仏印進駐
1940年9月27日 コンポントム飛行場
日独伊仏四国同盟が締結された日は、晴れだった。
黒間以蔵は赤道直下の太陽を見上げ、ずり落ちかけたサングラスをかけ直した。
幸いなことに南部仏印のコンポントムはまだ雨季だ。気温はあまり高くない。しかし、11月頃の乾季になると気温が40度近くまで上がる。
氷都のハルビンなら、そろそろ冬支度を終えるころだ。しかし、仏印はこれから暑さの本番だった。
先のことを思いやり、黒間は心の底からウンザリする。
前世で敵機との戦いには負けたことはない。しかし、熱帯の暑さには何度か負けている。熱帯の暑さには伝染病など厄介なオマケがついてくる。
しかし、赤道直下特有の湿度の高いネットリと粘着く空気はどこか懐かしいものだった。
「黒間軍曹、こいつは治りそうでありますか?」
感傷に浸っていた黒間を現実に呼び戻したのは設定隊(基地建設部隊、海軍では設営隊という)の伍長だった。
酷く心配そうな顔でうんともすんとも言わなくなったショベルカーを見上げている。このショベルカーは設定隊が持ち込んだものだ。東亜重工のロゴマークが入っている。
前世では影も形もなかった土木用重機のお陰で、コンポントム飛行場の拡張工事は順調に進んでいた。
前世ではパイロットまで動員した人海戦術で作った滑走路もブルドーザーとロードローラーのお陰であっと言う間に完成した。
当初、750m級の滑走路二本しかなかった飛行場も、いまでは1600m級滑走路を要する立派な空軍基地になった。建設工事も滑走路の拡張から宿舎や掩体壕の工事に移っている。それらも黒間達のようなパイロットの手を煩わせることなく、設定隊の機械達が黙々と作業をこなしてくれている。
おかげで酷く楽ができた。
今後も楽をするためにショベルカーにはただちに戦線復帰してもらわなければならない。
「大丈夫だ。ケーブルの交換で元通りになる」
黒間は手についた機械油を雑巾で拭いながら答えた。見た限り、故障の原因は電源ケーブルの被覆が熱ダレで溶けたことだ。剥き出しになった電線が漏電して短絡したらしい。
木べらでディーゼルエンジンに張り付いたゴムをこそげ落とす。
昔はよくあったことだ。
日本車が滅多なことでは故障という触れ込みで売れるようになったのは、80年代過ぎてからだ。それ以前は、車とはちょっとしたことで直ぐに壊れるものだった。
ダメになったケーブルの数は2、3つ程度だ。
これぐらいなら直ぐに交換できる。
総取り替えだと3日はかかる。その場合は、嘘でも処置なしと答えるつもりだった。
「そうですか、良かった。ところで軍曹はいつ重機の修理を覚えたのでありますか?戦闘機パイロットというのは、みんなこうなんですか?」
「あー、そのなんだ。まぁ、いろいろあってな」
前世の戦後にこれで飯を食っていた、とは言えなかった。
手早くケーブルの交換をしながら、黒間は曖昧に笑う。
笑顔とは最も都合のいい仮面である。
「エンジンルームのボンネットは開けたまま作業してくれ。雨降りは閉めていいが、そうでないなら放熱のために開けて置いたほうがいい」
少しはマシになるはずだ、と黒間は付け加えた。
ショベルカーのキーを回すと呆気無くエンジンがかかった。一昔前の重機らしく酷い震動だ。マフラーから黒い煙が立ち込める。喉と目が痛くなる。
環境安全基準など欠片も存在しない時代の車だった。動く環境破壊である。しかし、そうであるが故に単純で、修理は至極容易である。
呆気ないものだ。どうということない、つまらない仕事だった。
「ありがとうございます。地獄に仏であります」
しかし、伍長の顔に浮かぶ笑みは本物の感謝そのものだった。
伍長の笑みを見て黒間は一瞬だけ赤道直下の暑さや不快感を忘れる。
そして、礼と共に差し出された紙袋を見た。
「これは?」
「うちの隊長から、お礼に、と」
そうかと頷いて黒間はありがたく仕事の報酬を受け取った。
最初は南方の果物かと思った。バナナやマンゴーの類は甘くて人気がある。しかし、紙袋は思ったよりも軽かった。
「おつかれさん」
天幕を張っただけのピスト(パイロット用の待機所)に戻ると下から声がした。
見下ろすと半裸の斎田が地面に転がっていた。
極端に暑さに弱いこの男を赤道直下に連れてきたのは間違いだった。もっとも、黒間が連れてきたわけはないし、何が間違いなのかも不明だが。
「居るに作らず、ゐぬるに死せず」
斎田のとなりに腰を下ろし、黒間は言った。
「なんだって?」
「死体のように眠っちゃならぇねって孔子様がおっしゃっている」
紙袋の中身は煙草のパッケージだった。1カートンある。かさばる割に軽いはずだ。
銘柄はゴールデンバット。市販のタバコではこれが一番安い。
「おお、一つくれよ」
「好きにしろ」
黒間はパッケージの一つを手に取り、慣れた手つきで開封。
飛行服のポケットからシルバーのメッキが真新しいライターが靭やかに現れ、点火。
「おい、なんだ。それ」
「ジッポーライター」
黒間は紫煙を吐き出して答えた。
済んだ金属音を響かせて、ライターのキャップを閉じる。
真鍮製のボディーを手の中に弄ぶ。よく手に馴染む。素晴らしい手触りだった。そして、適度に重い。この重量感こそがジッポーの魅力だと黒間は思った。
黒間は銀メッキの輝きに目を細める。
これを平成の御代にオークションにかけたら幾らになろうだろう?
