二人に気づいたが、その理由には気付かなかった。気づいていたら激怒するだけでは済まなかっただろう。

 緊張が適当に解れたところで、二人は自分の列線に向かった。

 滑走路には、離陸の順番を待つ重爆が行列を作っていた。翼端灯の赤、青、緑の光が怪しく光っている。

 風防から離陸の許可を待つ重爆のパイロット達が顔を出していた。皆、強張った顔をしている。対照的に黒間達は緩んだ顔をしていた。

  

「よくもこんなにもかき集めたもんだ」


 斎田が感心したように言う。

 帝国空軍は戦力を集中を終え、大攻勢に打って出ようとしていた。

 黒間は排気ガスを孕んだ朝の空気を吸い込む。

 

「たまには変わったのものが食いたいな」


 黒間にはなんとなく予感があった。

 今日は特別な日になるだろうということを。

 

「贅沢じゃなかったのか?」


 誤解であることを示すために、黒間は右手を飛行機の形にしてひらひらと振った。

 斎田はああ、なるほどという顔をして頷いた。


「たしかに、ハリケーンやヴッファローの相手は飽きたな」

「ああ、そうだ」


 一息切って、黒間は言った。


「スピットファイアが食いたいな」


 

 


 コタバル、シンゴラに日本軍が上陸してから2ヶ月。1941年1月31日、遂に日本軍はシンガポール対岸、ジョホール・バルに達した。

 マレー半島1,100kmをイギリス軍と闘いつつ縦断した日本軍は、イギリス連邦の一大戦略拠点であるシンガポールを2月11日(紀元節)までに攻略する計画を立て、ジョホール・バル対岸に大軍を集結させていた。

 これまでの戦いの細い経過は割愛するが、まず日本軍の圧勝ともいうべき状況だった。

 意気上がる日本軍だったが、決して楽な戦いだったわけではない。

 それどころか1月31日時点では、前線において弾薬の備蓄が殆ど底を尽きかけていたほどだった。

 理由は簡単で、進撃速度に補給が追いついていないからだ。

 上陸地点であるコタバル・シンゴラは1,000km後方にある。補給線は伸びきっていた。前線に弾薬の運搬するため莫大な数のトラック、馬匹が稼働していたが、輸送手段そのものが莫大な燃料と食料を消費する。さらにコタバル・シンゴラにある物資集積所と前線の間にある道路は大半が未舗装だった。輸送効率は酷く悪い。頼みの綱は鉄道だったがイギリス軍は妨害のために尽く橋梁を破壊してから後退するので、すぐに鉄道路線が軍の補給路として機能するわけではない。

 幸いにも橋梁の修復は入念な資材の準備と独立工兵隊の大量投入により事前の計画どおりに推移しており、前線への弾薬移送は計画通りに進んでいた。

 しかし、前線での消費速度を上回るほど早いわけではない。

 快進撃に見える日本軍の勝利は、実際のところは薄氷を踏む勝利だったと言える。

 もっとも仮に弾薬の移送が事前の想定以下で推移したとしても、日本軍の勝利は変わらなかったという意見もある。

 なぜならば、イギリス軍は日本軍以上に弾薬が不足していたからだ。

 1月31日の時点で、シンガポールに籠城したイギリス軍は、弾薬のストックは3日分しかなかった。

 そして、補充の見込みもない。

 英国本土陥落の余波で国家レベルの物流が死んでいるためだ。制空権や制海権は既にないが、それが維持されていたとしても手の施しようがない状況だった。

 カナダに疎開した軍需工場での新規生産も全く進んでいない。戦前に蓄えたストックは本土と共に失われていた。

 つまり、この時期のイギリス軍は近代の軍隊としてはもはや死に体も同然だったと言える。

 そして、さらに悪いことにこの弾薬不足は今次大戦中に回復する見込みがないということだった。

 植民地帝国であった英連邦は、植民地に近代的な工業基盤を持っていない。持っていないというよりは意図して作らせなかった。そんなことをしては、本土に住む国民の職を奪うことになりかねないからだ。