益体ものない妄想を黒間は弄ぶ。
ジッポーライターが日本に普及したのは戦後のことである。普及は意外に遅く70年台以降のことだ。日本はライターの輸出国でアメリカ製の輸入オイルライターなど誰も見向きもしなかった。しかも、戦後に発展したガスライターによって、オイルライターは時代遅れと思われていた。
ジッポーライターが日本市場を開拓するのは、高度経済成長後の富裕な若者向けのファッションアイテムとしてジッポーが認知されてからで、戦前は不遇の時代だった。
しかし、1940年時点であっても、如何なる強風下でも確実に着火し、極めて堅牢で操作性に優れ、オイルの交換も容易なジッポーはその実用性と豊富なバリエーションから来るコレクター性によって世界で最も普及したオイルライターだった。
その誕生は1933年である。
つまり1940年時点で、手に入れようと思えばできないことはなかった。問題は、日本に輸入されていないことである。
黒間がこれを入手したのは、ハルビンのとある古道具だった。中古の日本製ライターに混じって売られていたのだ。
どうして、これが古道具屋に並んでいたのかは不明である。
一つ確かなことはこれがとてつもない掘り出しものであるということだった。
黒間は何食わぬ顔で中古品のライターとしてこれを買い求め、フリントとウィックを交換した。オイルを注入するときちんと火がついた。
素晴らしい。まさにジッポーだった。イッ、ワーク。
「そういえば、お前。煙草は吸わないんじゃなかったか?」
吸殻をもみ消しながら斎田は言った。
一服した後で黒間は答える。
「禁煙はやめだ」
煙草は体に悪い。
21世紀初頭の禁煙活動を見てきた黒間は喫煙が如何に自分と周囲の健康を害するかを知っている。
「どうして?煙草は体に悪いんだろ?」
だから、俺に残り全部俺に寄越せ、と言いたげ斎田から紙袋を遠ざける。
「なんだよ。ケチか?」
「別にそんなんじゃない」
黒間は煙草のパッケージを一つ斎田に投げてやった。
斎田は器用に空中でキャッチする。
「じゃあ、なんだなんだよ」
「煙草は体に悪い。だが、戦争ほど体に悪くない」
黒間はため息と共に紫煙を吐き出した。
遠くで軍隊ラッパが鳴っていた。非常呼集である。
日本軍は南部仏印進駐以後、対英戦を念頭に置いた情報収集活動に余念がなかった。
偵察の主力は、司令部偵察機と呼ばれる戦略偵察機だった。
司令部偵察機というのは帝国陸軍航空隊の発明品で、その意図は長距離、高高度飛行可能な高速偵察機を用いて、シベリアに展開したソビエト軍の動向を直接探るというものであった。
こうした発想は、後にU-2やSR-71、あるいはスパイ衛星に発展し、国家戦略を左右する存在となるのだが、他国でも同様の発想はあっても機材は爆撃機等の転用に留まっていた。その点で、専用機の開発を進めた帝国陸軍航空隊の先見性は高く評価されるべきものである。
1940年現在、帝国空軍の設立でその運用は空軍に移管していたが、司令部偵察機の呼称はそのままであったし、部隊の規模は陸軍時代よりもさらに拡大していた。
それは司令部偵察機が集めるべき情報が、軍事的な分野のみならず、政治経済に及ぶようになっていたからだ。
実際、マレー半島上空でエンジントラブルを起こした司令部偵察機も、偵察したのはプランテーションの作付け状況であった。仕事の発注元は農林省である。農林省の官僚たちは占領予定地の農業政策立案のための資料収集を行なっていたのだ。
司令部偵察機のパイロット達は、アブラヤシの畑を撮影することに何の意味があるのか首を傾げつつも黙々と任務こなし、帰還する途中で事故に遭った。エンジンが一つ、前触れもなく吹き飛んだのである。
後に明らかになったが、原因はエンジンのオーバークールだった。熱帯でのエンジンの運用データはまだ乏しく、パイロットが誤ってオイルクーラーのフラップを開き過ぎていた。
結果、冷えすぎたシリンダーが熱膨張で歪み、内圧に耐えられなくなりクラックが生じた。クラックから気化ガソリンと高圧空気の混合物が漏れ、プラグスパークで点火。右エンジンが吹き飛ぶ。
墜落したのは百式司令部偵察機だった。
今年、制式採用されたばかりの最新鋭機である。
パイロットは何とか海上まで脱出しようとしたが、海岸線を越えたところで力尽きて不時着水することになった。
機体はサンゴ礁の上に乗り上げ海没することもなく、パイロット達も健在であった。
問題は、最新鋭の司令部偵察機とそのパイロット達の処遇だった。
今まで好き放題に上空から覗き見されてきたイギリス軍がこれを見逃すはずない。容易にそれが予想されたので、日本軍の対応も迅速だった。
帝国海軍は遊弋中だった最寄りの水雷艇を回収のため現場に急行させ、帝国空軍は戦闘機一個大隊をローテーションで投入してその上空を守った。
黒間が一個小隊を率いて、高度3,000mで大鷹型水雷艇48号の上空を旋回しているのは、概ねこのような理由によるものだった。
当本人は、もちろん何も知らされていない。
行けと言われたところ行って、やれと言われたことをやっているだけだ。
「ハァ・・・」
黒間は大きな欠伸をした。
太陽は天頂を回って、少し西に向けて傾きかけている。眠くなってくる時間だ。
水上艦の上空直掩というのは酷く退屈な任務で、巡航速度でぐるぐると目標の上空を飛び回るだけで、何事も起きなければひたすら暇である。
直掩に出ているのは2個小隊で、別動の小隊は低高度で警戒していた。
合計8機だ。600tの水雷艇1隻の護衛としては、破格と言っていい戦力である。
どうやら上は、この機会に洋上飛行訓練を行うつもりらしかった。こればかりは訓練しすぎて、訓練しすぎることはない。
GPSやロランCのないこの時代に、単発単座機の洋上飛行は常に命がけだった。機位を失って燃料がなくなれば即座に墜落、死に至る。
頼りになるのは、小さな磁気コンパス一つだけだ。
一応、空軍の各飛行場には誘導電波発信施設があり、クルシー航法装置を使って方位を割り出すこともできたが、誘導電波を出せば敵に爆撃目標を教えるようなものなので頻繁に使えるものではない。
磁気コンパス以外にジャイロコンパスもあったが、これは地球の自転と同期していないので、15分置きに磁気コンパスで修正する必要があった。
もちろん、修正作業は手動である。これを怠るとジャイロコンパスが狂ってしまう。
さらに燃料タンクは30分毎に切り替えしなくてはいけない。そうしないと重量バランスが狂ってしまう。
零式戦には3つの燃料タンクがあり、胴体内と左右主翼にあるタンクを任意に使用できる。長距離飛行の場合は、これに落下タンクが加わるが今回は装備していない。
使う順番は主翼の燃料タンクからだ。これは被弾面積の大きい主翼から早く可燃物であるガソリンを除くためである。
使った燃料タンクと切り替えた時間を太腿に括りつけた記録盤に書き込み、発信時刻と残燃料から残りの飛行時間を割り出す。これには専用計算尺があり、片手で計算できるようになっていた。
帰りの燃料を考えるとあと1時間は飛んでいられる計算だった。
しかし、これは黒間の乗機に限った話である。
列機の3機は黒間よりも早く限界が来る。理屈は簡単で、黒間の飛行に合せて頻繁に速度を調整しなければならない列機の方が燃料消費にムラが出やすいからだ。
少し余裕を見て帰投時間を決める必要がある。
「それまでに、交代が来てくれないとな」
黒間は列機の様子を見た。
少なくとも編隊の維持に苦労するようなことはない。ノモンハンの後に補充されたヒヨっ子達も今ではたくましく成長した。
まだ不足は多いが、地上滑走でもたついていた春先に比べれば格段の技量向上である。
残りの不足分は、実戦で補っていくしかないだろう。
上もその不足が分かっているから、ローテーションを組んで今日のように長距離飛行をさせている。飛行時間は長ければ長いほどいい。