 植民地は工業原料と供給地と本土で生産された製品の消費地として存在し、本土に生産手段を独占することで大英帝国は繁栄してきた。

 そのイギリスが本土を失ってしまったのだから、マレー半島やボルネオ島北部での戦闘は最初から敗北が決まっているようなものだった。

 世界最強の王立海軍も今は動けない。大半の艦艇が本土脱出戦で傷ついていた。損傷した艦は北米の港でいつ始まるか分からない修理を待っていたし、修理中の船は間に合いそうにない。そもそも艦艇の弾薬庫はほとんど空なのだ。

 近辺で援軍を出せるのはオーストラリアぐらいだったが、こちらは自国の防衛を固めるのに忙しかった。オランダはさっさと蘭印の中立を宣言し、戦争そのものから離脱を図っている最中である。

 戦略レベルで、シンガポールに立て籠もったイギリス軍が勝利する可能性は完全に失われていた。

 それでも、総攻撃に先立って行われた日本軍の降伏勧告が尽く跳ね除けられたのは、ジョンブルの意地に他ならない。

 かつての同盟国に、戦争を教育してやるのだ。

  

「凄い対空砲火だな」


 黒間は空を黒く染める高射砲の弾幕を見て、そう呟いた。

 日本空軍はシンガポール侵攻に先立ち、72時間の連続空爆を実施していた。

 黒間が護衛してきた九七式重爆が弾幕の中を進撃していく。編隊は乱れない。雁行隊形のまま爆撃目標に向かっていく。

 戦闘機隊は安全な場所からそれを見ていた。

 なんという勇気だろうか。

 黒間は愁眉を開く。

 急降下爆撃機の曲芸じみた戦い方もある意味恐るべきものだが、重爆の戦いほど気合が入っているとは思わない。連中は根性が違う。

 高射砲に一方的に滅多打ちされるのは怖い。

 黒間は根っからの戦闘機パイロットなので、それがどういうものなのかは経験したことがない。想像するしかないが、それがロクでもないことは容易に想像がつく。

 何しろ、空が荒れ狂うのだ。

 破裂した砲弾から爆轟と共にスプリンターが飛び出し、音速の数倍のスピートで乱舞し、ありとあらゆるものを切り裂く。炸薬の生み出す衝撃波は重爆をちっぽな木の葉のように揺さぶる。人間など嵐に翻弄される鳥かごの中の小鳥でしかない。

 高射砲の弾幕射撃とはそういうものだった。対空砲の直撃する確率が10,000分の1程度しかないといっても怖いものは怖い。

 そこに正面から突っ込むクソ度胸など黒間は持ち合わせていないし、そういうのは戦闘機パイロットの仕事ではない。

 戦闘機は空軍の花型だった。しかし、実戦慣れした戦闘機パイロットほど爆撃屋に一定の敬意を払う。

 ただし、それでもやはり戦闘機が一番であることは言うまでもないことだった。

 なぜならば・・・


「簪より、白鷺へ。簪より、白鷺へ。敵機発見、多数。8時方向」


 爆撃隊から悲鳴のような通報が入る。

 トランジスタ式無線通信機の感度は良好。真空管式の無線通信装置など、全く問題にならない。前世との違いを実感する一瞬だ。


「白鷺より、簪へ。落ち着け。高射砲に撃たれている間は大丈夫だ」


 中隊長の篠原がなだめるように言う。

 爆撃機は強靭である。対空砲火をもともせず敵陣に突撃する。爆撃機は恐ろしい。常に破壊をばら撒くのは爆撃機だ。

 だが、その爆撃機も戦闘機の前には無力だ。

 だから戦闘機が一番偉いし、戦闘機パイロットは空軍の花形なのだ。


「白鷺より、小鳥達へ。まだ仕掛けるなよ」


 芝居がかった口調で篠原が中隊に指示を出す。

 その声は冷静そのものだった。しかし、この天才肌の撃墜王と付き合いが長い黒間はそれが仮初のものと気づく。本当は嬉しくて堪らないと言ったところだ。 

 ノモンハンの撃墜王はマレー半島では撃墜王になれていない。

 敵がいないからだ。

 イギリス軍は貴重な、というよりも絶滅寸前な戦闘機を消耗することを恐れ、温存策をとっていた。

 それを最後の戦いにぶつけて来た形だ。

 根っから戦闘機パイロットである篠原が喜ばないわけない。喜びを通りぬけ、歓喜してきた。

 もちろん、それは黒間も同じだ。

 敵機はおよそ17,18機。こちらは12機。若干、数は向うの方が多い。だが、質はこちらの方が上だ。敵はいかにもトロそうな空冷のヴッファロー、それに液冷のハリケーン。その混成編隊だ。空力特性の異る機種で編隊を組むのは悪手だ。足の引っ張り合いになりかねない。普通はしない。つまり、それだけ敵が追いつめられているということだ。