考えるよりも先に体が動くようにならなければ、空の上では長生きできないのだ。
その時、黒間は北の空に動くものを認めた。
断雲の上、水分過多の水色の空に糸くずのような黒い線が見える。
一瞬、黒間は緊張しかけた。しかし、目を凝らすとそれが零式戦の編隊であることが分かる。4機編隊が2つ見える。交代の直掩機だ。
黒間は愁眉を開き、無線で小隊に呼びかけた。
「2時方向に注目、何が見える?」
列機のパイロット達が黒間の指し示す方向に視線を向けた。
接近する友軍機を使ったちょっとした索敵訓練だ。
「友軍機です」
「数は?」
空かさず黒間は質問した。
友軍機と答えたのは、4番機の門田明伍長だ。
「数は6、じゃなくて8」
まず正解といったところだ。
「距離は?」
「1万五千です」
残念だが、そうではない。
「だいたい1万ってところだな。見積もり過ぎだな」
ちなみに、黒間が友軍機に編隊に気付いたのはおよそ20,000m付近のことだ。
目の良さには自信があった。生の人参を齧ってビタミンを補給しているのは、このためである。マズイ肝油ドロップを食べ続けられるのも、このためだった。
黒間は機をバンクさせ、機首を北に向けた。
帰投の時間である。
大鷹型水雷艇48号が現場に到着したのは夜半だった。
夜光虫が輝く海を割って水雷艇が速度を落としていく。
月光を反射する海面に、角ばった水雷艇のシルエットが落ちていた。灯火を管制しているので、明るい海面に比した強いコントラストが、より水雷艇の印象を堅くしている。
特型駆逐艦以来、日本の水雷軽艦艇は艦首甲板の乾舷部のみ高い短船首楼型船体が伝統的に採用され、航洋性の確保に一役買っていたが、大鷹型水雷艇も多分に漏れず同様の形式を採用していた。
その船体は多くの場合、優美ともいえるカーブを描くのが常であったが、大鷹型水雷艇はそれに反して角ばった直線的な構成をしていた。
20世紀後半に現れるステルス艦にも似ているが、実態としては量産性を重視した結果で、ステルス性は全く考慮されていない。
このような船を帝國海軍を建造するに至った理由は、主に第二次ロンドン条約に起因している。
5年間の延長が決定したワシントン、ロンドン海軍軍縮条約の規定により帝国海軍はA-140型戦艦(46サンチ砲搭載の史上最大の戦艦)の建造を始めとする海軍拡張計画が全て白紙になっていた。
新型戦艦の計画中止はそれはそれで帝国海軍に大混乱を巻き起こしたが、それ以上に問題となっていたのが補助艦の数的劣勢の固定化だった。
ロンドン海軍軍縮条約は補助艦の質的、数的な制限を設けており、補助艦を用いて主力艦の数的劣勢を補うという帝国海軍の軍備構想を根幹から否定していた。
帝国海軍はこの軍備構想に基づき特型駆逐艦という極めて革新的な大型駆逐艦の整備に注力していたが、軍縮条約でこれに待ったがかかっていた。
対応策として軍縮条約の範囲内で許される限りの船体に、特型駆逐艦と同等の武装を施した白露型駆逐艦などが建造されていたが、無理な重武装が祟って復元性に難がある船となってしまった。
白露型駆逐艦は後に復元性の回復させるため、武装を一部撤去することになるのだが、それによって平凡な性能の駆逐艦になってしまっている。
これに満足できなかった帝国海軍は特型駆逐艦の正当な後継艦として甲型と呼ばれる新型駆逐艦の構想を練っていたが、第二次ロンドン海軍軍縮条約によって新型戦艦の建造計画共々白紙撤回となっていた。
結果、帝国海軍は艦隊決戦で勝てないという結論に至る。
そしてそこから、帝国海軍は艦隊決戦の主力を条約制限外の航空機(空母艦上機ではない)に転換し、戦いの土俵を抜本的に改める決断をすることになる。
それが帝国空軍設立に至る最初の一歩だった。
しかし、帝国海軍は海軍であったので、やはり水上艦を全て放棄することに抵抗があり、夜戦に活路があるのではないかとも考えていた。
即ち、航空機による昼間決戦と水上艦による夜襲追撃である。
航空機による昼間決戦で勝利した後、撤退するアメリカ太平洋艦隊を夜襲で追撃するというわけだ。
これは日本海海戦でバルチック艦隊に止めを刺した水雷艇、駆逐艦による夜襲の再来であり、ロシア海軍の戦艦4隻を撃沈したという実績もある。
この夜襲構想において主力となるのは、これもまた条約外の戦力である600t以下の水雷艇だった。
小型の水雷艇は視認性が低く、的が小さいので阻止砲火も当てにくい。よって夜襲には最適の機材である。魚雷も近接雷撃のため、高価で取扱いが難しい酸素魚雷ではなく、旧式の空気魚雷を用いた。
被弾すれば一撃で戦闘能力を失ってしまうが、600tの水雷艇と条約型巡洋艦や戦艦なら相打ちでもお釣りがくる計算だった。
そして、夜が明ければ航空攻撃を反復し、陸上攻撃機の攻撃圏から敵が離脱したら、航洋性が高く航続距離の長い大型駆逐艦や巡洋艦、戦艦、空母を使って日付変更線の向うまで追撃し、アメリカ太平洋艦隊を完全に殲滅するのである。
日本海海戦もそうだが、艦隊決戦とはただ一度の戦闘で勝敗が決することは殆どなく、翌日以降の追撃戦や遭遇戦が連続的に発生するものだった。
水雷艇のような小型艦であれば消耗しても直ぐに補充できる。相打ち覚悟の突撃であれば、消耗に耐える数の確保は必須だった。また、数が多ければ、多方面に戦力を貼り付けておくことができた。そうした貼り付け戦力の土台の上がなければ、主力艦隊を機動運用することなどできない。
生産を容易にするため設計段階から建造簡略化を図っており、それが角ばった直線的な48号挺のラインに現れていた。使用する鋼材も高価な高張力鋼ではなく、入手容易な普通鋼である。
さらに駆潜艇と船体を共通化し、ブロック工法を用いることで容易に生産の切り替えできるようになっていた。実際、駆潜艇と水雷艇の差異は武装と機関だけで、変更は船体ブロックの入れ替えだけで済む。
第二次世界大戦勃発で軍縮条約は破棄されていたが、完全な失効は2年後である。それまで建造できる戦闘艦は条約外の水雷艇/駆潜艇しかない。そのため日本全国の小規模造船所では昼夜兼行で水雷艇/駆潜艇をマスプロダクトしていた。48号挺もそのうちの一艦である。
よって、単艦で格上の敵と遭遇した場合にとり得る選択肢はあまり多くなかった。
艦載艇を下ろすために停船した48号挺を背後からサーチライトの強光が照らした。
48号挺を暗闇から引きずりだしたのは、シンガポールを根拠地とするイギリス東洋艦隊の駆逐艦、ヴァンパイアだった。
ヴァンパイアはアドミラルティⅤ級駆逐艦の一艦で、就役は1917年の老兵である。
だが、老兵であっても駆逐艦は、駆逐艦だ。
ちなみに駆逐艦とは、水雷艇駆逐艦の略語で、本来は水雷挺を狩るために作られた船である。つまり、水雷艇の天敵とも言うべき存在だった。
ヴァンパイアの出現は、48号挺にとって全く不意打ちだった。
48号挺にも水上見張り員はいたが、彼らはヴァンパイアの接近にまるで気づいていなかった。マスプロダクトされた水雷艇の乗員の練度など、推して知るべしである。
ヴァンパイアから発光信号で退去勧告がなされる。
この時点で48号挺はイギリスの領海にあった。領海内であっても、軍民問わずあらゆる船舶は無害通航権は保障されているが、48号挺の現況はどのような解釈を以ってしても無害とは言えない。
警告従わなければ、次は警告射撃が待っていた。最後は実力行使である。
ヴァンパイアは4門の主砲を既に照準を終えている。
対して48号挺がヴァンパイアに向けられる主砲は1門に過ぎない。
彼我の砲火力は4対1だった。恐ろしく分は悪い。熊鷹型水雷艇は重量軽減のために主砲を2門に減じており、前後に1門ずつしか装備していなかった。
艦首砲を加えても2対1にしかならず、艦首砲を使うために回頭すれば、回頭中は艦尾砲が使えなくなる。そして、回頭中に一方的な滅多打ちを食らうのは火を見るより明らかだった。