 

『さて・・・どうする?』


 会敵しても空戦が直ちに始まるとは限らない。

 お互いを視認していても、有利な位置を確保するまで占位運動に時間を費やすことが多い。ただちに突撃するような馬鹿は長生きできない。

 敵機の狙いは爆撃機なのは間違いない。だが、高射砲に撃たれている間は爆撃機に近寄れない。同士討ちに成りかねないからだ。基本、対空砲は有効射程圏内に入れば敵味方の区別なく撃つ。

 よって仕掛けるポイントは、爆撃機が爆弾を投下して、高射砲の弾幕から出た直後だろう。チャンスは一度だけ。重爆は鈍重だが、爆撃を終えた後なら速度も出るし、緩降下で加速することもできる。逃げに徹する重爆を追撃するのは意外と難しい。護衛の戦闘機がいるならなおさらだ。

 結果として、爆撃機を間に挟んで、日英の戦闘機が並走するという一見、奇妙な展開になった。後は仕掛けるタイミングの読み合いになる。

 この場合、先に仕掛けるのはイギリス軍だ。まず彼らが爆撃機に向かう。その側背を黒間達が突く。

 ただし、側背が突けるかは仕掛けのタイミング次第だ。早すぎても、遅すぎても仕損じる。早く仕掛ければ、攻撃を避けられた後、爆撃機が一撃を食らう。遅すぎても爆撃機がやられる。

 戦力の少ないイギリス軍は一撃したら逃げるだろうから、チャンスは一度きりしかない。仕掛けのタイミングを決めるのは中隊長の篠原だ。黒間はその判断に絶対的な信頼が置ける。心配する方が失礼になるほどだ。

 じわりと手の平に汗が滲む。

 重爆はまだ対空砲の弾幕に包まれている。シンガポールの市街地上空を通過。爆撃進路に入る。

 地上の様子はどうなんだろう。

 緊張のあまり、ふと益体もないことを考える。都会の喧騒を100万倍にしたようなものか。とにかく対空砲火はやかましい。

 まだどちらも仕掛けない。

 じっと睨み合う。タイミングを図り合う。

 重爆は爆弾を投下。編隊は弾幕の中、東に向かって旋回する。さぁ、いよいよだ。

 まだ重爆は弾幕に包まれている。1機が直撃を浴びて爆散する。あとちょっとだったのに、運がない。

 そこで、黒間は胃にごろりとした違和感を覚えた。

 嫌な感じだ。

 なんとなく、このままではイケないと感じた。鼻の頭に浮いた汗が危機を叫んでいる。

 

「全機、散れ!緊急回避!」


 篠原が叫んだ。

 考えるよりも早く黒間の体が動いた。フットバーを蹴り、ラダーとエルロンを連動させ、零式戦は素早く身を翻した。

 だが、全員がそれを出来るわけではなかった。

 反応の遅れた1機が、真下からの一撃を喰らう。

 ブリティッシュ30口径弾が零式戦のジュラルミンに無数の死を穿つ。黒間は、一撃を喰らった零式戦の風防ガラスが赤く染まるのを見た。

 それまで力強く大気を掴んでいたプロペラが止まる。後は重力に従って落ちるだけになる零式戦。その脇を恐ろしいスピードで抜ける機影が1つ。

 黒間はそれを目で追った。

 赤道直下の水色の空を切り裂く楕円形の翼。零式戦が野暮ったく見えるほど滑らかで秀麗なフォルム。あまり視界の良くなさそうな小さな風防。力強く排気する12気筒液冷エンジン。

 誰かが叫んだ。


「スピットファイア!!」


 来るべきものが来たという興奮が黒間を襲った。

 同時に、凄まじいまでの闘志が漲った。全身に興奮が駆け抜ける。だが、黒間は思いど止まった。

 幾多の実戦経験が戦況を敏感に読み取り、打つべき手を黒間に啓示していた。

 今は爆撃機の護衛が最優先だった。

 スピットファイアの奇襲と同時にイギリス軍戦闘機部隊が重爆に殺到していた。

 援護は間に合いそうにない。スピットファイアの奇襲はそれを狙ったものだ。


「斎田、安藤、ついて来い!」


 黒間は機体を上昇横転させ、重爆隊の上空に小隊4機を占位させる。

 敵戦闘機の襲撃を受けた重爆隊は防御機銃で反撃していた。しかし、既に1機がエンジンから火を吹いていた。

 炎が見る間に領土を広げる。

 アレは落ちるな。

 黒間は苦いものが胸に広がるのを覚えた。同時に、瀕死の重爆を銃撃する敵機に怒りを滾らせる。


「これ以上させるかッ!」


 上方から逆落としに零式戦は襲いかかった。4丁の九八式固定機関銃が弾雨を降らせる。牽制射撃。ヴッファローは機首を翻す。

 だが、件の重爆は左主翼で小爆発を起こし、そのまま空中分解した。赤黒いガソリン特有の炎に混ざって、ジェラルミンの銀が煌めく。

 黒間は報復の対象を求めてヴッファローに迫る。

 零式戦の追撃を受けたヴッファローは降下して離脱を図った。しかし、少し遅い。加速は軽量の零式戦が圧倒的に勝る。これに逆落としの降下速度を加えて、零式戦は既にトップスピードに達していた。光学照準器の円環にヴッファローの後背を捉えるのに、30秒も要らない。

 黒間は操縦桿の発射レバーを20mm機関砲に切り替える。

 だが、少し遠い。


「後方にスピットファイア!」


 斎田から警報が飛んできた。

 振り返ると後方上空にあの楕円翼があった。

 その時、黒間はスピットファイアが単機であることに気がつく。コンマ数秒の後、そのパイロットの勇気に舌を巻いた。

 そも、あのスピットファイアは最初から単機だった。12機の零式戦の編隊に単機で突入するなど、正気の沙汰ではない。あるいは、自機の性能と腕前によほど自信があるのか。

 この場合は、後者だ。

 黒間は即座に決断した。このままでは自分が狩られる。

 

「斎田。後方のスピットを頼む!」

「承知した!」

 

 黒間は小隊に2つに割った。4機編隊制はこういう時に便利だ。

 斎田は僚機を引き連れ、加速で得た速度を高度に替えて急上昇。スピットファイアの進路を塞ぎかかる。黒間は後方の安全を確保。

 だが、後方に気を配る内にヴッファローが離脱に成功しつつあった。

 殆ど全ての性能において零式戦に劣るヴッファローも1つだけ零式戦に勝るものがあった。それは急降下性能だ。零式戦は時速640kmを超えると機体が保たない。軽量化で同世代機より頭1つ抜けた加速、上昇性能を得た代償の1つだ。

 だが、それでもやりようはある。

 黒間は発射レバーを機銃に切り替える。まだ、遠い。400mはある。有効射程距離外。それでも、撃った。当たらなくても問題ない。

 撃たれたヴッファローは回避のために機体を滑らせる。

 ヒヨッ子のやり方だ。黒間はそう思った。

 プロはそんなことをしない。プロはこの距離なら機銃弾が当たらないことを知っている。あるいは、喰らっても問題ないと割り切れる。この距離では、30口径では防弾板を抜けない。

 機体を滑らせるとはどういうことか。それは単純に時間あたりの移動量が増えることだ。同時に余計な機動で速度を失う。後方に敵機が迫っているときにこれをやると致命傷になる。

 黒間は照準器の円環の理にヴッファローを捉える。

 発射レバーを同時発射に切り替える。レバーに握った。5丁の機関砲、機銃が火を噴く。

 最も破壊的なのはイスパノ・スイザ20mmモーターカノンだ。薬室に込められた機関砲弾が2.5mの砲身から秒速880mで撃ち出された。同時発射の7.92mm弾と初速は殆ど変わらない。だが、弾頭重量は一桁違う。そして、30口径では使用不能な炸裂弾が使える。単発機なら、1、2発で落ちる。