完全に詰みである。
ヴァンパイアは老朽艦であったが、そうであるがゆえに老練な艦長を頂いていた。
48号挺に残された道は、尻尾を巻いて逃げ去るか、非常に分の悪い博打に訴えるか、どちらかしかない。
日英は敵対していたが、交戦状態ではなかった。どちらの船も自衛以外の武力行使は許可されていない。そうであれば、残された道は一つしかない。
はずだった。
新造艦の48号挺を任された経験の浅い中尉の艇長は、少し別の考え方をした。
艦首砲に発砲を命じたのである。
目標はヴァンパイアではなく、浅瀬に乗り上げた司令部偵察機だった。
48号挺の任務は司令部偵察機とパイロットの回収だったが、それが果たせない場合はイギリス軍の手にわたらないように機材を破壊するよう命令されていた。
今がまさにその時であるという判断だったが、これはまずい対応だった。自艦の安全が全く確保されていない状況ですることではない。このような苦し紛れに訴えるのは経験不足の証左である。
突然の砲撃に驚いたヴァンパイアが発砲。期せずして、2艦は戦闘状態に突入した。
結果は当然ながら一方的なもので、ヴァンパイアは一発も被弾しないうちに48号挺を大破させた。
悪手を打った件の艇長は交戦から5分後足らずで、艦橋に直撃弾を浴びて即死。一応、責任を果たした形にはなったけれど、何の問題解決にもなっていない。
さらに悪い事に、破壊工作を図った司令部偵察機はパイロット共々無傷であった。夜間砲撃の命中率というものはとても低い。
本土を失った祖国に、久しぶりの勝利を齎したヴァンパイアは、勇敢だが愚かな敵に敬意を表しつつ、偵察機の回収作業に移った。
勝ち誇るヴァンパイアだったが、彼らはこの後に待ち受ける運命にまだ気付いていなかった。
予期せぬ敗北に熱り立つ東洋の軍事大国は、既に報復の手札を切っていたのである。
夜明け前に離陸した黒間は日の出を洋上で迎えた。
海面に反射する朝陽に目をやられないようにサングラスをかけなおす。
偶にエンジンの排気温度や回転計に目をやる。
厳密に数値を確認することは殆ど無い。いつもと同じ数値が出ているかどうかが問題だった。計器の針がいつもと違う場所にあったら、何か異常があることが分かる。
黒間は視線を空に戻した。
司令部偵察機がエンジントラブルで墜落したらしいことが噂になっていたので、エンジンの取扱に少し過敏になっていた。
ちなみに、司令部偵察機の製造元は零式戦と同じ三菱で、両者は同じヒ式水冷1,000馬力エンジンを使用していた。水冷エンジンは前方投影面積が小さくできるので、速度への要求が高い司令部偵察機や戦闘機に向いている。
大丈夫だとは思うが、用心するこしたことはない。
黒間は視線を下げて、護衛対象の爆撃機を見た。
川崎の双発爆撃機だった。正式には99式双発軽爆撃機だ。数は6機。これは前世でも何度となく護衛してきた軽爆撃機である。
シベリアからニューギニアまで、帝国陸軍航空隊が飛んだ全ての戦場に投入された傑作機だ。現在は空軍機だが、所属は違っても仕事の内容に変化はない。
これを護衛する黒間の仕事も前世と同じだった。護衛の零式戦は8機。
合計15機。これと同じ編成の攻撃隊が他に2群ある。
駆逐艦1隻を葬り去るには過剰とも言える戦力だった。しかし、広大な洋上からたった1隻の駆逐艦を探し出すためにはこれだけでは足りない。
他に先行する水上偵察機があったが、海の広さに比べればその数は十分とは言えない。
『同胞の敵討ちだ』
出撃前の訓示を脳内で反芻し、黒間は鼻を鳴らした。
同時にため息をつく。
戦後の民主主義に毒されすぎたのか、今ひとつ当世流の堅苦しいやり口に肩が凝る。
人類皆兄弟というわけにはいかないのだろうか?
もちろん、人類初の殺人が兄弟殺しであるのはしかと存じあげているけれど。なぜ、カインはアベルを野に誘ったのだろうか?
余計なことを考えつつも黒間は空から敵を探しだそうとしていた。
この辺りは黒間は全く実際的で、情け容赦なかった。
確実に敵を先に見つけ、先手をとって一方的に撃墜する。格闘戦のような疲れることは出来るだけしない。安全、確実がモットーでなければ長生きできない。敵からの一切の反撃を受けぬままに一撃で殺すのが最善手である。
今日の天気は晴れ。赤道直下にしては雲が少ない。
発達した積乱雲がないのはよい傾向だ。積乱雲は高度10,000m超えて成長することもある。
爆弾を抱いた戦闘機で敵艦に突入するほど攻撃精神旺盛な帝国陸海軍も、積乱雲には突入しない。
積乱雲の中は、突風と雷の巣だ。例えB29のような大型爆撃機であっても、積乱雲に突っ込んだら生きては出られない。
その時、電子音が黒間の耳を打った。
「無線封鎖解除。クロ。今のは聞こえたか?」
第1編隊を率いる中隊長の篠原が言った。
とても嬉しそうだった。
ホロンバイルの撃墜王は生粋のファイターパイロットである。久方ぶりの空戦の予感に胸をときめかせている。
「ヒ連送ですね。かなり近い」
続けて送信されてくる緯度、経度の情報を手元のフロップボードのチャートに書き込む。
ヒ連送とは、飛行機見ユの略符号だ。
送信してきたのは先行する水上偵察機らしい。現在位置から100kmほど南だ。巡航速度でも30分足らずで到着する。
続けて、テ連送が来た。敵艦見ユの略符号。
「変針する。我に続け」
護衛の爆撃機が変針し、戦闘機隊がその後に続く。
軽爆の排気管が一際強くブラストを吐いた。
長距離飛行のために限界まで希薄燃焼させていたエンジンが加速のために濃いガソリンを与えられたためだ。
黒間もMCのレバーを自動に切り替え、遅れないように速度を上げる。
ただし、対艦攻撃のため軽爆が高度を下げていくのに対して戦闘機隊は高度を下げない。
空対空戦闘のセオリーだった。高度と速度を維持せよ。
理想なのは、最高速度まで加速してから戦場に突入することだった。しかし、爆撃機の護衛をしなければならないので速度は上げられない。
敵機は何機だろう?
黒間は出撃前のブリーフィングの内容を思い出す。イギリス空軍がマレー半島に配備している戦闘機は20機足らず。高性能なスピットファイアはいない。
機種はアメリカ製のブリュースターF2A。これは前世でも対戦したことがある。感想は特にない。パイロットは優秀だったと思う。しかし、隼相手に格闘戦を挑むのは無謀だった。
駆逐艦の護衛に全部を投入することはないとして、上空に張り付いているのは5、6機か。或いはもっと少ないかもしれない。
偵察機の類を追い払うだけなら、3機1個小隊でも十分だ。
こちらは8機。数で圧倒できるならそれに越したことはない。ただし、爆撃機護衛のために、あまり自由には動けない。例え敵機を落とすことができても、爆撃機を落とされては無意味だ。
黒間は深呼吸を繰り返す。
ノモンハン以来の実戦である。
顔に嫌な感じの脂が浮くのが分かった。
スロットルから左手を離し、強く握る。そして、開く。手の表面に粘り気を感じ、航空手袋を外して、飛行服に擦りつけて落とす。
まだ動悸があるような気がして落ち着かない。
そこで黒間は酸素マスクを装着し、酸素瓶のコックを捻った。冷えた酸素を吸う。すると気分が落ち着いた。
酸素マスクは高高度飛行の際に使うものだが、気が立っている吸うと鎮静作用がある。
ただし、吸い過ぎると酔うので気をつけなくてはいけない。もう一つ注意事項があり、絶対にタバコを吸いながら酸素マスクを使っていけない。顔面を大やけどすることになる。そういう事故が戦時中に幾つかあった。
会敵予想時刻が来る。
「敵機発見。2時方向。3機」
中隊長の篠原中尉が言った。
撃墜王は誰よりも良い目をもっていた。時々、見えないはずのものまで見えているのではないかと思う時がある。
黒間は燃料タンクを切り替え、落下増槽のレバーを引いた。
零式戦は増槽を切り離す。
「俺の小隊で敵機を叩く。クロ小隊は爆撃機を援護しろ」
篠原機が加速する。列機が後に続く。
4対3なら、負けない。ただの4機ではない。撃墜王の率いる4機だ。
戦闘は呆気無く終わった。上方からの一撃離脱で敵機は火を吹いて落ちていった。生き残りも追い回され、駆逐艦の護衛どころではない。
黒間はそれを傍観しているだけだった。