 ヴッファローの最後は悲惨だった。彼が直撃したのは炸裂弾だったからだ。

 一撃で、機体構造が吹き飛ぶ。モノコック構造が破綻し、風圧を支えられなくなる。ヴッファローは空中分解。

 黒間は慌てて破片を避ける。

 スコアを1つ伸ばした余韻に浸る余裕はない。

 黒間は操縦桿を引いて自機を上昇させる。零式戦は速度を高度に代えて急上昇。

 高所から戦場を俯瞰し、黒間は戦いが既に終わっていることを知る。重爆は対空砲を回避するため海上に離脱。イギリス軍の戦闘機は殆どが一撃離脱に徹していた。

 黒間が喰ったのは命令違反を犯して重爆に貼りつていたバカだけだ。

 損失は重爆1、戦闘機1。重爆は被弾多数、死傷者多数といった所か。いいようにしてやられた。


「クソッ!」


 あのスピットファイアはエースだ。

 腕もいいが、戦上手だ。これだけの状況をあのスピットファイアはたった1機で作り上げた。きっと、遠くのものがよく見えるいい目をしているのだろう。


「斎田、どこだ?俺が見えるか?」

「10時方向だ」


 頭を右に振ると斎田の零式戦が寄せて来るところだった。僚機もいる。

 黒間は胸をなでおろす。


「スピットファイアは?」

「すまん。逃げられた」


 予想した回答。あるいは予想された回答。

 

「やっこさん。いい腕だったよ。ちょっと舐めてかかっていた。ヤバかったな」


 黒間は斎田の殊勝な発言に肝を冷やす。

 余程のことがあったのだろう。


「ま、次に俺と会った時が赤鼻の最後だけどよ」

「赤鼻?」


 斎田から聞き慣れたない単語が飛び出す。


「ああ、やっこさん。プロペラスピナーを真っ赤に塗ってやがった。なんのつもりか知らんが、よく目立つ。次は逃がさねぇよ」

「そうだな」


 黒間は暗く嘯いた。

 それは次があればの話だった。あのスピットファイアがどれだけ奮戦し、奇策を用いて日本軍を翻弄したところで、もはや彼らには後がない。

 最後には追い立てられ、狩られるだけだ。

 重爆が投下した爆弾で月面のようになりつつあるシンガポールを見て、黒間はそう思った。





 72時間に渡る連続砲爆撃の後、日本軍はジョホール海峡を渡り、遂にシンガポールに上陸した。

 イギリス軍は水際で激しく抵抗したものの、砲爆撃で防御陣地の大半が機能を喪失していたこと、さらに絶えまない砲爆撃で士気が低下していたことが致命傷になった。イギリス軍は数時間の戦闘で海岸線を放棄し、日本軍は橋頭堡を拡大した。

 拡大した橋頭堡に仮設橋が敷設され、日本軍の突撃砲と戦車が展開すると対戦車火器が絶望的に欠乏していたイギリス軍は総崩れになり、後は一方的な展開となった。

 1941年2月11日。イギリス軍が降伏。日本軍は紀元節までにシンガポールを攻略した。

 イギリスのアジア植民地支配の中枢にして、インド洋と太平洋をつなぐ結節点であるシンガポールが陥落したことは一瞬にして世界を駆け巡った。

 それはイギリスの終わりを告げる弔鐘となった。

 翌日、カナダのオタワにてイギリス亡命政権の首相チャーチルは改めて枢軸国との徹底抗戦を表明した。このラジオ演説でチャーチルは自身の健在と強気の姿勢を示したが、それはイギリスの窮状を示す背理でもあった。

 その証拠に同日に予定されていたイギリス戦時国債の入札は延期された。札割れが起きるようなことになれば、信用崩壊に繋がりかねないと懸念されたためである。

 日程を変更した上で実施された国債入札は無事に落札されたものの、ニューヨーク債権市場でのイギリス戦時国債の利回りが急騰した。

 イギリスの債務返済能力に世界中の投資家達が疑問符をつけたのだった。





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