あれほど難渋して心の整理をつけたのに、戦闘の実相など、こんなものである。
軽爆6機は散開して高度を下げる。海面近くまで下げる。
既に敵機がいないので、黒間は高みの見物を決め込む。最高の見世物だ。
海面近くまで降下した軽爆は、2隊に分かれて駆逐艦を包囲した。左右からの挟撃だ。雷撃でもするのかという低空突進だったが、軽爆が抱いているのは魚雷ではなく爆弾だ。
離陸前の打ち合わせでは護衛や進撃、帰投の手順の話はあったが、具体的にどのような攻撃が行われるのかは明らかではなかった。
駆逐艦は舵を切って挟撃から逃れようとする。だが、動きは亀のように遅い。遅いといっても、速度は30ktは出ていた。軽爆の方が早すぎるのだ。
軽爆が機敏に旋回し、駆逐艦の真横を捉えた。
駆逐艦の対空砲が撃ち始める。しかし、弾幕は薄い。そもそも弾幕とは言えないような射撃だ。1945年の米空母機動部隊の対空砲火を見たことがある黒間には何とも言えない長閑な射撃に写る。
しかし、対空砲火に向かって突進する軽爆の後ろ姿には純粋にしびれた。
アレは勇気そのものである。
駆逐艦に肉薄した軽爆がついに爆弾を投下。
黒間は、海面にいくつも波紋が疾走るのを見た。
そうか、反跳爆撃か。
黒間はようやく軽爆部隊の意図するところを掴んだ。
前世でも、何度か見たことがある。主に、敵がそれを日本の輸送船に食らわすのを。アメリカ軍のB25爆撃機が多用した手だ。
反跳爆撃とは、爆弾を石の水切りに見立てて艦船の側面を狙う対艦攻撃戦術の一つだ。250kg爆弾が小石のように海面を跳ぶのだ。雷撃と違って、反跳する爆弾は投下する軽爆と同等のスピードなので機動による回避は殆ど不可能である。
命中した爆弾は船舷を滑り落ちて、海面に没してから遅動信管によって爆発する。水中爆発で船の水面下を破壊するのは魚雷と同じだ。
ただし、魚雷と違って投下速度の制限は小さい。
黒間はリアルタイムで見聞きしてたフォークランド紛争ではジェット戦闘機のミラージュがイギリス海軍の駆逐艦や輸送船を反跳爆撃で攻撃していた。
精密機械の塊である航空魚雷は投下速度に制限があり、対艦ミサイルが一般化するまではジェット戦闘機による反跳爆撃が唯一、有効な対艦攻撃戦術だった。
帝国空軍が反跳爆撃を雷撃の代替品として採用したのも同じ理由である。
この時期に九六式陸上攻撃機が装備していた九一式魚雷は投下速度制限があり、130kt以上で投下することができなかった。今後、さらに高速化が見込まれる陸上攻撃機の主力兵装としては、これでは使い物にならない。
魚雷の改良で対応可能という意見もあったが、空軍化の流れの中で有耶無耶になり、その中から反跳爆撃が現れ、雷撃不要論が一般化していた。
雷撃不要論とはその名の通り航空雷撃を廃止し、対艦攻撃を爆撃のみに限定する非常にラディカルな主張である。
しかし、陸軍航空隊出身者の大半が支これを支持し、海軍航空隊も支持者は少なくなかった。
実際、一本で家が一軒立つ航空魚雷は高価、複雑で量産困難であったし、実戦で使えるように調整するのに専門の調整員が必要だった。魚雷に比べて遥かに安価で整備しやすい通常爆弾で同じことができるなら、敢て魚雷を用いる意味はなくなってしまう。
軽爆撃機が投下した250kg爆弾は合計で12発。
その内の8発が船舷に直撃し、海面に落ちた後で遅延信管を作動させて水中爆発を起こしていた。発生したバブルパルスが駆逐艦の水面下を乱打し、大破口が空いた。
駆逐艦の行き足が止まる。
水中爆発でスクリューシャフトが曲がったためだ。同時に舵が破壊され、操舵不能になる。破口からの浸水も急速に拡大。浮力が急速に失われ、駆逐艦は急速に沈みつつあった。
以上がシャム湾事件と呼ばれる日英の軍事衝突の顛末である。
四国同盟の締結と日本軍の南部仏印進駐により悪化していた日英関係はこれにより完全に破局し、日本政府は1週間後に国内世論の支持受ける形でイギリスとの国交断絶を宣言した。
アメリカ合州国は日本の南下を阻止するため追加経済制裁を発動し、対日全面禁輸と在米資産凍結を発表したがこれは殆ど無意味だった。
何故ならば、三ヶ月後の1940年12月8日。全ての準備を完了した日本軍は宣戦布告同時攻撃を敢行。マレー半島、ボルネオ島に奇襲上陸したからだ。
これによって欧州の戦火は全世界に広がり、文字通りの意味で第二次世界大戦が始まった。